雑記帖

存在します

備考欄の空白

 とりあえず近況ということにしたい。自分について話すのは得意でもなければ好きでもなく、元気もあまりなく、わざわざ公開状態にして話しておく意義も感じない。安い神秘性の神話を昔から割と信じていたということはあるけれど、それは結局のところ神話でも何でもないのであって、他人からわたしというものを捉えるのがそれなりに難しいという事実と質的には同様に、わたしからわたしというものを捉えるのも難しい。捉えるという言葉が適当すぎる気はしているが、理解するという言葉は嫌な文脈を背負いすぎており、感得するみたいな言葉に意味はほとんどなく、わかるという言葉の使い方をわたしはまだよくわかっておらず(こう使うのだ)、わたしの発した適当な言葉がわたしにとって重要なものになるということは意外と多い、あるいは救いになるということは。わたしが話そうとしていることは3行で要約することが主にわたしにとって難しく、いまこの文章を書き始めてこの文章が何字になるのかはよくわかっていないが、その全体と細部のすべてがわたしの話そうとしていることだということにはとりあえずなるはずだ。あらかじめ語られるべき事実群があり、わたしはそれをオウムよりは少し賢いオウムのように言葉に移していくというような記述はわたしの行為をまったく正確に移しておらず、わたしは言葉そのものを産出し、そうして作り出したものがこの記述であるという感覚をもっている。もちろん産出される言葉のひとつひとつはすでに古臭いものでしかないということは承知の上でだ。ここで書いていることが事実でないという意味ではない。そういう事実もあるということ、そういう、言葉によってしか支えることができない事実や実体、具体的であるということのもっと正確な意味を知ってもらわなくては、わたしがここで話そうとしていることはわたし以外の人にとってほとんど意味をもつことができないということになってしまう。自分にとって自然であると感じられることの総体としての想像の限界というものが人にはあり、他者や他者的なものとの交渉の末に社会という水準で実現されるものは個人のそれよりももっと矮小なものになるしかないので、わたしは自分の話そうとしていることがもっているある種の難しさや、人が難しく受け入れがたいと思っていることをそのまま一度それは難しく受け入れがたいが存在していることは確かであるというような態度で受容しつつ拒絶しつつ受容するというようなことが簡単に人には処理されないのだろうと思っている。代替物として短い記述やハンガーラックのような名前の一群があり、それを精緻に使おうと苦心している人や、それを自分のものとして信じる人がいることをわたしは知っており、そのことが特段正しくないとか正しいということもなく、それはただ石のように、むしろ大きな岩のようにそこにただ存在するものとして、存在するものに当然向けられるべき美しいものを受けることが、重言のようにはなるが当然なのだろうと思っているのだけれど、さしあたってその代替物の一群はわたしに関係がない。わたしにはいくつかの事実があり、事実に基づく思惟があり、思惟に基づく行為があり、行為に基づく結果があり、結果に対する感情があり、その感情もまた事実だ。わたしが話そうとしているのはその一連のことだ。反復になるがとりあえず近況ということにしたい。

