雑記帖

存在します

生活の手触り/今年観た映画

器用ではないしコンロが1口しかないのでだいたい同じタイミングで完成するように料理を何品か作って机の上に並べていただきますと言って食べ終わったら皿を下げて洗ってここまでで1時間というようなことができない。何かをひとつ作って食べ終わったらまだもうすこし食事があってもいい気がしますがねと自分に嫌味を言って立ち上がらせもうひとつのものを作り出して作っている途中に冷蔵庫から適当に何かを取り出して食べたりしてもう食べるというのはいいかなと人類史のような気分になりながら別のものを作り終えて料理というのは飽きてからが本番だななどと10年前にも思ったようなことを思いながら食事を終えてこれをあと何回くりかえすのだろうというようなことをぶつぶつと言わずに言って打ちのめされながら音楽を聴きながら皿を洗いながら何もしていないと感じてそうしているうちに2時間が経っている。

この2時間があれば映画が観れたろうなとただの計算を何度もするうちに時間が崩れていってわたしは映画を観ていて映画のなかでは人が食事をしている。『別れる決心』のまったく美味しそうではない寿司と『ロゼッタ』のまったく輝かしくはない都市生活者のワッフルから1年が始まった。あるいは煙草を挟みながら料理をすることを何となく習いのようにしてしまったきっかけとしてそうしたものを反響させながらゆで卵を作る程度のことで恍惚としている自分の顔がお湯に映る。『ボーンズ アンド オール』の人肉をモチーフとして掴みかねながらわたしは映画館のなかでも家でもコーヒーを飲みながら画面を眺めている。インスタントコーヒーを淹れるためのお湯を沸かしながら煙草から立ちのぼる白い煙を湯気のように眺めていてこれも死んだふりのようなことだなと改めて思ったのでまだお湯を張ってその中に入ることを笑うことができた。温まりましたよ。

住んでいるのは荒川区の南の端でわたしはまだ荒川というものをじっくりと眺めたことがないと思ったので単に眠れなかったので始発の出る2時間ほど前に歩き出して荒川沿いを扇大橋のあたりから堀切橋のあたりまで下ったのはあれは夏のことだった。遠くに東京拘置所の建物が見えてそのときはまだ観ていなかった『PiCNiC』のことを思い出した。『わたしは光をにぎっている』を観てお湯がまた張られた後に舞台が立石であることに気づきわたし自体を洗うということと服を洗うということと人間関係を洗うということと街を洗うということの距離を思っていたから水の形が気になっていた。『ケイコ 目を澄ませて』の無造作に洗濯機へ投げ込まれるトレーニングウェアや『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の落下したぬいぐるみを捨てられる着ぐるみを洗って乾かしてぼくたちが付き合うのっておかしくはないですよねというような台詞が棘のように頭の裏側に残ってわたしはそうやってつらい現実を生きていくのだというような定立はすこし物語化が過ぎるのできっともっとやさしいということをきちんと考えていたあなたはこちらを眺めながらそれでもやはりどこかできっと取り返しのつかない傷を負うのだろうなと思う。無事を祈っている。

思考や行動が倫理に向かって収束してしまうことが以前より増えた。わたしはやっぱり世界がもっと正しくないと耐えられないしその前提としてわたしが正しいと信ずることをわたしが思考し行動しているということがないとやはり耐えられないように思うのでそれはそれで身勝手ということかもしれないけれどそういうふうにして倫理的であるということにこだわって生きていくことになるのだろうと漠然と10年ほど先までの霧の方を見ている。『君は永遠にそいつらより若い』をあまり深く考えずに観始めてわたしにはそんなに大事な人がいないけれどあなたを助ける以外の方法であなたを世界の悪意から助けることができたらどんなにいいだろうと思った。あいまいなことを書いているつもりはない。わたしはあなたと恋愛をするつもりはないしあなたが恋愛によって背負うだろう悲しみのことをわたし自身のものとして感じることはできないけれど。『フェイブルマンズ』のカメラ。世界のいろいろの複雑なありようを子供のわたしが理解できなかったのはどうしてかと問いを立てることがあったけれどそれが本来的にはわたしには理解できないものだったとしたら。それなのにわたしがたまたまある種の賢さをもっていたために理解できたあるいは理解こそできなくても適切なふるまいを知ることはできたのだとしたらそれはまあせめぎあいのような幼年期であっただろうと回顧している。ラストシーンはつねに何かの始まりであることを知ること。

