光の火

別の仕組みを考えたほうがいいと思う。べつに大丈夫だよ、失敗なんてよくあることだし、それにそもそも、失敗できないんだったら何かをやる意味なんてない。自分の血を初めて見たときのこと、覚えてる? わたしは覚えてる。わたしも体なんだって思ったな、へんな言い方だけどさ。ここから始めたいと思った、ここで終わりにはしないって。最近は恰好つけることがあんまり苦しくなくて、じゃあずっと苦しかったんだってちょっとおかしくなったけど、そうやってあなたがいたときに話しかけたり、困っていることがあったら助けられることを探してみたり、そういうあたりまえのこと、嘘をついて平然としているみたいな異常なことではなくって、明らかに嘘だとわかる嘘を冗談として言うふつうのこと。死ぬまで種明かしのない手品をほんとうの魔法のように思ったんだよ。1億年後に成就する呪詛があなたにとっては祝福みたいに聞こえたんだって、そうやって話していたこと、いまでもときどき思い出すみたいで。

夕方の海に行って、砂の上に座って本を読んでいたら、同じことをしている人が隣にいて、そのひととわたしの違いというのは、そのひとはサンダルを履いていて、わたしはスニーカーを脱ぎ捨てて裸足で、その人はきりっとした短髪で、わたしはぼやんと広がった長髪、他にいくらでも数え上げることができそうだけど、とにかくそのひととわたしは同じことをしていて、ときどき姿勢を変えたり、砂でいまだけの腰掛けをあつらえたりしながら、じっと本を読んでいて、日が沈むまでそうしていた。あなたは山育ちだから知らないかもしれないけど、海の端に沈む夕日って、ほんとうに水に火を浸すみたいなんだよ。水も燃えるんだって思った。無数のわたしの可能性のひとりひとり、「こんなはずではなかった」と「こうでしかありえなかった」と「そうだったかもしれなかった」と「そんなのってありえない」がわたし、ひとりひとりが同じくらいにわたしだ、たまたま、光がなくなるまで波から逃げて遊んでいた、火が消えて夜だった。

きれいな言葉やきれいなものだけ集めて生きていけるとは思わない、そもそも言葉やものだけで生きていけるわけじゃないし、擬制と犠牲こそがわたしを生かすのだし、わたしはきっときたないもののなかのきれいなもの、きれいなもののなかのきたないものだった、人間の歴史のなかで、ヘルマフロディート、あなたと同じように。だから、だからというわけでもないけれど、気取ったり格好つけたり品のないものに顔をしかめたりすることを生きていくこととして、人間のふりをしていたい。わたしのなかのえたいの知れないものを、街のどこかに分け置いて歩み去ること。

たばことパフェの超克

映画やドラマに出てくる人がたばこを吸っていると、自分でもたばこが吸いたくなる。変だと思う。そもそも、人が何かをしていると、わたしもそうしたくなるということがおかしい。実際のところはたばこの煙を見ているとそうしたくなるということなのかもしれないけれど、それでもおかしい。たとえば喫煙所のそばを通ったとして、そこでたばこを吸っている人を見ても、特にたばこを吸いたくはならない。けむい、と思うだけだ。けむーい、と思う。けむくないのかしら、と思って、けむくない、で合っているのかどうか、べつにわたしはぜんぜん自分の使っている言葉を信じていない、と思う。それで実際にたばこを吸ってみると、そんなに大きくもない筒からもうもうと煙が出てとてもおもしろい。機序がわからない。たとえば映画やドラマに出てくる人がパフェを食べていたとして、パフェを食べたくなることはそんなにない。たとえばわたしがたばこを吸っているわたしを鏡で見たとして、たばこが吸いたくなることはそんなにない。おいしそう、とか、けむそう、とか思うだけだ。思うだけで終わって、パフェを作り出したり、パフェ屋さんを探したり、たばこを巻き出したり、たばこ屋さんを探したりはしない。たばこを巻きたいと思ったことがないから、たばこを巻いたことがない。パフェを作りたいと思ったことはあるけれど、パフェを作ったことはない。街中でたばこ屋さんを見かけることはあるけれど、それをたばこ屋さんだと思ったことはない。「たばこ」と書いてあるからにはたばこを売っているに違いない、と思うだけだ。パフェ屋さんを街で見かけたことがあるような気がするけれど、ここにパフェ屋さんがある、と思うだけで、パフェ屋さんだ、とは思わない。そう思うことができないということではなく、単に思わない。パフェ屋さんに入ってそこで買うことができるパフェを、パフェだ、と思ったことがない。お金を出してパフェを食べることを、パフェを買う、と思ったことがない。パフェとたばこには似ているところがいくつかあり、似ていないところがいくつもある。たとえば、パフェはたいていの場合、コンビニのレジの後ろに並んでいて、何番ください、と伝えることで買うことができる。たばこの根元にはコーンフレークが詰まっている。買うと入れ物も一緒についてくるので、わざわざ専用の入れ物を買ったりしない。

