雑記帖

存在します

退屈と無意味

 物がすくない部屋の隅に人が背中を丸めて座っている。

 顔はこちらから見ることができない。服装からも髪型からも特段、その人らしいといえるような特徴は読み取ることができない。部屋は灰色で、その人も灰色で、反対の隅から差し込んでいる光も灰色、それなのにひとつひとつのものが、存在を消すことができないことにかえって苛立つように、存在していることを主張している。音楽が流れている。パッヘルベルのカノン、荘厳な弦楽器の織物のようで、流れ出して止むまでのあいだに完璧な美しさをすこしも落とすことのない、退屈な曲だ。

 その人は何にも興味をもたず、顔は床に向いていて、手が動いているということもなく、ただそこに座っている。音ひとつも立てずに、周りの空気をすこし動かすことさえも厭うように。空気があるのかさえはっきりとはしない。呼吸のリズムも、上下する肩の動きも、カノンの旋律に溶け込むように消えて、何を言うこともない。沈黙が聞かれるということさえもない。何のメッセージもない。何の明るさも、何の暗さもない。ほんとうに光がないというのはこういうことをいうのだろう。

 演じているということのもっとも基本的な特徴は、それが演じていないということと区別ができない、よりはっきりと言ってしまえば変わらない、ということにある。何かを演じるということは、何かそのものであるということから免れることはできず、同時に、何かそのものであるということは決してないようなことだ。演じる、ということは、何かのふりをする、ということでは決してないし、演じているものがそれそのものであるとしてもなお、何かのふりをする、ということでしかありえない。わたしはAだ。Aはわたしだ。わたしはAを演じる。Aはわたしではない。わたしはわたしだ。AはAを演じる。AはAではありえない。わたしはわたしを演じるということでしかありえないし、わたしはわたしを演じるということがありえるはずがない。

 あるいは単に、わたしだ。

 朝起きると、今日もすべてが同じことで、今日もすでにすべてのことが変わってしまっていて、うんざりする、絶望する、繰り返すこと自体に意味はなく、繰り返してきたことに意味があるというのなら、退屈を紛らすことに意味はなく、退屈することに意味があるというのなら、朝起きると、今日もすべてがわたしで、わたしはひとつもわたしでないところがなく、わたしはそのことにうんざりする。決してわたしではありえなかったところのものであるようなわたしが、わたしである、ということに。

「あの子、死んだらしいよ」「そう」「そうなんだ」「なんで」「なんでって」「なんで死んだの」「死んだんだよ」「うん」「死んだことに理由なんてないじゃん」「でも」「でも?」「死ぬことに理由はあるじゃん」「あるさ」「そうでしょ」「でも別に死ぬ理由があったって、そんなの」「いや」「意味がない」「ないよ」「じゃあなんで」「わかんないよ」「嫌なことがあったとか」「そんなところ」「嫌なことなんて一個もないけど」「それどういう意味?」「べつに」「だってだから、そうじゃないのって」「違うよ」「ううん」「もう帰る?」「まだいる」「どうせ帰っても退屈だし」「ここにいたって退屈だけどさ」「そうだね」「わたしも、まだ」

 不意にカノンの音が大きくなって、頭のなかに流れ込んでくる。涙を流してしまう。どうして流れたのかわからない。感動したわけでも、悲しかったわけでもない。感動に襲われて、ひどく悲しい。部屋の隅に座っていた人がこちらを向く。その人は、その人も、涙を流している。息が、吐くようなうめきが漏れる。言葉をまだ知らなかったころ、わたしたちは叫んでばかりいたはずだ。生きている、今日も明日も死んだあともたぶん、どうしてかわからないけれど、どこかから、音が迫ってくる。わたしにわたしと名前がつくずっと前の時間から、わたしがわたしでなくなったずっと後の時間から、その人の口が開いて、耳を圧するような、嘘でも本当でもないような、それは、醜く美しく騒がしく沈黙して、これ以上はもう書くことができない。