雑記帖

存在します

階段

さいころに読んでいた『ものぐさトミー』という絵本のことをときどき思い出す。主人公のトミーはほぼ完全に自動化された家に住んでいて、朝起きてからお風呂に入り、歯を磨いて着替えをし、食事をとるところまで、すべて機械が見事にお世話してくれる。トミーがするのは午後をかけて階段をのぼり、ベッドのある部屋までたどり着いて眠ることばかりだ。ところがある日、トミーの家に繋がる送電線が壊れ……という話でそこからは教訓めいた展開になるのだけれど、問題にしたいのはその先ではない。幼少期から折にふれて思い出すのは、トミーが午後をかけてのぼることを求められているその階段のことだった。昔は疑問にも思わなかった。ベッドが上にあるのだから、階段をのぼらなくてはいけないのは当然のことだと思っていた。しかしだんだんと、それだけ自動化された家において、階段をのぼる、というかトミーをベッドに持ち上げるだけの機構を用意できないはずがないということに思い至り、それからは階段が、単に印象的なだけではなく不可解でもあるようなものとして思い出された。階段が登場するのは、トミーの日々のルーティンを示す物語の前半だけで、後半で機械のしっちゃかめっちゃかが描かれるなかで階段はまったく消失してしまう。そういうわけでその階段は、まったく物語の展開上は不要な余剰としてあるように思えるのだけれど、それゆえに、それにもかかわらずということではなく、それゆえに、まったくトミーの生活に、その物語に、もっと言うなら物語の読み手に、というかわたしに、なくてはならないもののように思えた。その階段こそがトミーの生活を生活たらしめ、この物語を世界たらしめ、わたしを人間たらしめるものであるように思えた。

東京大学本郷キャンパスの総合図書館のエントランスにある大階段は大学制度の誇大妄想を露骨に示すものとして嫌厭と愛着を同時に生み出してやまないものだけれど、わたしがそれを初めて見たときに思い出したのはやはりトミーの家の階段だった。赤いカーペットのかかった、楽園への通路。一段一段を踏みしめるようにしてのぼらなければ上の階までたどり着けないと感じることが増えた。筋肉量が落ちたせいだ。地下鉄を降りてから地上に出るまでの階段をのぼるときにわたしが取り戻しているのは朝に失った高さではないはずなのだけれど、典型的な帰路では階段をのぼってのぼって降りてのぼるので、余計に何かを失っているような気分にさせられる。典型的な行く道は降りてのぼって降りて降りるようになっていることを考えると結局釣り合いはとれているので、最初の直感が正しいのかもしれないけれど。家に帰るために階段をのぼるときに、わたしが生きているということのもっとも単純な意味がその一歩一歩に宿っていなくてはならないように感じる。いつやめてもいいことを、こうして続けているからには、階段をのぼらなくてはいけないのだし、もちろん降りなくてはいけないのだし、エスカレーターの右や左や中央に立って運ばれていかなくてはいけないのだと思う。トミーが階段をのぼることができる秘訣もきっとそこにある。柔らかいベッドで眠らなくてはいけないのだし、身綺麗にしなくてはいけないのだし、一日に何度かは食事をとらなくてはいけないのだ。そうしたことがトミーを人間たらしめるのでトミーは階段をのぼるのだし、だからこそ階段をのぼることがトミーを人間たらしめるのでなくてはならない。

何かをすること、何かをすると決めることそのものよりも、何かをするのはどうしてかと説明することが難しいと感じることが増えた。他人に対しても自分に対してもということだけれど。切迫感それ自体は理由にはならないような気もするけれど、ともかく切迫感に駆られてここ数年の航路を決めてきたからにはそれも仕方がないことなのかもしれないと思う一方で、そのわたしをここ数年駆り立ててきたところの切迫感がどれだけもともとわたしの生に埋め込まれていたものなのかということは正直に言ってよくわからない。とは言っても、一年ほど前からわたしが続けて感じているのは、今こうしてわたしが生きているということは、信じがたく危うい隘路を抜けた先にかろうじて成り立っているような、人が奇跡と呼ぶような、そのような出来事なのではないかということだ。

春の終わりの音楽をずっと集めていた気がするのにほとんど忘れてしまう。

減らず口をたたいているうちに声が耐えがたいものへと変じていた。

数年前に「新しい名前が必要だ」という言葉を読んだはずだ。

わたしは卒業式の日に「はい」と返事をして起立した。

欲しいとも思わない香水ばかりがたくさんある。

近所の花屋を遠くに眺めるばかりだった。

今朝の夢はいいところで終わった。

肉よりも魚が最近は好きだ。

新しい眼鏡を買った。

映画に行こう。