映画やドラマに出てくる人がたばこを吸っていると、きっと不健康なんだろうな、早めに亡くなるんだろうなこの人は、と思う。わたしがたばこを吸っていると、きっとわたしはいま不健康なんだろうな、早めに亡くなるんだろうなわたしは、と思う。パフェをまったく食べない人と多く食べる人、切れ目なくパフェを食べる人、パフェ休憩と称して屋上にあるパフェ所、パフェ処かもしれないけど、そこでパフェを食べて、パフェミュニケーションをして戻ってくる人が、パフェをまったく食べない人に比べて早く死ぬのかどうかあまりよく知らない、と思う。そういう追跡調査をしてみるのはどう? パフェをたくさん食べるほうがさ、意外と長生きだったりするかもしれないでしょ? 長生きだったとして、それが何だっていうの?

–I smoke! I smoke all the time!

–Well, nobody's parfait.

パフェのような人間などいないさ。もちろんそうだ。ちょっと風が吹いたら上にまぶされているカラースプレーが飛んでいってしまうわけだし、夏には頭が溶けてしまうわけだし。そもそもパフェのようになりたいと思ったことがない。たばこのようになりたいと思ったこともない。パフェはパフェグラスに従う。たばこはフィルターに従う。わたしはわたしの器に従う、だから、わたしがたばこを吸って吐いても、パフェを食べても、わたしはたばこになったり、パフェになったりしない。別にそれでいい。もう諦めたんだ、パフェになるのはさ。もう諦めたんだよ。しょせんパフェにはなれやしないってわかったんだ。だから大丈夫。

わたしのゆうれい

引っ越してきたばかりだったので、家の場所をまだ覚えていなかった。下り坂の途中で曲がり道に逸れると、短い橋があって、その先には畑があって、その先は違う街だった。もう二度と家には帰らないと思って、怒りをたずさえて、寂しくさえ思って出てきたところだった。雨の秋だった。好きな木の陰に座りこんで、傘の屋根を眺めていた。水色の光だった。

引っ越してくる前に住んでいた街は、引っ越してきた街と150kmくらい離れていて、車で急げば2時間くらいで行くことができた。幼かったので車の運転はできなかったけれど、電車でも行くことができるということは知っていた。行くことができるという確信があった。世界は中途半端に広がっていて、わたしはその2つの街を端点とする線分の上で自分の場所を定めかねていた。住んでいた街に帰ったら、あのころの通りにわたしの友だちとわたしが暮らしていて、わたしはそれを見る、見るだろう、と思っていた。

引っ越してきた街から、引っ越してくる前の街に、わたしはまた引っ越した。小学校のころに学芸会で演じた劇は、大体の場合ひとつの役に複数人が割り当てられていて、わたしはそれを観るときに少なからず混乱したけれど、わたしが演じるものもそうだったし、どことなく学校全体が共犯めいていた。3人のメロスは、別れたときとは別の人になっている2人目のセリヌンティウスに再会する。1人目のディオニスに改心の機会はなく、メロスと抱き合うことができるのは2人目のディオニスだけで、わたしはたぶん、わたしもそうなのだろうと思って、それと同時に、わたしがそうであるのと同じくらいに、あなたもそうなのだろうと思った。

