雑記帖

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サカナクションの曲で一番好きなのはなに?
『映画』。

サカナクションの曲で一番きらいなのは?
特にない。

サカナクションの曲で一番好きなのはなに?
『ミュージック』。

サカナクションの曲で一番きらいなのは?
『Klee』。

サカナクションの曲で一番好きなのはなに?
『Klee』。

サカナクションの曲で一番きらいなのは?
『映画』。

なにかをきらいになるということによってわたしはなにかをいったつもりになっているが、なにかをきらいになることによってほんとうのところなされているのは、きらいになるということではなくて、ただそれにあるべきところをみつけてやることにすぎない、そうしてそれとうまくやるということのへたなやりかたのひとつだ。あるときにはまったくそうであるとしていなかったことが、あるときにはまったくちがうようになっているということにいまさらきづいたんだというふうにふるまってみても、それはつまり、あなたはそれをあるところにあるということにしただけなのだからあたりまえではないかと、そのようにわたしは話す。

近況を書こうと思っていたのだった。べつに文学的な調子で始めたいと思っていたわけではないし、『Klee』は好きな曲だし、『映画』は3番目くらいに好きで、中学校の修学旅行のときはずっと『ミュージック』を聴いていた。それは前にも書いた。だからきらいだというわけでもない。

形式的に環境は変化したものの、住む場所が変わるというようなこともなかったのであまり劇的に何かが変わったと感じることはない。住む場所は一年くらい前に変わった。近隣の人間との付き合いは特にないが、近隣の猫との付き合いはある。猫との付き合いは微温的なものにならざるを得ない点がよくないところだとおもう。

大学院に進んだので大学に通っている。大学院に通っているという意識はない。電車でいくと20分くらい、歩いて行くと30分くらいで、電車に乗るのがバカらしいので大きい荷物のないときは歩いての行き帰りである。大きい荷物のあるときはないので歩いての行き帰りである。歩くことに慣れるというのは景色から自分の位置を把握することに近く、だんだんと自分が大学と家とのあいだのどこにいるのかが感覚的に掴めるようになっていく過程を心地よく思っている。

自転車を持っているので自転車に乗って大学に行くことができる。自転車に乗るときにイヤホンをしていると危険であり、音楽を聴きながら歩きたいので自転車に乗って大学へは行かない。雨が降っているときには自分は徒歩を選ばずに電車を選ぶのかもしれないと考えたが、雨の日に乗る電車はきらいである。

身綺麗にしておきたいという意識と髪の長いほうが好きだという意識とのあいだには微妙に齟齬があって、それは前者が建設的だとすれば後者がトラウマ的だからなのであって、前髪のないボブヘアをなんとかヘアアイロンで撫でつけているのが現状となっている。ヘアアイロンを使ったあとに髪に通すために買ったヘアクリームからはバラの香りがするが、何のためにバラの香りがついているのかを理解していない。数ヶ月前までボディソープからはバラの香りがしていたが、いまはリリーの香りに変わっている。香りは自動的に変化するわけではない。

ジャック・デリダを読んでいる。よく理解できる部分とまったく理解しがたい部分があり、よく理解できている部分はもともとわたしが理解していたことに似ているというだけのことなのではないかと危惧している。しかし、そのような部分があるということは徒手空拳で言葉に立ち向かうよりは幾分ましなことである。ジャック・デリダが総体としてまったく理解できない場合、それはそれでジャック・デリダを読んだということになるわけではあるというような。

春休みを利用して自分のための読書をしようと思い立ったのは春休みのことである。当然のことではない。自分のための読書とみなされるものは、わたしにとっては、役立てるための読書でないもののすべてであるが、自分のための読書がどうして意識の上で役立てる読書と対立しているのかは不可解である。娯楽的な本を選ぶことも考えたが、言葉を理解する能力に乏しいころに読んだ長編の再読という考えのほうが気に入ったので『細雪』を読み返すことにした。

細雪』には唖然とさせられた。はじめて読んだときに何を楽しんだのかはすでに曖昧だが、おそらくは雪子の縁談というひとつの軸を追うことに汲々としていたのではないかとおもう。唖然とさせられたのはその余剰の多さにであり、妙子をめぐるエピソードを除いて考えても、水村美苗も書いているように、たとえばシュトルツ夫人の手紙は、文体的な特徴も驚かされるような内容もない近況報告でありながら妙に気になる。下巻の最後に掲げられていた長大な手紙には、わからないままに心が揺さぶられてしまうほどだった。そのように際限なくつづく余剰としての小説を通じて、妙子という人間はこうだ、雪子という人間はこうだ、というふうには表明できないまま、こんなときであれば雪子はこう考えるであろう、いま妙子は嘘をついているであろう、というようなことが諒解されるようになってしまった。

野球を観ている。特段何が好きというわけでもないが、家族の影響で日本ハムを応援する恰好に自然なっていた。2017年3月に東京へ越してきてから家にはテレビがなく、欲しいとおもったこともべつになく、最低限の情報は新聞やらで確認していたものの野球を観るという要素が4年間生活から抜け落ちていた。あるいは単になくなった。きっかけは何もないが、ともかくもう一度観ることにした。上沢が開幕投手であったり、渡邉諒に妙なあだ名がついていたりといったタイムラグによって生じる驚きを素直に受け止めた。田中将大の復帰登板を見ておもうところがないでもなかった。伊藤大海の初勝利を喜んだ。

身体に由来する欲求のそれぞれが程度の違いこそあれ消えかかっているのを感じている。もともとさしてない食欲ともうどうでもよいものになっている性欲は措くとして、睡眠に抗うような生活になっている現状をどうしたものかと思い悩んでいる。あるいはそれは生の感覚の欠如によるものかもしれないと考えて『リリイ・シュシュのすべて』をまた観たりもしてみたがそういうわけでもなさそうだった。食欲がさしてないということと深夜にチョコレートをかじることとのあいだに淵があるような気がしているが、暇だ、と言いたくなるような場面で「おなかすいた」と言っているのだからおおむねそういうことであるかもしれない。

最近はサカナクションはあまり聴いておらず、『ベンガルトラとウィスキー』と『海と花束』を繰り返し聴いている。