雑記帖

存在します

言葉遣いについて/覚書として

目次

1-9 一人称

10-18 悪口

19-25 ポリグロット

26-32 冗談の形成

33-39 表現の撹乱

40-43 冗談の技術

 

(一人称)

1.本当に小さいころは可愛らしかったので親から自分がいかに可愛らしかったかということを例を挙げられつつ聞くことがあってやや気恥ずかしく、それゆえその懐古から自らの一人称を知ることができます。それは自らの渾名であり、名前を一人称にするというのは往々にして子どもらしい(子どもでない場合は「子どもっぽい」という表現がふさわしい)ものとして受け取られるものであり、おそらくそれは小学校に入るまで続いたのではなかろうかと思われます。しかし小学校というのはもはや本当に小さいころではなく、それゆえ自らの一人称が何であったかということを知ることはできません。おそらく「オレ」と「ボク」がそんなに意識されない形で存在していたのだと思います。

2.転校という行為は自己紹介を強いるものです。入学という行為が自己紹介を強いるよりもより鮮烈な形で。しかし未知の場所への転校というのは自らの時間的変化というのを意識させるものではなく、単に自分が何であるかを紹介すればいいだけまだ容易です。かつて自らが存在した場所への転校というのは、否応なく時間的な変化を感じさせます。周囲がかつて自分が見知っていた周囲とは少なからず変化していることを知り、自分がかつてそこに存在したはずの自分と変化していることを知ります。そのことを知るために、自己紹介という問題は、つまり自分にとって自分が何であるかという問題は、より深い内省を強いるようになります。

3.したがって、当然そこには言葉遣いの問題が、そしてその中でも特にビビッドな問題として一人称の問題が発生します。自分が何であるかということを表現する言葉の端々に自分というものが滲み出ていることに自意識的になり、自分がどのような人間であると自分が思っているかということと一人称が一致してほしいと思うようになります。「オレ」というのは当時の自分が理知的だと思っている自分にとってはあまりに粗野に過ぎ、「ボク」というのは当時の傲慢な自分にとってはあまりに優し過ぎたのだと思うものです。そして、「ワタシ」というのは、当時の自分にとっては——あるいは当時の周囲にとっては——男子生徒が使う一人称ではありませんでした。他に知っていたのは「オイラ」「ワシ」「ワタクシ」「ワガハイ」「ショウセイ」とかであって、真面目に取り合うことのできる対象ではありませんでした(ひとはいつから「ワシ」を使いたいと思うようになるのでしょう)。そんなわけで一人称が未決定の居心地が悪い状態のまま小学生を終えます。

4.公立中学校の校区というものは複数の小学校の校区を統合して成立させることがしばしばであり、結果として校内には「小学校から見知っている人」と「中学校になってから知り合った人」が混在するようになります。そうすると自然、人間関係というもののモデルが「何となくみんな友達みたいな知り合い」という曖昧な状態からより厳密さをもった距離空間へと変化するようになります(あるいはそれは統合の問題ではなくて、小学校に比べて中学校というものが様々な組織化を伴うことに由来するのかもしれません。例えば部活動が明示的な組織として存在するだとか、クラスや学年といったものがより厳密な単位として捉えられるようになるだとか。他クラス侵入禁止とか。あるいはそれが中学生という年齢の特質なのかもしれません。何にせよ人間関係というものは少しく複雑で面倒なものへと変化します)。そこでは自分が中学校という生態系の中でどのようなニッチを占めているのかということが問題になります。自分がどのようなニッチを占めているかという問題は自らの特質という問題について危急の再考を迫り、それは即座に言葉遣いの問題と結合します。

5.かくして実験は行われます。実験は例えば言葉遣いと関係ないところ(サッカー部をやめるとか)でも進行していますが、ここでは言葉遣いに関してのみ述べます。第一の実験は敬語でした。周囲の人間に、親しさや学年といった内容を問題としないで全てにわたって敬語を使って接するというものです。敬語といっても大体において文末が丁寧語になるだけであってそれ以上のものではありません(ブログで使っている敬語の文体のベースになっているのでイメージは近しいものです)。この敬語はちょっとした効果を発揮し、まず測りかねるような関係性の中で語尾を濁すことが少なくなりました。敬語にしてしまえば失礼になることはまずないからです。そして単純にちょっと変な人だと思われました。変な人だと思われたがっていた当時の自分にとってはよい塩梅の快楽であっただろうと思います。第二の実験は「ワタシ」でした。