『サマーフィルムにのって』のラストシーンにはひとつもほんとうのことがなくまさにそのためにそこにあるすべてのものがほんとうのことだった。みんなが演技をしていてみんながただ真剣に何かをしている。だから演技をすることはわたしそのものから遠ざかるようでいてわたしそのものに接近することでもあるはずだ。わたしは自分が15年ばかり演技を続けていたと思っておりそのことを自分自身に対する裏切りのように感じているけれどそれはわたしが生きているということのひとつの証拠物でもあった。世界のすべてに意味はなく世界のすべてに意味があるような世界を作り出すことを映画やアニメーションのひとつの使命とするならば『窓ぎわのトットちゃん』はその意味においてそのどちらもであることの本分をきちんと果たしていてそれゆえに唯一性をもっていた。昔から本に書いてある話が好きで本を買うのもたぶん好きで本を読むのも好きなような気はしており本が好きということはどういうことなのかはよくわかっておらずそれでも趣味の欄に読書と書くことができる程度の義理は果たしてきたつもりだけれど映画やアニメについてはそれほどの愛をきちんともつことができているのだろうかとまだ思いながら歩いて電車に乗って座って立って歩いてときどきは泳ぎに行ったりもする。

たぶんわたしは話の流れのなかで出そうになった言葉をいちど止めて詰まり唸りながらどうにか良さそうな言葉を見つけてきてどうにかそれでそのあなたの配偶者はなどと言っているときのその逡巡の間合いがきらいではないのだ。むしろ好きなのかもしれない。そういうまだない言葉の使い方を体に馴染ませようとしているときのことが。あなたの暮らしぶりやわたしの観たこともないようなものの感想やまだあまり決まった言葉になっていない感情のかたちのことをあなたがしたいような仕方で話してほしい。わたしと別れなくてはいけない辻であなたがすこし立ち止まる。立ち止まったあとでもう一度冷たい空気の中に分け入っていく。

『aftersun/アフターサン』という映画のことを理解できたとはまったく思っておらずむしろ分からないままに捨て置かれたように感じており分からないままでもいいなどといった寝ぼけたことは冗談でも言えないのだけれどそれでも映画を観終わったあとに渋谷の夕方の終わりが粒立って耳と目に飛び込んできたことを覚えていてそれがわたしにとっては何よりの体験となった。『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』のふたたびの上映を同じ劇場で観た。初めて観たときは映像の中に浸されていくような体験だったところが今度は夢と現実のモチーフの連関を理解できているようになっていた。取り返しのつかない過去の悲しみと可能性を感傷的にならずに描くこと。同じ映画を2度観ることはできないけれどどちらもすばらしい映画でしたね。

シークレット・サンシャイン』の泣きまねのシークエンス。不安と幸福が微妙な均衡のもとに緊張していてそのあとに起こるすべてのことが兆している。はるか遠くまで連れてこられたあとで静かに髪を切るあなたがこのあとも生きていくことを信じている。わたしは日々生きることを決意して生きているということはなくコンビニに行くことと生きることを決意するのとではどちらが簡単なのかということはよく考えてみればよくわからないけれどきっと何かなしには生きていけないということがわたしにとってもひどく卑近なかたちで存在しているのできっとあなたの感じた足元の崩れ落ちるような感覚はあなただけのことではないはずだ。

長く眠ろうと思って目を閉じたあとで3時間後に目を覚ました。『さらば、わが愛/覇王別姫』を観ながらレスリー・チャンにもわたしにも問いかけていたのはどうして生きていられるのだろうということだった。でもきっと生きているしかないのだろう。破局に向かってよどみなく行進していく『牯嶺街少年殺人事件』を観ながらわたしが考えていたのはどうして映画には終わりがあるのだろうということだった。でもきっと世界にも終わりがあるのだろうと思った。でも死を特権化するつもりはない。あなたがどれほど劇的に死を迎えたのだとしてもそれは唾棄すべきくだらない停止にすぎない。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』がリズミカルに描いているようにあなたのしたことは決して許されることではない。あなたがしなくてはならなかったのは人に対して誠実であるということがあなたという存在の内部だけで完結すると思い込むことをやめることだ。

存在論的な問いを認識論的な問いとして読むことしかできないのならそれはあなたが社会的であることそのものによって毒を盛られているということだ。「あなたは誰?」という問いにあなたがすらすら名前や身分を(身分といってもそれはどこそこの伯爵家の令嬢でといったものではなく普段どのあたりをうろうろしているかという程度の話なのだが)答えるときにあなたはその問いを認識論的なものだと思っているということであなたが言葉に詰まって何を言っていいのかわからなくなって結局昨日何があったかなどを取り留めなく話し始めるのならあなたはその問いを存在論的なものだと捉えている。ねえイッコさん。「あなたは誰?」という問いから逃げ続けた果てに花束を持って目指す場所に向かっていたあなたが過去に襲われてしまったときにあなたの表情は何かの円結を見るようだったと思う。『キリエのうた』について「あなたは誰?」という問いを読むのはひとつにはそのような体験だったということなのだった。『市子』をミステリイとして観ることができないのはミステリイの根底にあるのがあくまで認識論的な問いであって認識論的な問いを抱えていた結果として存在論的な問いをさらに抱えることになってしまったあなたはわたしたちにとって理解しがたいものとして現れて立ち去るのだけれどそれはわたしたちがあなたのことを知ることができなかったということではない。わたしは確かにあなたのことを知った。

クリスマスイヴに『枯れ葉』を観た。ひどい戦争だ。でもきっと暮らしていくことができる。