 2022年の春に小部屋に通されて、わたしはそこでわたしの過去の話をしていた。顔から火が出そうだった。わたしが話したのは、二次性徴に対する恐怖と嫌悪、うまくいかなかった恋愛、服装の強制と苦哀、存在そのものに対する違和などの、おそらくは要約すればある種の典型性を帯びる一連の体験についての話であり、話を聞く人はわたしのそうした話を聞き慣れた話のように聞いていたようだった。わたしもそのことをわかっていた。嘘をついているつもりはなかったし、わかりやすく伝えようとするあまりに事実を歪めているつもりもなかったけれど、嘘をついているのではないかと指弾されることへの恐怖がなぜか心中を覆っていた。顔から火が出そうだったと思ったのは自分の話を正直にしたことがほとんどないからで、ふだん話していることの8割くらいは冗談だと思っていたけれど、そのなかでも自分の話については冗談でないことを言う必要がほとんどなかったのだろうと思う。話をして血を採られいくらかの額を支払ってからしばらく経ち、わたしは診断書と称する書類を手に入れることになり、そこにはDSM-5とICD-11に基づくカテゴリーの名前が書かれており、そこには一連の典型性を帯びた短い描写があった。その書類はありがたいものだったし、そこに書いていることに誤りがあるとは思っていないし、わたしはそういう話をそれなりの正直さと素直さをもってしたという自覚もあった、それでも腑に落ちない感じが残ったのは、カテゴリーの名前は結局カテゴリーの名前でしかないということをわたしがわかっていて十分にはわかっていなかったからだ。わたしのことをAであると誰かが記述するときに、Aという名前はわたしではない、当然のことながら。だからといってわたしがAでないということには必ずしもならないとしても。芝居の役柄のようだといつもわたしは喩えてそれにひとりで納得しているのだけれど、人が芝居の役柄というものをそのように捉えているかということについてわたしはあまり自信がない。わたしがクレシダを演じているとき、わたしはクレシダであってクレシダではない。クレシダがクレシダであってクレシダでないということが可能なのとまったく同様に。それから少しして、わたしは卵胞ホルモン剤の注射を月に2回の頻度で受けることになり、それを1年ばかり続けたあとで、アンドロゲンの内分泌器官を切除した。それが少し前のことだ。わたしはここまでの成り行きをまったく当然のことだと思っており、そうする必要があったとも感じており、そうしたという事実がわたしにとって重要なことであるとも考えているが、それが、わたしはAである、という記述とどのように関係するのかについて、明確な答えをもっていない。わたしはわたしの中にあるわだかまりに決着をつける必要があると常々感じていた。そのわだかまりを物質的物理的な水準で裏付けることについてわたしは絶対的な興味をもっていないけれど、それは内観としては、ある種の強迫であり、感情であり、確信であり、また端的に事実でもあった。わたしはそれを明確にしたいと思って考えつづけていたが、自分が考えることを続けていたということがわかったのは、2021年の秋に志村貴子の『放浪息子』を読んだときだった。読んだり観たりして面白いとか面白くないとか言うのが作品というものの唯一の受容方法であったとしたらわたしはもっと早くに死んでいたのだろうと思う。わたしと二鳥修一はまったく違う人間であって、それは何も難しい話ではなくどのような意味においてもそうなのだが、感情のあり方については絶望的なまでに類似性があった。考えること、考えていることを自覚すること、自覚した考えを言葉にすること、そうした考えが行為に変わることはすべて別のことで、わたしが2016年の春の終わりにもった考えや感情は、もっと昔の春から連綿とわたしを育てかつ蝕んできたものであるということにわたしが気づいたのが2021年の秋であったということなのだろうとわたしはまた別の仕方で考えている。18になる頃に立てた今後少なくとも10年恋愛はしないというひ弱な決意には、恋愛によってわたしはどこかしらわたし自身や人のことを裏切ってしまうという、一般論に広げてもそれなりに説得力をもちそうな考えが背景にあったということがわかったあとでも、わたしはそれを人にうまく説明することができない。わたしが人に何かを説明する言葉は基本的にそれほど整理されておらず、あるいは特殊な形で整理されているとしてもあまり整理されているようには見えず、だから人はわたしの言葉を別の言葉で言い換えてわたしの言葉を解こうとしてくるということが多く、それは有り難い話であるということはわざわざ書くまでもないけれど、そうした会話がまったく不首尾に終わるだろうとわたしが思うのは、言葉によって何かを示すということのうちに含まれている陳腐さへの予兆のようなものが、わたしの発話とそれに対する応答をあらかじめ見えている帰結へと導いてしまうだろうということがわかるからだ。わたしはAであるという記述を疑わしく思うとして、わたしは結局、わたしはわたしでありわたしでありわたしであるということに対してもっとも強い嫌悪をもっているのだから、わたしは、という声の始まりがざらついた低音であるということがもう苦しみになってしまう。わたしはこの脚であり、この腕であり、この骨であり、肉であり、目であり、胃であり、髪であり、そのどれでもないという確信、わたしの一部はすでにもう取り返しがつかないということが、わたしが存在するということのひとつの意味だ。2020年の春から伸ばしていた髪はいちど短くなったけれど、2021年の秋からまたじりじりと伸びつづけて、年月の経過を伝えている。

 後はあなたのことだ。あなたはわたしが書いた文章を読んで、わたしに対する認識をすこし変更し、記憶を手繰って適当に整合性をつけ、正しい振る舞いを恐る恐る、探り探りに、不安げな目でこちらを見ている。あるいは単に困惑する。あるいは単に唾棄する。あるいは憎悪する。罵倒する。拒絶する。自分がそうしていると気づかないうちにすべてのことをする。そして死ぬ。あるいはわたしが先に死ぬ。結局わたしが何かを言おうとしても、それがあなたにとって意味のないことであればそれはあなたにとって意味のあるものにはならないのだろうという当然のことを思う。わたしはあなたにわかってもらうことを目的としてこれを書いているというわけではない、それは正確ではなく、こんなふうに言葉を使うのはあなたに何かをわかってほしいと思っているときだけだけれど、わたしは理解や承認のためではなく、ただ話すことにしようと思ったので話しているのだ。だからあなたは作品の下品な読者のようにわたしの話していることを値踏みしたり受容したりして感情や理知を働かせて楽しんだり苦しんだり泣いたり笑ったりすることはない。あなたは自分はそんなことをしていないとかしないようにしようと思ってここに書かれているあなたという言葉の範囲の外にあなた自身を置いて安心する必要はない。あなたはわたしを男であるとも女であるともそのあいだにある何かであるともこの記述の束によって限定される何かであるとも思う必要はない。あなたはわたしに励ましや謝罪や罵倒を向ける必要はない。あなたはわたしではなく、あなたはどこかあなたであってあなたでなく、わたしにとってあなたがあなたであるのと同じように、あなたにとってわたしはあなただ。あなたはいつか死ぬだろうと思ってあなたは生きる。