雑記帖

存在します

年末ウィザード

Q. 自分よりも頭のいい人を、人をというのは登場人物を、生み出したいと思ったことはありますか?

A. はい。

Q. そのためにはどんなことが必要になると思いますか?

A. 頭のいい人を作り出す方法にはいくつかあるのですが、ひとつには、一般に頭の良さと何らかの関係を持っているとみなされることがある指標を利用する方法があります。つまり受験においてレベルが高いとされている学校に良い成績で合格しているとか、IQが200オーバーだとか、300オーバーだとか言うとか、そういう類のものです。でもこれは大抵の場合うまくいきません。

Q. なぜですか?

A. 実質が伴わないからです。あるいはあまりに紋切型であるために、実質を生み出すことができないからです。というよりはむしろ、こうした表現を用いる人がそこで実質を生み出そうとする傾向にない、と言ったほうが適切かもしれませんが。単純に作者がばかだと思われる、というのもあります。

Q. ほかの方法はありますか?

A. 同様の理由でうまくいかない方法としては、ある種の無限後退をともなう形容詞を用いることです。つまり「天才」であるとか、「頭脳明晰」であるとか、そういった言葉を用いることです。「美しい」という形容詞と同じように、その内容は他のパラディグムを想起させるという形式でしか内容を担保することができず、したがって実質がないのです。あるいはまた、偏屈だとか、私生活がだらしないとか、そういうサンタグムの側から逆に「天才」という言葉を不在の中心にすることもできますが、いずれにせよ紋切型であって実質がないという点では同じことです。

Q. なるほど。しかしそういったサンタグムをばらまく方向のうちには成功しているものもあるような気がしますね。

A. そうですね、それが紋切型でなく、独自のものであるほど成功の余地が生じると思います。いずれにせよ、自分より頭のいい人を創造するというときには、すべてを透明にすることはできない、という前提が重要です。

Q. つまり?

A. 自分にとって理解可能な、解釈可能な形で天才性の思考を与えるかぎり、もちろん凝縮の度合いで誤魔化すことはできますが(たとえば自分なら5時間かけて解ける謎を1分で解かせるとか)、作者とスケールからいって同程度の頭のよさしかその人には与えることができない、ということです。

Q. べつにそれでもいいですけどね。ホームズとかはそうやって生み出されているような気がしますし。

A. まあね。

Q. 気安いですね。

A. しかし、凝縮の度合いが高まれば高まるほど描写はわざとらしく、荒唐無稽なものになってしまいますし、スケール的に、というのは質的に、ということでもいいですが、異なる頭のよさを生み出したいと思うなら、それは原理的に作者にとって理解不可能なので、その頭のよさの実質は作者にとっても隠されているしかないということになるということ、それは否定の形式によってしか与えられようがないということ、これが問題なのです。

Q. 自分であるならば自分のことを完全にわかっているとでもいうような言い草ですね。

A. 悪かったね。

Q. ともあれ、その意味では自分より頭のいい人を語り手にしようとするのは単なる登場人物として描くよりも困難な課題となりそうですね。

A. 内的焦点化をともなう場合は特にそうなるでしょうね。しかし少なくとも、このような対話形式をとるかぎりにおいては、描写は完全に表面的なものとなるのでそうした困難は生じないということになります。

Q. あなたは以前、悲しそうにすることと悲しいこととのあいだの微妙な間隙について考えていたことがありましたね。

A. はい。

Q. 先ほどの質問はその内容を教えてほしいということを含意していました。

A. そうでしたか。

Q. 先ほどの質問は、わたしは先ほどの質問にその内容を教えてほしいという意を込めていたので、改めてそれをお願いしたいというメッセージを含んでいました。ぜひ、あなたが以前考えていた、悲しそうにすることと悲しいこととのあいだの微妙な間隙について教えていただけると嬉しいです。

A. とりあえず、「悲しい」と思うことがあるということと、人が悲しそうにしているということは外部から観察可能であるということを前提するとします。そうしたときに、悲しむ、ということはどういうことかが問題になるのです。わたしは悲しんでいる、ということを表明することなしに、つまり悲しそうにすることなしに、人はほんとうに悲しむことができるのか、ということですが。人が死んで悲しいと思うときに思うだけで十分なのかどうかということでもあります。

