雑記帖

存在しており、文章を書いています

水中花

あらゆること、あらゆることについて苦もなく全能をもって語ることができるということ、それとほとんど同時に、それゆえにということではなく、しかしそれと深々と絡みつくような形で、ほとんどのことについてはまったく語ることができず、目撃したものの、想像したものの断片の断片としてしかあらゆることを語ることができない、語ることさえできず、実際には書くことしかできないし、書くことさえもほとんどできないということ、そうした感慨をひとつの時期にもつことが深いところに沈潜する言葉への苛立ちなのである。鮮やかな、それゆえに疑わしい「であった」という文末。

突如として、そのとき回想が私にあらわれた。この味覚、それはマドレーヌの小さなかけらの味覚だった、コンブレーで、日曜日の朝(というのは、日曜日はミサの時間になるまで私は外出しなかったから)、私がレオニー叔母の部屋におはようを言いに行くと、叔母は彼女がいつも飲んでいるお茶の葉またはぼだい樹の花を煎じたもののなかに、そのマドレーヌをひたしてから、それを私にすすめてくれるのであった。

出来事に対してつねに遅れてくるその歴史、取り戻すという形でしか書き記すことのできない記憶、記憶として発見されるまでは自己から隠されていて、それゆえに認識ではなくつねに合理化された人工的な形象でしかないそれらに対抗する手段は、それらが偶然的であるということをわざわざ言い立てることではなく、その反対としての現在の形象、帰り道に落ちて散り散りになっている椿の花びらから椿の花を呼び戻すことでもなく、それらを睨みつけることだ。

プチット・マドレーヌは、それを眺めただけで味わってみなかったあいだは、何も私に思いださせなかった、というのも、おそらく、そののちしばしば菓子屋の棚でそれを見かけたが、たべることはなかったので、それの映像がコンブレーのあの日々と離れて、他のもっと新しい日々にむすびついてしまったからであろう、またおそらく、それほど長いあいだ記憶のそとにすてさられたそんなさまざまな回想からは、何一つ生きのこっているものはなかったし、すべては解体してしまったからであろう、

路上で惨殺されている蟻、死んでいないのに死んだと言うこと、死んだまさにそのときには死んだと言わないこと、それらの死を充満させて浮き袋のように、ボアのように身に纏ってそれらからはまったく目を瞑ることを自分自身に対して許すこと、身近なものの死を、あるいはそもそもそのある特殊な形態の何かに名前をつけて語ること、理解可能なものとして語ろうとすることをやめなくてはならない。遠くへの引越しと死とが似ているのではなく、死を遠くへの引越しという譬喩を通じてしか理解できないのだということをもっと厭悪しなくてはならない。

それらのものの形態は——謹厳で信心深いその襞につつまれてあんなに豊満な肉感をもっていたお菓子のあの小さな貝殻の形もおなじように——消滅してしまったのだ、それとも、眠りこんで、ふたたび意識にむすびつくだけの膨張力を失ってしまったのだ。

ふつうに人に優しくしたいし優しくされたい、そういうことの実現のために諦めなくてはならないそのほかの重要なことたちの実現、何が優しいということなのかをはっきり定義しないまま、定義すればいいというものではなく、優しいという言葉について全人類と調停を行ったあとで、それでもなお、kiki vivi lilyの優しい歌声、カネコアヤノの優しい歌声、尾崎世界観の優しい歌声、藤原基央の優しい歌声、その程度のものでもまったく異なるものになってしまうということの馬鹿馬鹿しさはわたしたちが言葉を使うということのうちにはじめから潜んでいるということを感得しない状態で優しさを云々しても仕方がないという指摘は容易でわたしの欲望は繰り返される形でそれでもなお優しくありたいということになるのかもしれずそうであるならば何かを言うことはほとんど無意味だ。