東京に出てきてから、わたしのそれまでに住んでいた冷帯の街は、わたしの出身地であって故郷であることになった。これまでにも何度か書いているけれど。わたしにわからないのは、わたしが東京に出てこなかった場合に、同じように冷帯の街はわたしの故郷となっていたかということで、そうなっていないはずだとわたしはこの9年考えてきたけれど、もしかしたら、そんなことを考えるだけでももうわたしは東京にいて、わたしでなかったはずのわたしと、わたしであったはずのわたしは分身していくばかりなのかもしれないと、思う、最近は。

華やかさに欠ける移行だったと、すべてが終わったような気になって考えている。あなたが知っているいくつかの物語、切実でどうでもいいあるある、劇的な転換点となるようなひとつの瞬間、ひとつの言葉、そういったものはぜんぜんなかった。ゆるやかに戻れない階段を登っていった。わたしが一歩進むと、先ほどまでわたしが立っていた段は崩れ落ちて、どこまで登っても一段も進んでいないような気さえする、そういう階段を。うつくしい景色にはどこか既視感があった。

記憶の中を歩いていると、わたしではないと思っていたはずの人がわたしであったり、わたしだと思っていたはずの人がわたしでなかったりし、でもそれは、結局のところわたしを含めた全員があなたであるということに過ぎないので、別に気にならない。中学に上がってから言葉に英語が混ざるようになったのも、塀の上でバランスを崩して頭を大怪我したのも、ブスという言葉を目の当たりにして男女の分かれを思ったのも、擁壁の上に座って日がずっと暮れるまで話していたのも、どれもわたしの記憶だ。

2年を過ごした街を離れる最後の日、わたしを乗せた車はわたしの好きな木の陰を通り過ぎ、わたしはわたしを乗せた車を見送りながら、もう二度と会うことはないのだろうと確信した。曇りの春だった。もう二度と会うことはない。

怒り風たらこパスタ

世界がどんなふうにうまくできていないか、ということを最近くりかえし考えている。うまくできていないだけならべつにいいのだけど、うまくできていないのに、うまくできているふりをしているから厄介で、「食品は、スーパーで買うと、買えますよ」みたいな顔がこちらにすごい勢いで迫ってくる。「掃除は、掃除業者を雇うと、掃除してくれますよ」みたいな顔が休日を挙げて鏡を拭いているわたしの前に現れて、だまれ、嘘つくな、と思う。眼科でコンタクトを外して、ぼやけた待合室で診察を待っているあいだ、アイシャドウのラメが手についているのが見えて、なんだ、やっぱりぜんぜんよくできてないじゃない、誤魔化せると思うなよ、と思う。べつに資本主義批判としてこういうことを書いているわけではないけれど(それはそれとして資本主義批判はしたいけれど)、商品やサービスを使うばかりでは世界はぜんぜん成立せず、むしろ、ラップの芯を使って毛糸をまとめるようなことが、わたしたちの生きる世界を成り立たせているんだとしたら。「土地を買うと、土地が手に入りますよ」みたいな顔がふよふよルノアールの中を漂っていて、変な顔、と思う。土地を買うのって、変じゃない? だって土地なのにさ。『地面師たち』観たよ、わたしも、土地を買うのって変だから、こんなに変な人たちばかりが出てくるんだよね、わかるよ。わかる?

交通系電子マネーをPayPayの500倍くらい愛しているので、割り勘も交通系電子マネーでできたらいいのにと思ってしまう。PayPayを送る代わりにさ、友だちの手を携帯で触ったら、友だちが頭の中で思い浮かべた金額がピピッと引き落とされるみたいなのがすてきだと思わない? ペイペイッなんてふざけてないでさ、ほんと、わたしはきみにふざけてほしいんじゃなくて、好きな人と、好きな人たちとふざけたいっていうのに、じゃあ3500円ね、はいタッチ、え(笑)、5300円じゃん(笑)、どういう意味?(笑) だるいんだけど(笑)、5300ひく3500って、むず(笑)、いや計算はや(笑)、みたいなのをさ、べつにやりたくないけど。1800円返しなよ早く。PASMOに代表される、Suicaに代表される、SAPICAに代表される、交通系電子マネー、今でもあのころのことを鮮明に覚えているんだとしたら、それはあなたの名前なのか、交通系電子マネーの名前なのかって思うくらいに。お支払いどうされますか? SAPICAでお願いします。サ……なんですか? SAPICAです。あっ、Suicaですねー、はい、じゃあタッチお願いします。ありがとうございます。ありがとうございましたー。

