雑記帖

存在します

絶対に関する断片

絶対的なものを色々とりかえてみて人が生きていると考えてみるのはどうだろうか? 神は死んだという宣言をまじめに受け取ったのはサルトルのほうで、ニーチェ自身は世界の絶対性に対してはそれなりに楽観的であったような気がする、あるいはそうでなくても、とりあえず狂ってみれば良かったのだ、ニーチェにとっては。

じゃあサルトルはどれくらいそれを引き受けたのか? それはここではあまり問題ではない。「実存は本質に先立つ」と宣言してみることは、何を否定することになって何を否定しないことにつながるのか? 映画『アデル、ブルーは熱い色』で、エマはアデルに対してサルトルの思想を語り「実存は本質に先立つ」という言葉を引用する。しかしながらそれはほとんど「本質は実存に先立つ」と言っているように響いた。すくなくともわたしにとっては。

エマの怒り。どうしてアデルは男と寝なければならなかったのか、と問うのは脚本の構造を問題にすることであって、アデルの心理を問題にすることではぜんぜんない。たとえばその描写を、レズビアンに対する偏見(「レズビアンは"男の悦び"を知らないのだ」というようなもの)の一部として、批判することができるだろうか。あるいは、アデルは本質的にレズビアンであったかどうか、といったことを問うことが倫理的でありうるか、倫理的であるとして、問いとして成り立つ問いでありうるのだろうか。

選ぶことができるものは結局ひとつしかないということを、そして実際にひとつのものを選んだということを、それ以上の意味に解釈するべきではないと思うけれど、じゃああなたはどこかで嘘をついたとしても、それを少しは信じているということになるのだろうか。何かを信仰すること。何かを信じるということは、何かを信じるということ、それだけであって、何かを正しいと思うことでも、他の何かを間違っていると思うことでもないということを知ること。

たとえば、他人が存在することを、恋という心の動きが存在することを信じてみたいと思う。ある人が誰かに恋をしているということを知る。わたしはそれを「ある人が誰かに恋をしている」という言葉として知る。わたしはその言葉の奥にあるものが実際に世界であることを信じてみたいと思う。わたしは言葉が信用ならないものだと思っている。誰かの言葉が、誰かの意図によって信用ならないものになるのではなく、すべての言葉が、すべての言葉そのものによって信用ならないものになってしまうのだということを「言語の憎しみ」と呼んでいて、そのことについて考え続けている。

たとえば、映画『ナチュラルウーマン』のラストで力強く「オンブラ・マイ・フ」を歌うダニエラ・ベガの姿を信じてみたいと思う。ナチュラルに生きること——女性として生きること——トランスジェンダーとして生きること、がほんとうに変換可能なのだろうかと思ってしまうけれど、それでもその姿が何かの希望であるように思いなしてみることも、あるいは可能なのではないかと考えてしまう。自分の身体を引き受けることも、自分の身体を誤りであると思うこともわたしにとってはナチュラルなことではありえないとしたら、わたし自身にとって「ナチュラル・ウーマン」であるとはどういうことか?

変身すること、狂うこと、自分自身に対して革命を起こすこと、正しいところへ辿り着こうとすること、正気であること、自分自身に対して嘘をついているように感じること、他人に対しても嘘をついているように感じること。自分自身が何者であるかについて沈黙すること、話すこと、固定すること、沈黙していると誰かに固定されてしまうということに気づくこと。自分自身の内側で燃えている炎がない、わたしを突き動かすものがない、そのことに気づいたときに自分が自由であることを、同時に自由でないことを知ること。

だから自分について語ることはそんなに気軽なことではない。

漫画『放浪息子』に出てくる「なんか あの ごめんなさい 全然お母さんのなってほしいかんじの息子じゃなくて……」という謝罪のような台詞のことをときどき考えることがある。そのあとに「わたしのなにがわかんのよ あんたに」と言って泣き崩れる母親のことも。二鳥修一は女性として生きていくことを決意していて、そのことを母親がどう思うか想像しながら、その台詞を言っていて、母親の視点からの描写は(おそらく)全巻通じてほとんどなく、わたしたちの誰にも母親の気持ちはわからないということに改めて、わたしは気づくまでもなく気づく。

あるいはそうした暗い決意をもつこと、それを人に伝えること。自分が何かであると思った途端に安堵と喜びが訪れて自分が不定形なものから奇妙な形に固まったものへと変化して、そのあとではその形そのものがはじめから自分であったように感じること。原因と結果の二項対立は脱構築の方法のなかではもっとも典型的な対象のひとつだけれど、わたしはその決意とわたしの今の形について何ひとつ自信をもって述べることができない。名前をもつことによって少しずつ絶対的なものでなくなっていくように思いながら、名前によって何かを信じるようになることがあるのだと気づくことがある。

とりあえずいったん死ぬことにしてみて、天国かどこかで神に対して、わたしたちは苦しみました、わたしたちは泣きました、と言い立てることができれば、まあ、ずいぶん気楽でいいですね、ということになるのだけれど、人にやさしくすることを本当に大事にしたいなら死ぬのだってそれに反することだというのは当たり前のことで、都合がよかろうと悪かろうと、生きていることの不安は問題にされ続けるのだと思う。生活のいろいろな細部、布の感触、葬式のどうでもいいくだり、そうしたものをめぐって生きていくということを、さまざまな絶対的な感情とつきあわせること。