雑記帖

存在します

話さない(内心の近況)

 近況はカテゴリーではない。面白い掴みから文章を始める必要はない。文章は順番に読まれるべきではない。ディスコースマーカーは拠り所にされるべきではない。話される言葉が線条性を持つのは話す人と聞く人の双方の事情によるものだ。書かれる言葉が線条性をもつとすればそれは書く人の事情でしかない。わたしは書く。あなたは読まない。だから言葉は衝突しないし、矛盾しない。何が書いてあってもわたしはそれに意味があると信じているし、あなたはそれに意味があると信じている。信じているだけだ。信じているというのは約束事があるという意味ではない。意味ではないというのは、意味というものがあるということを前提とした発話ではない。わたしたちは主題にしていること以外について話していない。「わたしたちが話す」ということはありえない。昔はありえたとかではない。「わたしは多くの者を代弁して話す」ということでさえ虚妄に過ぎない。ただあなたが話すのだ。わたしは話していない。わたしは書く。

 2020年の終わりにTwitterで話すことをやめた。より正確にはあるアカウントではということで、別のアカウントでは業務上の必要に迫られたときだけ話している。こういう発話でさえフィクションを含んでいる。わたしは書くのをやめたのだ。でもわたしはその「書く」ということが、いつも「話す」ということに近づいてしまうので、近づいてしまうのが嫌で、書くことをやめたのだった、その意味では話すことをやめるために書くことをやめたのであって、あらかじめ話すことをやめたという意味では話すことをやめたのだと考えてもいい。主題が先に出てしまった。わたしがインターネットでしていることの7割は読むことと聞くことで、2割5分ほどが書くこと、あとの5分くらいが話すことだ。もちろんこれは言葉をめぐってということであって、映像を観ること、画像を観ること、画面を前にして目を閉じること、イヤホンを外して耳を塞ぐこと、そうしたことのために費やした時間は含まれていない。話すことというのは本当に話しているのであって、それは動画という形式を通してということだ。だからほとんどの場合、能動的なわたしは書いている、書くことによって世界に対して、世界ではなくインターネットに対してアプローチを試みている。しかしそこ、ある場所には詐術があり、話すように書くこと、というと正確ではなく、話される言葉のような気安さで、書かれる言葉のように慎重に、書かれない言葉のような叫びを含みつつ、話されない言葉を話す方法として、書く、ということ、そうしたことが行われることがある。ある、というのはわたしにあるということで、もちろんわたし以外にもあるようにわたしには見えるし、実際にそうなのだとは思うけれど、そのことについて責任を持つつもりはまったくない。ただわたしがそのように書くことを厭わしく思いつつ、そうすることによってしか到達できない時間性があることを思うときに、わたしの選べた方法はこのように書くしかない場所に自分を閉じることによってその詐術をやめることだった。

 わたしは自分の書いている文章が読みやすいとは思わない。すべての文章がということではない。わたしがこのブログに書いている文章は、ということだ。わたしは難解な文章を書こうとしているわけではない。わたしは曖昧な文章を書こうとしているわけではない。わたしは意味のない文章を書こうとしているわけではない。意味のある文章などというものはないので、わたしは文章を書こうとしているわけではあるので、わたしは意味のない文章を書こうとしていると書くことができる。書くことができるだけだ。わたしは書くことができることだけをどうにか慎重に書こうとしていた。わたしは書くことができることだけを書くことを通じて、書くことができないと思われているものを書こうとしていた。描きえぬものを描くことはできない。描きえぬものは描きえないから。描くことができるものは描きえないものではないから。だからわたしは書くことができることだけを書こうとしている。当然のことだ。わたしは自分の矩を超えたことを書きたくないと思っている。わたしはわたしの身辺から始めて、どこまで遠くに行けるのかを考えている。それは嘘だ。わたしは人生の真実を書きたいと思っていない。人は死なない。わたしは死んだ、とわたしが書くことができるということは、わたしにとって厭わしくも魅力的なことで、そのどちらの感情により強く惹かれるかによって、わたしは書くことができたり、できなかったりする。すべての文章がということではない。わたしの書いている小説を、ということだ。わたしは人に見られないところで小説を書いている。人に見られないというのはわたしの姿がということではない。わたしの姿というのはこのように文字列として現れている「わたし」の姿ということではない。わたしの現実の厭わしい肉体のことだ。ことだ、というのは、ことではない、ということで、わたしは小説のテクストを一般に公開しない状態で、自身の肉体が外部に晒されているかどうかはあまり気にせずに、小説を書いている、ということだ。このような厳密性のための物言いを冗談として受け取ってもらっても構わない。冗談なのだから。

 わたしはフィクションを通じて真実を書こうとしている。書こうとしているわけではない。それはどちらも正しい。ある時には書こうとしている、と断定したいときがあり、ある時には書こうとしているわけではない、と否定したいときがある。とき、という言葉を使うと、それらが別々に訪れるような印象を与える。与えても構わない。わたしが言いたいことはそれとはぜんぜん違うのだから。わたしはまさにそういうことを言いたいのだから。ここで言いたい、というのはフィクションではない。わたしは書くことのフィクションとして「言う」という言葉を使っているのではない。わたしは書くことを通じて、何かを言うための方法を探したいと思っている。何かを言うための方法とは、書くことを通じて言いうる何か、ということかもしれない。わからない。わたしはまだそれを発見していない。わたしはそれを発見していないので、それを発見するために、それを探している。わたしはわたしにとってそれが重要なものなのかわからない。わたしはそれなしにはわたしが生きていられないというものではそれはないのではないかと思っている。わたしは現にそれなしで生きているのだから。わたしは何かを言うということを、何かが通約することだと思っている。何かが翻訳されるということだと思っている。そこには細い細い糸しかのびることはないのだと思っている。それでもそこには糸がのびるのだと思っている。それはわたしにとって重要なことではない。それだけがわたしにとって重要なことだ。わたしは孤独である。わたしには友達がいる。わたしは孤独ではない。わたしは人と理解しあうことができる。わたしは人と理解しあうことが重要だと思っていて、それはひどく困難なことだと思っている。わたしは人に優しくしたいと思っている。わたしは人に優しくされなくてもいいと思っている。わたしは理解しあわなくていいと思っている。わたしは言葉を探していない。答えとして示される言葉がとりあえずのものでしかないことをわたしは知っていると思っている。わたしはそのようにしてつけられる結末をプラグマティックなものだと思っている。わたしはそのプラグマティックな精神を讃える。わたしはそれが生きていく上で重要だと思っている。わたしはそれなしには生きていけないと思っている。わたしは生きていきたいと思っている。わたしはひどく寂しい。わたしはそれが間違っていると思っている。