雑記帖

存在します

観光案内人

 中央分離帯に取り残された人がこちらに手を振っているのが見えますね? あれをどうして中央分離帯と呼ぶのかというと、むかしは中心と周辺というのが分かれていて、人間は互いに争っていて、不公平というものが、つまり公平でないということですが、意味をもっていて、車というものがあって、道路というものがあちらこちらをつないでいて、つまり世界はひとつではなくって、車といっても今のような人力車ではなく、電気やガスで動くようなもの、自動車と呼ばれていた時期もありましたが、むかしの人の命名の感覚にはちょっと信じがたいものがあります、そういうもので、むかしはそういうものを多くの人がもっていて、それを乗り回す、最近はあまり聞かない複合動詞ですが、そういうことが日常的に行われていたのです。中央分離帯だけはいたるところにあるのでみなさんにも子どものころから馴染み深いのではないかと思いますが、それが本来なにを分離するためのものであったのか、みなさんにはアパルトヘイト、ガザの壁、"Separate but equal"、そうした語とともにあるような言葉の痕跡が薄気味悪くもまた魅力的に、むかしは廃墟に通うことが流行していた時代があって、つまり廃墟というのは今のようにわたしたちとともにあるようなものではなく、ある種の非日常性、つまり日常の裂け目であるということですが、道路というものが保存されなかったのは、廃墟というものとは違って、それが存在しているものだとは思われていなかったからなのです。場所はいかようにも保存されることができたのですが、場所でないものは保存されることができなかったので、あるいは単に保存されるものとみなされなかったので、このように中央分離帯だけが残って、道路はなくなってしまった、あの時代がみなさんもよくご存知のように文化というものを広く保全しようとしたものであったからには、それは結局文化という概念を放棄することによって終わるしかなかったということは、歴史が証しているというわけです。

 では、なぜあの人は取り残されているのかということが当然気になってくるわけですよね。取り残すという複合動詞もみなさんにとってはあまり馴染みがなく、たとえば五月雨の降り残してや光堂の「降り残す」と同じように、なんだか意味はわかるようだが自分ではうまく使うことのできない前時代の言葉として考えられることが多いのだろうと推察しますが、ともかくあの人は取り残されているわけです。つまり、あの人はこちらへ来ることが叶わず、まだあちらにいるということです。こちら、あちら、つまり分離があるころの意味においてですが、あの人はあちらからこちらへ来たかったのだが、来ることができなかった、どうしてかというと、あの人が進むことを妨げる規則があり、あの人はその規則を内面化していたのです。言い換えると、規則が外挿されるのではなく、むしろ人間の内面、つまり肝臓とかのことですね、そういうものに作用することによって効力をもっていたということですが、このようにわずかな時代の変化によって人間はかくも変わってしまうのだということが、そのときどきを生きている人間には自覚されないということがもっとも驚くべき事態かもしれません。わたしだってこのように、たまたま前時代との奇縁があってこそみなさんに対してお話をすることができているわけですが、それも結局はある種の、むかしは、むかしは、むかしは、……。みなさんがハと発音するところの一部をわたしがワと発音していることを気にしていらっしゃいますか? 言葉も人間が変わるにつれて変わるしかないというのはわたしの師匠の教えのひとつではありますが、つまり人間が人間を教えていた時代があったということですが、人間が何かを教わることによってよりよくなると考えられていた時代があったということですが、……あの人は、信号がアカを示すことによって取り残されているのだと言われています。アカというのはみなさんもよくご存知のように、薔薇色のことです。むかしは色を抽象的な名前で呼んでいたのだといいますが、これはいかにも不便なことだと感じられますよね。ホメロスという人が薔薇色という言葉を作ったのだとされていますが、これはかなり最近の時代に属することなのだろうと思います。

 これでかなりのことを説明したことになりますが、説明というのは冗長であることを旨としていても、本来的には短ければ短いほどよいとされているので、……逆かもしれませんが、いずれにせよ「手を振っている」ということについてわたしがまだ何も説明していないことを、みなさんは不審に思っていらっしゃるかもしれません。まあみなさんが何かを考えているなどとわたしが思っていると考えられるのは心外なのですが、よくわからない言葉をまあ次から次へと使いやがって、どうせ今度はあの人が手を振り回しているとか手を振り残しているとでも言うつもりなんだろうとみなさんが仰るのもごもっとも、いえ実際に仰ったかどうかはこの場合問題ではないのです、つまり人が人に何かを伝えるときに、相手が自分のことをどう思うかということをあらかじめその反応のうちに組み入れながら、組み入れる、組むと入れるからなる複合動詞ですが、何かを言うということがかつては日常的に行われており、ほんとうに人の話を聞いてはいなかった、もちろんみなさんはそれとはまったく別の形でわたしの話を聞いてはいないわけですが、手を振るという行為はかつてはいくつかの記号性を帯びていた、帯びるという言葉には中央分離帯が語源的な関わりをもっているというのが、もんぺと門扉のあいだには深い関わりがあるということと並ぶわたしの二大仮説なのですが、ある人は、誰かと誰かが出会うときに手を振るということがあったのだと言い、またある人は、誰かと誰かが別れるときに手を振るということがあったのだと言います。こう聞くと、ひとつの記号がまったく相反する意味をもつというのは、pretty strangeな事態だとみなさんには感じられるかもしれませんが、そうではなくって、これは結局ひとつの記号性、つまり境界に立っているということに拠っているのです。言葉が消えて沈黙のきのこが生えてくる場所、沈黙の霧が晴れて言葉の雨が降ってくる場所で、人は手を振るのだとされています。すみません、みなさんが比喩に慣れていないことを忘れていました。怯えなくても大丈夫ですよ。

 さて、それでは最後に、あの人が何であるのかということについて、いま考えられている仮説をいくつか紹介して、わたしからのお話は終わりにいたします。……しかしもう時間がないようなので、このお話は一旦ここで終わりにさせていただきます。それではさようなら、よい旅を。