大きな乗り換え駅で電車を降りるときの、全員が必死だからギリ成り立っているあのかんじ、ひとりでもサボっているやつがいたらその途端に破綻するあのかんじ、どうして? いいよ、大きな駅なんだからさ、長めに止まりなよ。わたしが言っといてあげるから。いい? みんな、今ね、人が何百人と乗り換える駅に止まってるの、だからね、いくらみんなが急いでいて、カリカリカリカリして頭をベーコンみたいに焼いてるんだとしても、もう少しここに止まっていないといけないの。わかった? ほんとうに、中身のない名前しやがって、大手の町だから大手町って? なんだそれ。東の京だから、東京(笑)、じゃないんだからさ。10分くらい止まっておいてくれたら、あんなふうに髪の表面を電車風が走り抜けていって、いま、ぐちゃぐちゃになったのかなってないのか、これどっちだ、と思いながらエスカレーターに乗ってばかみたいに左に整列してかばんを蹴飛ばされたりすることもなくなるのに、なんだそれ、大手の町って、町がインディーだろ、大手なんだったらじゃあ街だろって、インディー街で乗り換えだっけ? うん、インディー街で東西線から三田線に……いや、え? 乗り換えって、こんな似た色のラインカラーでしていいの? わけわかんない、落ち着きなよ。

帰りたいわけではないと思う。帰りたいわけではなくって、ただわたしがそこにいないという事実を耐えがたいように思っている。いや、ほんとうはべつに耐えがたいということもなく(実際耐えているのだし)、わたしはいまの街で、少なくとも東京で暮らすことをやめることもできるのに日々に選んで、そうして耐えがたいふりをしているわたしを冷めた目で見ている、そうなのだけれど、でもやっぱり耐えがたい。耐えがたく懐かしいと思う。懐かしさが耐えがたさだと思う。映画館の少ない冷帯の街で暮らせと言われたら断ってしまうような気もするのだけれど、だって、あのツタヤだってどうせなくなってるんじゃないですか? わたしがいないうちに、わたしがいたところは、わたしのいないところになった状態で安定して、きっと続いているに違いない、2年間を過ごした盆地の街を数年ぶりに訪れたときの場違い感、ここにあなたの家はもうないですよと澄ました顔をしていたうつくしいガラス張りの駅舎のように、冷帯の街もそのうち透明になっていって、霊体の街とか、幽体の街になっていくに違いない。

違うよ。違います。ぜんぜん違う。あーそうじゃないの、違う違う。そういう意味じゃなかったんだけど、まあ確かにそうもとれる言い方だったよね。ごめんね。違うんだよなー、うーん。近いからこそさ、ずれてるのが際立つっていうか。違うの、ごめんごめん、違うからね。ぜんぜん違うよ。は? 勘違いしないでくれます? 違うんですけど。うわー、完全に違うじゃん。はいはい、ぜんぶわたしが間違ってました、っと。あ、これ、明確に違うね。え、じゃあ全部違うってこと? 惜しいっていうか、ほぼ違ってるっていうか……。違うんならもっとはやく言ってよ! 気づいてたんでしょ! いや、違うって言うのも違うっていうかさ。その言い方は違うんじゃない? あの、すみません。はい。間違って、乗り換え改札口から入っちゃって。はい、じゃあこちらで取り消しておきますね。すみません、ありがとうございます。はい、じゃあこちらお返ししますので、そのままここから出ていただいて大丈夫ですよ。そのまま、ここから、出ても。