Q. そういう話をしたときに、ああジェームズ゠ランゲ説とキャノン゠バード説との対立の話だね、みたいなまったく的外れでスノビズムに満ちた応答をされるのが嫌で仕方がなかったということですか?

A. そういうことはありましたし、これからもありますし、今後なくなってほしいと思うだけ無駄ではあるとしてもなくなってほしいとは思いますが、ここでの話にはその応答(それは本来応答と呼ばれるべきではないのですが……では何かといえば「叫び」などになるでしょうか)の内容が関係ないのと同程度に関係がありません。

Q. ところでそれは悲しいということ以外にも当てはまる話ですね。

A. そうです。自分はまったく優しくないと思っている人が、「自らの意に反して」優しい行いを一生続けた場合、その人は優しい人間であったと言えるのかという問いでもあります。問いだと言いましたが、実用的な観点からすれば、人は優しそうな行いの連合を観察したときにその人を優しい人間だと思いなす傾向があるので、そうした傾向は描写に役立てることができるということでもあります。

Q. つまり、「ダンブルドア的要素」を多数連合させることによってまさにダンブルドアが顕現する、あるいは「生まれる」、そうしたことでしょうか。

A. それは答えにくい問いですが、というのはつまり、「ダンブルドア的要素」とは何かということがそこでは改めて問題にされる必要があるからです。どちらかというと、ある連合がある程度の自然さをもって連合可能なときにのみ、人物が創造されると言ったほうがいいかもしれません。「自然さ」は「凡庸な想像力」と言い換えることができますが。

Q. 要素に極端な欠落や矛盾がある場合は不条理となると?

A. そうした実験はつねに可能ですね。

Q. 創造するということについてもう少し。

A. 創造するということはある意味では想像するということと対立するものであって、他者との衝突でもあります。自己複製の幽霊との対話に淫するのも結構といえば結構というか、そうしたことに対して誤魔化しがない場合は結構なのかもしれませんが、手紙は届かないことがあり、ダンブルドアは反トランスジェンダー的な言動をしないと完全に信じることができて、そして幽霊はわたしを徹底的に裏切る、そうすることによって初めて創造がなされるのだと言えるのです。

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Q. 家は寒くないですか?

A. よくわかりましたね。

Q. お風呂に入っても出たらすぐに身体が冷えて、布団に入って毛布に包まってもどうにも寒いままで、エアコン暖房なんかつけても温まるわけもなく「耐えられないほど寒い」から「耐えられる程度には寒くない」への移行だけが延々と続くような冬を過ごしているのは虚しくありませんか?

A. 言いたいことを全部言わないでください。

Q. なぜですか?

A. あなたはキューで、わたしがエーだからです。

Q. あなたの言いたいことはなんですか?

A. わたしの言いたいことは、今年見聞きしたもの、好きになった映画や本や音楽、今年のツール・ド・フランスやなんとなく見ているサッカー、音楽のなかでも人に知られておらず、人がもっと知るとよいと思うもの、好きな曲私的ランキング10選、映画の中でも衝撃的だったもの、本の中でも特に分厚かったもの、分厚かったものを読み終えたことを誇示すること、あるいは本を鈍器として扱うこと、本を振りかざし、振りおろし、ページを血で汚して人を殺すこと、人の死を悲しむこと、今年亡くなった人を追悼すること、喪に服すこと、そうすることによって悲しむという行為を果たしかつ諦めること、生活のちょっとした変化、人間関係の難しさ、人生の機微、このまま死んでいくということ、あるいはこのままでは死ぬことはできないようだということ、つまり否応なく変化していく生活に対する不安、社会にたいする怒り、変革の希望、革命の狼煙、あるいは弾圧、とかなんとか、薔薇の花、もっと言えば紫陽花の花、あるいは紫陽花という名前をもつ人、あるいは想像、そして創作、自分がつねづね考えていて人はそれほど考えていないと思うすべてのこと、ではありません。

Q. ありがとうございました。