しかし、古い過去から、人々が死に、さまざまなものが崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。

だから言葉に邪魔されているから嗅覚や聴覚について考えるのではなく、言葉に邪魔されないために言葉について考えるのでもなく、言葉について考える/考えないということの陥穽について考えるのだとひとまずは言ってみることができる。わたしがここでこうして書いていることはわたしによって言われたことでは全然なく、わたしが言おうとしていたことでも全然なく、わたしが言おうとしていることだけが、あるいは無数のわたしにとってのわたしが言おうとしていることだけがつねに書きつけられてきたのであれば結局また、わたしたちは沈黙によってすべての音の震えを贖うことができるということになってしまう。わたしたちがどれだけ想像して何かに近づくことができたと感じるとしても、そこに何か生の本質の欠片であってかつその反転としての死の本質の欠片でもあるものを見出したと感じるとしてもそれはすべてわたしたちにとってあらかじめ前提されていることに過ぎない、あるいはわたしたちという言葉を、彼、彼女、そのどちらも、そのどちらでもないもの、そうした区別が無意味になってしまうような指し方を発明してみたとしてもそれでもやはりそこにある不定形で不可解な他者ではない他者を、まさにその発明によって発明することをやめないのなら、わたしたちの生きているこれ、この、現実という言葉や世界という言葉で捉えた途端にずれてしまうこれのことはつねに打ち捨てられるしかない。

 そして私が、ぼだい樹花を煎じたものにひたして叔母が出してくれたマドレーヌのかけらの味覚だと気がついたとたんに(なぜその回想が私をそんなに幸福にしたかは、私にはまだわからず、その理由の発見をずいぶんのちまで見送らなくてはならなかったが)、

わたしは話しているのでも、語っているのでもなく、ただ書いている、読んでいるのでさえなく、目に捉えたさまざまな印象は印象以上のものではなく、わたしは「あ、竹がある」だけをつねに見ていて、わたしは竹を見たと言う、あるいは書く、そうしたことの残酷な切断、だからわたしは死を見て、「あ、死がない」と思う、そうすることによってしか死を見ることができないということを恥じている、そこにある死体、火葬場の煙、すこし豪勢な食事、そうしたものの連続によってすべて何か隙間ではないものとして消失してしまった生命の痕跡、あるいは靴の裏についている踏み潰した蟻、その不連続のことと自分との関係がないことを恥じているのだ。

たちまち、表通に面していてそこに叔母の部屋があった灰色の古い家が、芝居の舞台装置のようにあらわれて、それの背後に、庭に面して、私の両親のために建てられていた、小さな別棟につながった(私がこれまでに思い浮かべたのはこの別棟の截断面だけであった)、そしてこの母屋とともに、朝から晩にいたるあらゆる天候のもとにおける町が、昼食までに私がよく送りだされた広場が、私がお使に行った通が、天気がいいときにみんなで足をのばした道筋が、あらわれた。

だからあったものをあったと言っておくことから始めるしかないのだし、そこで終わるしかないのだし、そういうことすべてに対して残酷なものに対して、あなたは残酷だということを執念深く伝えていくこと、それが言葉について考えたいと思ったかもしれないときに思ったことのほんとうの意味、ほんとうの意味というのは偽の意味ではないということで、わたしはないものについて、それはなかったのですよ、なかったために、ほんとうにあるのです、いっかいかぎりのことではないことがほんとうにあるのですといって人に優しくするためにないものについて話すことが、わたしにとっての優しさであるのだとしたら、そのためにあったことについて書くことの残酷さを認めなくては、認めさせなくてはならないのだとしたら、まだ言葉でもないような、叫びのようなものを書くことから始めなくてはならない、それはできないということをわたしは知っている。

そしてあたかも、水を満たした陶器の鉢に小さな紙きれをひたして日本人がたのしむあそびで、それまで何かはっきりわからなかったその紙きれが、水につけられたとたんに、のび、まるくなり、色づき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、おなじくいま、私たちの庭の全ての花、そしてスワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の睡蓮、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住まい、そして教会、そして全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。

言葉を水に浸すとそこから、ほの白んでいる明け方の街が出てきて、そこにはわたしの記憶のすべてが、箸はヨーロッパと、信号機は熊と、地下街の入り口は甲高い声と関連づけられて、溢れ出してくる、そうしたことがない、言葉を水に浸すと、言葉がとたんに、怯え、苦しげに喘ぎ、爪先をつかんで冷えたところを温めようとする、そのような人ではないように、そのような噴水や歴史やペダンティズムのまったくないように、何かを誠実に書くということが、どのようにしてできて、どのようにしてできないというのか。

引用はすべて、マルセル・プルースト失われた時を求めて1 第一編 スワン家のほうへ』、井上究一郎訳、ちくま文庫、1992年より。