雑記帖

存在します

思考の最近の複数の

単純ではないことが多いので難しい、それはつまり、複雑なことが少なくないということだけれど、どこから話したらいいのかわからなくて、結局生まれたときのことから、生まれる前のことから、この釈迦という人はどれくらい偉い人なんですかと尋ねられて実はこの人は飢えた虎に自分を食べさせて死んだことがあってねとべらべら話してしまうのは、おまえがこの罪を犯したのはいったいどうしてか、いやね、そもそものことですがわたしの両親が結婚したのは忘れもしない文化五年の辰年のこんな闇の晩でありましたが、そのころは物騒なもので殺しがありましてね、と熱に浮かされたように喋り続けてしまうのは、語るということにあらかじめ潜んでいる、わたしがそのなかに身を置いていないと思っている狂気に似たものの影が目の奥に浮かぶからなのではないかと、そのように、わたしは文をきちんと終える方法をまだ知らないまま、このように何かを書いている。

貴族について思うことがいくつかあり、もういちど『斜陽』を読み返す必要を感じている。ルキノ・ヴィスコンティの『山猫』が衝撃的だったのは、バート・ランカスターの圧するような体躯であったり、どこまでも終わらないダンスであったりといったものでは部分的にあるにせよ、もっとも重要なのは、そこで映し出されるいくつもの場面の、寒々しいほどの無意味さによるのかもしれなかった。「おれたちのように、爵位だけは持っていても、貴族どころか、賎民にちかいのもいる」と嘯いていた弟が「僕は、貴族です」と書きのこして死んだあとの、やるせないような無意味が、その徹底的で哀れで滑稽で愚かでうつくしい反時代性のことが、『山猫』の中にも、そしてきっと昭和の文学として読むしかなかった「abさんご」と「感受体のおどり」のなかにも感じられて、わたしはその周りを何度も囲繞しながら近づかないでいる、そのこと、貴族性の欠乏と貴族性の残滓が同時に自分のなかにあることの哀しみを、わたしは問題にしようと思っている。

世の中の人が宗教について語り続けるなかでわたしの気にしているのは世俗的なものと宗教的なものとの区別にあり、ずっと苦々しく眺めている「推し」という言葉や、言葉によって何かを描写するということの仕方、書いて追うこと、読んで追うこと、そうしたことの居心地の悪さ、素朴な生活のことが、宗教的なものと深々と繋がって身動きをとれていない。反省と賭博のこと。賭博はほんとうのところ、無に向かって身を投げ出すことであって、行為することの極端がそうしたところにあるのだとしたら、わたしは『現代の英雄』の最終部をどのように読み直すことができようかと思うこともあるのだけれど、その行為することの先にふたたび宗教的なものが現れるので、わたしは単に反省の問題として身を投げ出すことを考えることができていない。身を投げ出す先があるということの、人間の生命の無意味さに対する侮辱を耐えがたく感じていることがわたしの無宗教の根拠なのだとしたら、ということでもある。そしてわたしは何度も書くことを祈りにたとえながら、そのことに対してわだかまりをもっている。

食事と死、自分に残された時間のことについて、そのような勘定をすることについて、Aについて、Bについて、わたしは何かについて考えるというときに、それについてということをきちんと考えてはいない、ということを、あらためて書くまでもない。たとえばセックスに対してわたしの感じている可笑しさ、滑稽さといったものが、食事の場合におけるきたなさと相同のものであることにわたしは何となく気づいている。生きていくのではなく死んでいくのだというように流れていく時間のことを異常なものだと思ってきたけれどわたしは一度も死んでいくのではなく生きていくのだと思っていたことはなく、デカルトからカントへの歴史のことをなんとなくわかったように思ったときからずっと、わたしの時間は残された時間であり、わたしはそれを長くはないものだと感じており、わたしは日々を使い潰しており、日々を使い潰すということの無意味さを代えがたいもののように感じている。It's only talk......という言葉が反響するのを聞きながら、わたしは無駄話を続けている、それは無駄話ですらなく、ただの話になって、だからイッツ・オンリー・トークなのだけれど、そのあとで何かが手触りのように沈黙に残って、わたしはそれを繰り返し眺めている、ということの、馬鹿らしい、そうしたことの……。

そしてわたしは絶え間ない暮らしを続けている。ひとりで過ごす時間は多いようで多くはなく、多くの時間を人と過ごしているようで人と過ごしてはおらず、ころころと笑って時間を楽しんでいるときの後ろ指をさされているような感覚と、生活の断片を無意味なものにしていこうとするということのはっきりとした矛盾を、わたしは自分の生活と生活者としての自分に対するアンビバレンスとして認識する。移動のあいだはほとんどずっと音楽を聴いている。音楽はわたしにとってなくてはならないものだ。わたしは音楽がなくなっても平気で生きていけるだろうと思う。わたしは救いを求めていないのに、救いのほうが次々とやってきて、わたしは涙を流してしまう、知らない人と話したい、5分の痕跡が死の目前のわずかな嘆息につながるように、駒子の埒もない嘆きのなかにある光のようなものとつながるように、まだしばらくは続けていくことができると思っている。