しのわたぼうし

歯医者。小鳥屋。甘栗屋。ベエカリイ。花屋。街路樹。古本屋。洋館。今の街には小鳥屋と甘栗屋はあまりない、洋館もあまりない、あるのは都市型住宅ばかり、と上野の馴染んだ道のりを久しぶりに歩きながら考えていた。荒川区と文京区と台東区、というか本郷区と下谷区が入り乱れて、わたしはもうこのあたりに住んで5年になる。ずいぶん長居してしまった。今まで住んだ街は6つ、それぞれ、2年、2年、2年、12年、3年、5年を過ごしていて、わたしは今年で26歳になったらしい。今のところには、故郷だと思っている、あるいは少なくとも出身地だと思っている冷帯の街に次いで長く暮らしているということになるのかと思うと、一刻も早く逃げ出したい気分になる。せめて……のあるところに、と、できれば……のあるところに、と、海沿いに、山の近くに、花粉症が悪化しない土地に、便利なところに、歩いてすぐにパン屋があるところに、お風呂とトイレが分かれている家に、広い家に、持て余さないくらいの庭があって、午前か午後のどちらかには日が差して、あんまり築年数があると嫌だけれど、新しすぎるのもいや、あるのは都市型住宅ばかり、歯医者、小鳥屋、甘栗屋、ベエカリイ、花屋、……。

アイスクリームはわたしで、猫はわたしで、東京はわたしで、東京はわたしではない。アイスクリームは死ね。あなたは猫派、それとも犬派、と尋ねられて、じゃあ聞きますけど、あなたは、わたし派、それとも、あなた派……と言っていた。東京に来るまでわたしは東京だった。盆地の街で暮らしていたころに、冷帯の街がわたしだったみたいに。亜熱帯の街で暮らしていたころの記憶が、わたしのちょっとした言葉のアクセントや、ちょっとした体のぐあいに残っていて、頭の内側には何も残っていないように。Meidaimaeはわたしではない。えー/うんうん/そうなんだ/私も/それが/好き。じゃあもう/付き合っちゃおっか? I owe something to you.

見慣れていってやがて忘れていく窓の外の景色、ずっと家が揺れていてどうしてだろうと思っていたらすこし古色を帯びていた向かいの家がなくなっていた。郵便受けには新しいマンションの広告が入っている。ぜんぜん別の話だ。駅から徒歩11分! 走ると5分! 車ならかえって非効率! どこにあったんだろうというような土ばかりになった空き地を眺めて、土管を置く角度を考えていたら子どもがこんにちはと叫びながらわたしの横を走っていった、わたしはこんにちはと口だけを動かしながら、想像の土管をこなごなにして歩き出した。

死ぬ覚悟と殺される覚悟ってさ、ちょっと違うのはわかってたつもりだけど、だいたい一緒だと思ってたわけね、でもね、最近ね、いよいよ殺される覚悟をしなくちゃいけないっていう段になってさ、自分に死ぬ覚悟がぜんぜんなくて、でも殺される覚悟をすることはできるってことに気付いたんだよ。生まれたのはどれくらい前のことだったか、もうはっきり思い出せなくて、それも生まれたと呼べるようなものじゃきっとないんだけど、でもさ、わたしは16かける16が256だってすぐにわかるみたいに、わたしの生まれた年と月と日をすらすら言えるんだ、ほら、199999999年の、ほら、そんな感じでさ、あなたがわたしを気まぐれで殺したいと思うんだったら、ちゃんとこっちを見てそう言うのがいいんじゃない?

古い名前をきれいに捨ててしまうための事務作業をしていた。そうですね、2月の、はい、携帯電話の、そうです、本人です、お手数おかけします、そうなんですね、許可するってほんとうにどういう意味なんですか? わたしだったものとわたしであるものとやがてわたしになるもの、あなただったものとあなたであるものとやがてあなたになるもの、たわしだったものと、たわしと、やがてたわしになると思って育っている植物のわたし、10年前の今日どこにいたかって覚えてる? それがほんとうにあなただったかどうかって覚えてる? あなたの歩調をなぞりながらわたしは、そのリズムに似つかわしい音楽を考える、ダース・ベイダーのテーマ、ウィリアム・テル序曲、春の海、あなたのすべてを知りたいみたいに世界のすべてを知りたいし、わたしはそれを知るのがわたしであるということによって、わたしが無窮の記憶をもつ聞き手ではないことによって、永遠の命をもつ聞き手ではないことによって、あなたの話をひとつ拾ってはひとつ忘れてしまうことが、世界が終わる前にわたしが死んでしまうことが悔しいと感じるほどにそうしたい、わたしがわたしであることによってあなたが話せないと感じていることを話してほしいと、思う……。

