雑記帖

存在します

変わるのはわたしではない

ここ一年くらいずっと家庭裁判所のいくつかのページを睨んでいる。恨みがあるわけではない。そうしなくてはならないような気もするし、そうする必要はまったくないような気もするし、そうしたいような気もするし、まったくどうでもいいような気もする。実際のところ、ほとんどまったくどうでもいいと思っているような気がする。「名の変更許可」と「性別の取扱いの変更」という二つのページがそれなのだが、こんな悩みはどこか悩んでいるというようなものではなく悩まされているようなものではないかという気分もわたしを躊躇させるもののひとつだ。わたしにはもともと名前がないし、あなたたちがわたしを呼ぶときの仕方をわたしが変更したところで本当のところは何も変わらないような気もするのだけれど、でもそのように名前を通じて人間であることがすべてを変えるのかもしれないとも思う。わたしにはあなたたちが自明だと思っている人間同士のあいだに存在するいくつかの構築物のことがいまだによくわからないのでこんなことを思うのかもしれない。こんにちは、はじめまして、ソラリスの海です、と名乗ったところで冗談にもならない。冗談にもならないからソラリスの海は黙っている。

将来の夢は?ーー死ぬことです。わかる! 生まれてから死ぬまでにいくつかの目標があり、それをスキーのフラッグのようにすいすいと通過していくとして、最終的にはゴールには死があり、わたしはその死を決して理解しているような振りをしてはいけないとかなり強く自分を戒めている、そうなのだが、一方でこれも抗いがたい実感として、死に親しむような思い、感情、感覚があり、それが淵だとしたらその暗闇の中から、それが雲上の光だとしたらその白暗淵の中から日々の暮らしを眺めてしまう。眺めてしまうのだ。わたしの生きているはずの一瞬間はそのたびに色を失って、いや色を失ってはおらず、きっとますます輝いているはずだと思うのだけれど、わたしはそれを見ながらなんだか退屈なように感じてしまう。あなたの人生は退屈だ、と何の倫理も気兼ねもなく思ってしまう。わたしの人生はぜんぜん退屈というようなものとは関係がないのに、ただ眼差しだけが退屈そうにしてしまう。

性別の変更ではなく性別の取扱いの変更なのだということに驚いた、という人の話を聞いた。その話を聞いてわたしもどこか胸を衝かれるような感覚をもった。確かに当然のことだ。あなたたちがいろいろなことを決めたり調整したりしながらどうにか暮らしていこうとしているさまをわたしはなんだかいじらしいように思ってつい見惚れてしまうのだけれど、その諸制度の中にわたし自身も囚われているということには自分であまり頓着することがないようなのはどうしてなのだろうと思うこともある。どんなときに苦しいと感じるのかというと、わたしがあなたたちやわたし自身に対して誠実でない振る舞いをしていると感じるときと、誰かを傷つけたり苦しめたりしたと思うときだ。わたしの与える誤解のことをきっとあなたたちは誤解とも思わないので、結局それは誠実さとはどんな関わりもないということはべつにあらかじめ承知しているのだけれど、たとえばわたしの出す低い声が不安そうな表情をするあなたたちをどこかで安心させるとして、わたしはその状況の間違いの、虚妄の、あなたたちとわたしの懸隔の途方もなさに呆然としてしまうので、やはりそのように考えるほかないのだと思う。

わたしは一九九九年に生まれたということを思い返すとき、わたしはあとせいぜい数十年かそこらで死ぬということを意識するとき、だからその間にやっておきたいことがあればやっておいたほうがいいよとくだらない引越しのようなことを考えさせられるときに、わたしがこうして何だかくねくねと道に迷いながら生きているというのは悪い冗談なのではないかとおかしいように思ってしまうことがある。あなたたちがそうした死と生をめぐるあっけない事実をどのように受け止めた上で人の尊厳を踏みにじったりしているのかがわたしにはまだ今ひとつよくわからないけれど、もしかすると本当にわたしがおかしいという話でだいたいのことが片付いてしまうのかもしれないと思って、そのことに怯えることもある。ここしばらくの陰鬱な気分に本当の理由などはないけれど、名前をつけようとするならそんなようなものも悪くないのではないかとわたしは思う。

優しさのようなものでもグルーミングのようなものでもなく、率直に親に悪いと思って名前を変える気が起きないでいるということもきっとある。生まれてきた子供にどんな名前をつけようかと思うときに当然そこにはいろいろな機微が働くであろうことは簡単に想像できてしまうけれど、それでも根本的に名前に意味などはない。だからわたしはその無意味な文字列を親の書いた短い詩であるように思って、それを自分の詩で書き換えることを悪いなと思うというような事態だととりあえずは説明できるだろうか。わたしが自分の名前を憎んでいるかについてはあまり言明したくないけれど、そうだとしてもそのようなことも、その憎しみもどこか本当はわたしとは何の関係もないもののように感じられるので、むしろこうして一人称に強いオブセッションをもっているということになるわけだけれど。

以前書いたことの繰り返しになるけれど、わたしは自分が誰かの息子である、少なくともそうであったといわれることに対して、男性であると誤っていわれることに比べて強い否定の気分をもたないのだけれど、それはやはり、そういった関係を示す言葉によってわたしに纏わっているその誤解をわたしとは半ば関係のないもののように思っているからだ。他人の人生に対してわたしはまったく客体であるほかなく、そのことをおかしいとも思わないので、たとえそういうあなたたちの誤解(結局こういう言い方を繰り返してしまうからにはどこかにわたしの譲れない感情があるのだとは思うけれど)がわたしを傷つけたり苦しめたり辱めたり殺したりするのだとしても、わたしはそれをアイロニーを感受することの失敗と同じような当然の帰結として受け入れてしまいそうになる。それを、わたしの立ち居振る舞いやポール・ド・マンの倫理を面白いとか面白くないとか思っているあなたたちは救いようのないもののようにわたしには思えるけれど、だからといってあなたの安らかな老後の可能性をわたしが呪うわけではない。

鏡で見る自分の顔と他人が見るわたしの顔は左右が反転しているという以上の意味で別のもので、わたしはだから自分の顔を自分の客体としてのあり方の極点のように、まあ面なのだけれど思う、あなたたちにとっては決して届くことのない、わたしの輪郭の内部のものがわたしにとっても同じように隠されていることがわかるので。『ミレニアム・マンボ』という台湾の映画には冬の夕張の映像が何度か登場し、わたしはそれを観ながらなんだか遠いようになってしまった故郷の雪国の風景を肺の中に浮かべていたと思う。主人公のヴィッキーが雪に顔を突っ込んで、そうして雪に残る顔の跡は決して到達しえない内部からの視点を、あなたの掴みようのない感情を影のように示すのだけれど、そこでわたし自身にきざす思いはひどく単純なもので、だからこそそれをうまく説明するのはひどく難しい。どうにか言おうとするならば、それはわたしでありわたしでありわたしであるようなものだけがわたしであるということで、もっと感覚に即して言うならば、わたしである、ということだ。