雑記帖

存在します

フィエーゾレの丘といくつか

家を出れば徒歩3分のコンビニが正常性バイアスといっしょにいます

引っ越したら家の近くにあるコンビニがセブンイレブンからファミリーマートになった。ファミリーマートセブンイレブンよりも増殖の度が激しく、家から同心円を書いた時に同じ円上に位置するべきものが3軒ほどあってなんとなく恐ろしい。ローソンがあると安心できたりしてよくわからない。コンビニの中ではいつ行ってもだいたい同じようなものが売っていると見えるのだが、よく見るとパンやアイスやらのラインナップが少しずつ遷移しており、まったくコンビニのないところで10年間を暮らしてから帰ってくると一体どのような気分になるのだろうと思い恐ろしい。マスクのない棚がずっと空のままなのが世界の綻びみたいで。

からからの喉に(それでも我々は生きていくのだ)コーラをそそぐ

小学生のころからずっと炭酸飲料が苦手だったけれど、友人はよもやそんな苦手があると思わないので遊びに行ったりするとコーラが出てきて、それを必死の形相で飲み干したのちにあえて美味しいですと親に伝えたりしていたがコーラが本当に美味しかろうと美味しいですと言ってやる義理はないのではないかと思っている。大学に入ってから苦手を克服しようと思って各所でサイダーを買ったりクリームソーダを飲んだりしたけれど、耐えることができるようになっただけで苦手でなくなったような気は一向にしない。昔はナスビが子供の苦手なものの第一の描像であったので食わず嫌いしていたが食べてみたら美味しくてむしゃくしゃした時の気分が本当にそれで良かったのかどうかを考えている。

東京にひとつしかない苦虫を噛みつぶさずに味わえる店

カンガルーの肉はルーミートといって少しクイズめいた名前をしているが、ともかく東京ではカンガルーを食べることができる。あとワニとか。ワニね。ワニについて考えているときにワニを食べている人が周りにいることとワニ肉を食べたことがあるのは幸運だったと思っている。ワニが人間のように生きている、といったときにわたしたちが考えるのは何か。もしそれが隠れた本質を持っているとして、それこそがそれの広く受け入れられた所以であるのかどうかを悩ましく思ってしまい、どんなに再生産でしかないような事柄であっても感動したりできるので人間はすごいということになっている。

友達に会ったことすら言いかねるような気分ね 友達がいればね

Twitterのつぶやきを打ち込みながらわたしは一体誰に向かってこれを書いているのだろうということを思うことがあるが、全世界に向けて書くということが全世界に向けて書くというマインドセットなしにできてしまうということが真の発明だったのかもしれない。別に好きにすればいいしそれで死ぬのは悲しいけれどまあ現に死んでいないのでいいと思うことにする、ぐらいの気分なのに、それが大事なふりをしてみたりまるで死ぬ覚悟ができているように言ってみたりするのは欺瞞だと思っていて、そのような欺瞞によって人間は行動できるということなので人間はすごいということになっている。なっていない。

しゅるれある=ねこがさんざん伸び上がり急に目覚めたようにまたたく

猫に迷惑です。人類に恥を知らせるため井戸から出てくる真実。それであなたはねこが何なのか知っていますか? どうしてねこがねとこで構成されているのかと憤慨することがしばしばであり、たとえばぎとべで構成されていたりしたらもう少し幸福な未来があったかもしれません。家のベランダが野良猫の休憩所となっており、名前なんかつけたりしたら猫に迷惑です、毎日写真を撮っては何かをしているが全然こんなことをするべきではないのだろうという思いがある。あのとき京都で見たねこに少し似ている。

世間(てい)世間(ていてい)陽炎は1陽炎、2陽炎と数える

正しい言葉でわかりやすい文章を書くことができると自分では固く信じていてそれができるからこそそのようなものを書いてもつまらないと思うのでこのようにブロークンな文章を書いているのだと自分では思っているが実際のところ(春琴抄のような文体で)こういう文章を書くことに慣れすぎてしまってもはや正しい日本語の書き言葉というのは異国の言葉になっているのではないかと思うことがある残念ながら検証する方法はない。分節こそが言葉の機能であるような気がソシュールに言われただけなのになんとなくしておりだから点呼などを取っていると言葉が役立っている気がしてとても楽しい気分になってしまうわ。

これまでに行ったことある海外を思い出してる それはまだある

まだアビタ67があの不安定な外観のままでちゃんと建っているのだと信じているので暮らすことができている、ような気がする。本当は1年のうちほとんどアビタ67のことを忘れているとしてもそう思っている。アビタ67が気づかないうちに崩れ去ってしまってもうないよとある日突然言われたらなんだか人生に絶望してしまいそうな気がしており、プルーイット・アイゴーの解体とは実際のところそのようなことではなかったのかなと少し考えることもある。まだあの不穏な匂いのするドリアンの屋台がときどき観光客を集めていると信じていないと生きていられる気がしないのだから。

生きるとは走り続けることであり、落ちたらジュゲムに助けてもらう

以前あるひとが、幼少のころはただ暮らしているだけで生きていることができたが、だんだん大人になってくると生きているということを頑張らないと生きていけないようになってきたというようなことを書いており、それはたぶん恵まれているのだと思うが、それでも子供のころは必死に生きていたわけではなくて大乱闘スマッシュブラザーズなどに取り組んでいたのだと思う。ノー・アイテム・ショート・カット。一度壊れたら復旧は難しいこの生命というシステムをどのように馬鹿馬鹿しいものにするのかということを悩んでいるからこそSFを読んでいるという側面がないではないのかもしれない。あるいは、実際に圧死するために圧死するシーンを読むのかもしれないとも。

わたくしは座られたいという椅子をさかさまにして楽しんだこと

ボリューム・ワン。知り合いの家にあったロッキングチェアをひっくり返して上に毛布を被せる、あるいは公園に傘を持ち寄って結び合わせる。そのようにして秘密基地を簡易的に作ることができて、その中に入ってみても特に何をすることもないので雑談などをする。あるいはイタドリの林を切り開いて。外界から隔てられているだけでいい気分になるのだったら生まれてこない方がよかったのですかね、でも生まれたあとで死ぬことはまあできなくはないのに生まれなかったとしてもう一回生まれることも(死ぬことも)できないわけで、選択の余地を残しておくというのはリダンダンシイの確保のために重要ですよね。雨宿りもしたいし。

ぼくはいまデカメロンがしたい ばか 友達はなぜかみんな生きてる

でもそのうち家の食糧は尽きてしまうだろうし、このまますべてが止まってしまったら生きていくことはできないのではないか? あるいは、生きているということの意味がまったく尽きてしまうのではないか? 尽きるということはそれがあるということですか? 怖い話のひとつもできないのにどうして生きているのだろうと思い悩んでいる人がいて、あなたは良い聞き手になればいいのにと思っていて聞きも話しもしないのだ。昔からずっとサッカード運動をしているのにこれがサッカード運動かと教えられた途端に感心してしまうのは何かに騙されているような気がする。フィレンツェに暮らすということを少しだけでも知りたいと思っている。本当はこのような危機に瀕していたのはもともとであり、それがきちんと見えるようになったというだけなのだろうと思っているし、リスクはいくらでも数えあげることができて指の本数が足りない。死ぬかもしれないし死なないかもしれないし生死の境をさまようかもしれないので、とりあえず何かは書いておかなくてはならない。