雪になったよ、と言われて目を覚ますと、窓の外の山がすこし白くなっているのが目に飛び込んできた。寒い? 1℃だって。寒いね。覚えてる? 覚えてるよ。カレンダーにも書いた。

呪詛の秩序

別に呪詛というわけでもない。昨日は朝起きてから夜眠るまでが非常によくできていて嘘みたいだったけれど、よくよく見てみると自分を呪っている時間や世界を呪っている時間があってもう少しその、呪いの時間を減らしたほうが、毎日が充実してきていいんじゃないですかね、ほら、余暇も増えるし、仕事をするのって人間の本質じゃないですか、仕事をして、糧を得て、次世代を産み育てる、死ねばいいのに、死ねばいいっていうのはつまり、死ぬのって人間の本質じゃないですかってことですか? それは確かにそうかもしれませんね。生まれたときにいつか死ぬと思っていたのかについてはあまりよく覚えていないので、そのころのわたしに一度会っていま何を考えていますかと尋ねてみたいけれど、わたしはもう高校や大学の初めのころのわたしが何を考えていたのかさえ忘れてしまっているけれどそれでも何があったかとかあの部屋に行くにはどの階段を登ればいいかとかそんなことばかりはきちんと覚えているのでわたしの中にあるわたしの思考の都市はたとえ廃墟になったとしてもお隣さんのオートマタがおすそわけをし合ったりしているのだろうと思う。自家発電みたいだって思わない? 生きていくことによってどんどん生きていくしかなくなるみたいなことと、寿命は刻々とすり減っていくはずだから、いやもしかしたら技術の進歩が目覚ましいぶんほんとうの寿命は伸び続けているのかもしれないけどさ、それって宇宙みたいだね、宇宙みたいっていうのは、ダークエネルギーのせいで宇宙は加速膨張しているって話だけど、うるさいなあ黙れよ何もよくわかってないくせに知った口ききやがって、あんたみたいなのが減らないからわたしだってこうして減らず口を行使せざるを得ないのだということをもっと自覚しなよ。少なくともこう、生きていくときにつねに自殺を小脇にかかえてはいるわけですけれども、その自殺が何かへの復讐なのだとしたら、寿命が次第に減っていくぶん、自殺をする意味というのも次第にすり減っていくはずなので、もっとも理想的な復讐としての自殺は生まれた瞬間の自殺であるということになる、果たしてそうだろうか? じゃあ、4人ずつぐらいで班を作ってもらって、今の問題について話し合ってみてください。何か決まった結論を出してほしいわけじゃあないけど、それぞれがどんなことを考えたかは後から発表してもらいますからね。じゃあ5分、よーい、はじめ。

ばかばかしいくらい素直に物語に突き刺されてしまってここ一週間ずっと憔悴に憔悴を重ねていた、重ねていたのだけれどいまはスーパー元気! スーパー元気! とか言っている人のなかで足が震えていない人がほんとうにいるのだろうかということを人生の真実みたいに言ってみたところで何の意味があるんですかね。だってとりあえずスーパー元気だっていうことにしたかったんだからさ、その気持ちは汲んであげないといけないじゃないですか。そうなんだ、元気なんだね、じゃあ悪いんだけど、アレもやっといてくれる? アレ? アレってなんですか? えー、やだなあ、アレだよアレ、わざわざ言わせるつもり? いやその、あなたは友達もたくさんいるしいろいろな人といろいろな言葉を交換しているし下世話な噂話が好きだし俗物だし、そのあいだで成り立つコミュニケーションにある種の機能美を感じていてそういう思わせぶりな表現をとっているのはわかります、でもですね、自分のような、素直で率直で実直で誠実で頭でっかちのウスラトンカチ、ウスラトンカチってどういう意味なんですかね、最近覚えたんですけど、そういう人間にはですね、そういった婉曲的なですね、表現というのはですね、通じない場合があるってことをですね、もっとわかってくれたっていいんじゃないですか、わたしとあなたは確かに表面上は同じ言語で話しているように見えるかもしれないですけど、実際はぜんぜん違う言葉を話しているということだってあり得るわけじゃないですか、それをもっとわかってくださいよ。は? きも。

