雑記帖

存在します

感情の手紙

嫌だよねえ、と物語の嫌な場面を読みながら、より正確には物語の人が何かを嫌がる場面を読みながら思うことがある。嫌だけど嫌じゃない場合もあって、嫌ではなかったこともあって、それも含めて嫌なんだけど、でもそう言うにはただ嫌というしかない。「いや」と書くと口だけが動くようで、「いやあ、……」と話しだすと意味がないようで、嫌で怯えていることのどんなに多いことかと思って、思っていることそれ自体に埒がないような。

生きていることを信じがたい裏切りのように思うことがある。何に対してということもなく、もし何かに対してということであればそれは論理立てて考えることもできるのだろうと思うけれど、そうでないかぎりは、ただの気分のような、そうしたひとつの背徳のような、しかし徳などはどこにもないような、そのようなものでしかない。どう思いつめた恰好をしていても結局のところは一人芝居でしかないのだけれど、でも基本的にはそうした一人芝居の組み合わせのように生活のことを思いなしてきたからには、たとえ死ぬということがあったとしてもそれもまた、生活のようにしか訪れることはありえないのだろう、おそらく、と、遅れてくる思いのように、つねづね考えていることがある。

わたしによって苦しみの濁りを心底にもつことになった人がいるかもしれないと考えることさえもおこがましいのだけれど、そうした人たちが、どうか忘却によってほどけていてほしいということを思うときに、わたしはわたしについて、わたしがわたし自身であるということによって被った、わたし自身の苦しみについて、何を思えばよいのだろう、と途方にくれてしまう。無数のありえたわたしを空想することも、ありえなかったやはり無数のわたしを空想することも、あなたの弱々しく怯える腕のように、わたしとともにあり、ともになく、つまり同じことで、だから結局、わたしはあなたを苦しめているということになるような、と思って、救いでないとしても笑うことができるということはあるね、という声が聞こえる。

言葉にすること、書くことや話すことが人にとって救いになる、という物語の要素にときどき出会い、そのたびに、ずいぶんと実感のこもったような話でかえって信用ならないように思いが流れてしまう。むしろ書くことが呪詛のように、新しい鎖のように変じることもあれば、あるいはまったく、透明に乾いてゆくような、そのような空虚であることもあるものではないのだろうかと、実感に実感を返したところで不毛なものだと苦笑しながら、苦く、苦しく笑いながら、それでも別のことを感じることはできない。耳を塞ぐことがほんとうの意味ではできないように。

遅効性の毒をずっと身体に注ぎこまれていたことにあとから気づいてしまったような、そんな思いがあり、今の自分のかたちが取り返しのつかない後遺症の結果であるような、誤謬だと思うようなことが、感情としては竜のような確かなものとして、どうしようもなく存在する。その感情とともに生きていくのか、その誤りととともに生きていくのか、その毒に汚れた身体とともに生きていくのか、わたしはそこにあるものが実際のところは何なのか、それをつかめないでいる。わたしについてすべてのことを変えることができるのに、何かがわたしを決定的に変えるのだとしたら、それはやはり、わたしというものの芯のあいまいさ、葱のような、そうしたものなのだということになるのかしら、と思う。

詩人が詩のことをとりあえず絶対的だと思わなければいけないというような事態が、そのこと自体が苦手かどうかはべつとして、すこし苦手だ、と思う、さる大学教授の人生の回顧が空虚であるとしてもそれはとりあえずの救いではあって、まだ大学教授でもないのに、そのような事態を時間から隔絶したものとして見はるかしてしまうのが、苦手だ、という意味において。雪の降る心象のなつかしさを繰り返し訪ねながら、ここには何もないと思う、何度も戻ってくることになるだろう、のちのちにも、と思うだけで、その予感だけがあり、でもそれは来ない、決して、決して……。

言葉で失敗しとおしなことが次々とやってくる夜や昼や夕刻があり、わたしからひとにあたえた誤解のいくつかと、ひとがわたしに結果としてあたえることになったさらにいくつかの誤解、ほんとうは何もあたえていないし受け取っていないのだけれど、でもそのようなやりとりだけが残るような事態に、こびりつく感情と、その描写の、気づく間もなくあらわれる言葉のゆかりを知ることになる。わたしはあなたのことを何も知らないし、あなたはわたしのことを何も知らない、そんなはずはなく、あなたとわたしという言葉を使い分けていると思うようなことが一体いつから可能だったのだろうと訝しい。一年は毎年冬に終わるみたいね、そうね、と、どちらが言ったのかもわからないような音だけが、わたしもあなたもあなたもわたしもいなくなったあとで、まだ届きつづけている。