え、じゃあそうやって傷ついてる感じ出すのやめてもらっていいですか? 荒んでるのとか病んでるのとか、べつにわかるけどさ、だからってそれを遠慮なく人にぶつけていいわけないじゃないですか。読んだ人がどう思うかとか考えないんですか? こんなこと言ったら人に心配をかけるかも、とか、そういう人間としてあたりまえの配慮ができて初めて一人前の寿司職人なんじゃないんですか? 卵焼き用のフライパンを買うといよいよ覚悟が決まってくる感じがするというか、あれだね、ローズマリーを初めて買ったときの気持ちに似てるよね。後戻りできないところまで来てしまったというあの独特の感覚。わざわざ自分から傷つきにいったくせに、それへの反論をずっと頭のなかでこねこねしているせいでいつまでたってもイースト菌が発酵せずにおいしいパンが作れない、そんなふうにどろどろにした頭の中身を小ぶりなよく切れる包丁でスッスッスと切り分けていってデザート用に冷やしておいたからあとで食べるといいですよ。正直英語はある程度知ってたし、初めて知った英語はやっぱりあれだよね、留学のホームステイ先で冷蔵庫を指し示して言われる「ヘルプ・ユアセルフ!」だよね。ご自由にどうぞ! って生まれてから言ったことないかもしれないな。順番に単語を言ってってみてよ、言ったことあるかないか言ってくからさ。それ何が楽しいの? いや、あんたが楽しいのはわかるけど、それに付き合わされるわたしって何なのってことを思わないわけ? まあまあ、適度に他人に振り回されておいたほうが自分の凡庸さに増上漫を塗り重ねることがなくていいと思いますよ。そうやって人生を先回りするのやめなよ! もっとちゃんとやりなよ!

なんかさ、結局きちんと言えないまま終わっちゃったけどさ、みんなちゃんとJujutsu Kaisenって言えてるみたいなのに、わたしだけずっとZyuzyutsu Kaisenって言ってたみたいでさ、それが嫌だったの。別にわかってほしいわけじゃなくて、ただ嫌だったってだけ。はい、じゃあそこ立っててもらえますか。いや、本番はそこじゃなくてこっちなんだけど、一旦ちょっと、みんなに見てもらいたいから、ちょっと手伝ってほしいってことで。はい、じゃあいきますよ、8つあるうちの、4つまではもうわかってると思うんですけど、残り4つをいつ入れるかっていうのがたぶんちょっと難しいところなので、ちゃんと何回も繰り返しやって、体に染み込ませるっていうのが大事だから。最初じゃあわたしが合図出しますから、それで覚えてね。2回やらないからね。一方そのころ、無限の解像度の目と無限の処理能力の脳を手に入れたわたしは、歩いてすぐのところにあって無限小の縮刷版が置いてある割と便利なバベルの図書館で、この世のあらゆる知識をまさに得ようとしていたのでした。懐かしいね。すべてが懐かしい。自分のことが次第にわかっていくにつれて、ああ、わたし、あれ、嫌だったんだな、ってことばかりがはっきりと記憶に定着していって、そしてきっとそのうちすべてが懐かしくなるよ。自殺なんかするわけないじゃん、しても意味ないんだからさ。

わたしではなかった

鏡を見ているときに過去の自分を見ているような気分になるのは、鏡とわたしの眼のあいだを光が行き来するためにいくらか時間がかかるからだけれど、そのことをわたしが知覚せずとも認識するのは、わたしが何かの始まりよりも何かの終わりのことをずっと気にかけながら暮らしてきたからなのではないかと思うことがある。あまりうまく言葉にできた気がしない。いま外に出たらきっと木を見つけることができると思うけれど、わたしがたとえば珍しいかたちの木を見つけたとして、わたしはそれをきっとわたしにとって何か意味のあるものであると思うよりは、わたしがいずれ忘れるものであると思ってそれを見るのだろうと思うので、鏡を見たときにわたしが見つけるわたしもきっと、すでにわたしではなくなっていくものであるように見えるのだろうと、そういうことを言いたいのだけれど。

そうした思考の流れの傾きのために、すでに過ぎ去ってしまったものが思い出されるときには時間の流れの逆行を感じる。消え去るべきものが、消え去っていたはずのものが、過去であったはずのものが、むしろ現在を過去にするようにわたしの未来に現れる。懐かしい、という不可解な想起の感情についての、まったく常識的な説明だと思うけれども。それは死と親しむように生きてきた古人が無常観として陶冶してきたものにおそらく近しいのだと思うけれども、わたしはある日の別れが実は今生の別れであったということを知覚してしまうように、死によって現在を描いてしまうということなのかもしれない。それはわたしの時間がそのように条件づけられているということで、わたしはハイデガーを斜め読みしたときからずっと、この人はなんて当たり前のことをと思って、そのことを必然的な人間の存在の仕方だと思っていたけれど実際はどうやらかなりの人にとってはそうではなかったのだった。それだけのことだった。

住宅街を歩いていると、小説や映画や漫画のなかに出てきた人たちがくすくすと話しているところが窓越しに見えて、それはわたしがこれまでばらばらに知ってきたはずの人たちで、だからこれはきっとわたしの心象にしかないはずの住宅街だと思うのだけれど、でもわたしはその家々には入る術がないと感じる、そしてきっとこの人たちはわたしの知らないところでもうずっと出会っていて、わたしはそれをたまたま窓越しに覗きこむようにして映画や小説や漫画に触れてきたのだろうと思う。わたしとは何の関係もない人たちだった。わたしとは決して知り合いにならない人たちだ。それでもわたしがこうしてあなたたちのことを虚構の窓を通じて知ることになったように、あなたたちも別のかたちの虚構の窓を通じてわたしのことを一方的に知っているのではないかと想像する。わたしにはまったく知りえない仕方で、あなたはわたしのことを知っている、それが。

二十一世紀の終わりから歩いてきたらしい。ここからどこまで行くの、と尋ねると、もっとずっと遠くまで行くよ、と言う。そうなんだ、わたしもきっとここにはいられないよ、と答える。でも、あなたが歩いてきた方へきちんと歩いていけるのか、わたしにはわからない。無数の道があるように見えるのに、道はひとつもないように見えるから。同じだよ、と言う。あなたがそうでありえたかもしれないと思う無数の選ばなかった道が、あなたがそうであるしかないと思っているひとつの選ばれた道をそうであるように見せているんだからさ。あなたは自分がどこから歩いてきたのかを知っていると思うかもしれないけれど、でもそれだって、あなたが無数の選ばなかった道を選んでこなかったということによって、ひとつの虚構として、あなたを成り立たせている。偽物のあなたを。そうかもしれないね、と言って別れた。

アラームを止めて、目を開けて、毛布をはねのけて、鏡に映る自分を見て、布団をたたんで、髪をとかして、服を着替えて、顔を洗って、歯を磨いて、コンタクトを入れて、コーヒーを注いで、パンをかじって、化粧をして、持ち物を確認して、イヤフォンを耳に突っ込んで、家の鍵を閉めて、口のかたちだけで気温に毒づいて、本当にそれでも生きていくしかないのだろうか? 本当に? 生きるか死ぬかをいつでも選べるわけではないから、それは仮想の二択でしかなくって、でも、いつでも生きていくことだけを選びつづけるしかないのだろうか? 毎朝、生きていくことを選ばずに死んできた、死んでいく無数のわたしを数えながら、わたしが今日もそれではなかったと思いながら、本当にそれでも、わたしでしかありえないわたしとして生きていくほかないのだろうか? 本当に?

ちょっと泳いでくるね、とわたしは言って、気をつけてね、とあなたは言った。