6.まず周囲の人に、今日から一人称を「ワタシ」にしようと思う、ということを話しました。話したのは、それはあくまで実験であるという前提が欲しかったからで、当時の自分にとっては自分が「ワタシ」という一人称を使うという状況はちょっと異常なものでした。そのように実験はゆるやかに滑り出し、異物感を感じつつも他に使える/使いたい一人称もなかったのでなんとなく自分の中では定着していきました。そしてある国語の時間に何らかの問いかけを受け、特に深い思いはなく「わたし?」と答えました。そもそもそんなに多くの人と話す方ではなかったのであまり教室全体に対して自分の一人称が浸透しているわけではなく、そしてそれは少し風変わりなことではあったので教室が少しだけざわざわしました。嫌な気分になったのではなく、大勢の前で恥ずかしい間違いを犯したような気分になりました(あるいは、当時の自分にとっては、もしかすると今でも、間違えること自体が恥ずかしいことであったかもしれませんが)。そこで、そのときの国語の教師が「『ワタシ』は男性でも使うことばでしょ」ということを、ひとつぽんと置いて、そして授業に戻りました。国語の教師というものはことばに対して権威があるもので、教室はそのひとことによって概ね納得したように思われました。そしてわたしもそのことばによって、自らが行っていた実験の正しさをなんとなく感じました。そのようにしてそれは実験ではなくなり、そして日常と化しました。

7.ただ、ひとつこの一連の実験の過程に失敗があり、それは家族に自分が今そうした実験を進めているということを言わなかったことです。家族に言うにはその実験はあまりにセンシティヴかつ気取っており、そしてタイミングがありませんでした。そんなわけで家族には今に至るまで一人称を定めたことを伝えておらず、結果として一人称を使わずに非言語表現をうまく取り入れつつ話す術が発達しました。しかしその術にも限界はあり話すのは難しいままなので無口になる傾向にありました。30歳くらいになったら言おうかなと高校生のころに思いました。

8.第一の実験は確か半年ほどでゆるやかに消滅しました。消滅の原因としては、敬語というものがある特殊な機能というものを持ち過ぎており、そのために伝えたい内容というのを伝えられない場合があるということに段々気づくからです。「本当?」と言いたいときに「本当ですか?」と言うのは何かが違っていて、別にそんなにあなたを問い質したいのではなくてただ驚きを表明したいだけなのでした。それでも一定の成果はあるもので、先輩という存在と話す上でウィットをうまく表現に取り入れることができるようになったこと、文章語で敬語を使う際に言文一致的な表現を取るようになったことなどが現在でも残る影響ではあります。

9.ちなみに「ワタシ」の表記は長らく「私」でした。「わたし」になったのは大学に入ってから、そんなに昔でもない最近のことです。理由は単純なもので「私」は「ワタクシ」と読めるのでした。そしてわたしは自分の一人称が「ワタシ」であるということを(自ら選んだものである、ということと、あまり周囲にいない(いなかった)、ということを理由として)一種の自らの特質であると感じており、そのことに多少の威信的な意識が芽生えていないこともないからです。ただ、「ワタシ」という一人称は、当然ながら成長するにつれて特殊なものではなくなっていきました。高校や大学に入りたてのころで初めて一人称を聞かれたときに少々驚かれるということはあるものの、中学校のあのときのような反応を受けることはもうありません。

(悪口)

10.世界が嫌いだから悪口を言いたくなるのか、それとも逆であるからそうなのかという問いを立てたこともありましたが、実際のところは興味がないのだろうと思います。興味がないという表現は少々苛烈すぎるところがあって、実際のところは世界に興味津々なのですが、それでも好きだとか嫌いだとか主観的な判断を世界に対して織り交ぜることをしていない(というかできない)ようなのでした。ではどうしてそこから悪口が生起するのか。これについては大体2つの理由が考えられるように思います。

11.ひとつには、コミュニケーションの手段として有用であるから。毒のないものはつまらないというのではやや手札が少なすぎるところがあり、その意味では毒によって成り立っているコミュニケーションというものは貧しいものであると反省しないこともないのでしたが、それでも例えば会話の中に皮肉を織り交ぜたり、特に怒ったり糾弾したりすべきでもない対象に過剰な(というのは前提としてあるものです)表現でもって悪口を言うことによってある種の面白みを演出するということが時には一種の方法としてあるものです。それだけならまだ平和なのでしたが、加えてコミュニケーションというのはラポールを築くことを目的の一つに置いているわけでありまして、そして仲間意識というものはラポールの源泉となることができます。そして誰か/何かを排撃する(とまではいかないまでも、異質なものとして扱う)ことによって、彼我は峻別され、そして我は「我々」となるということが起こります。

12.もう一つの理由は一言で述べることが難しいのですが、人には自分の立場を示したいと思うときがあります。それは例えばいじる側といじられる側であり、より詳しい(→正しい)側とそうではない側であり、そして「解っている」側と「解っていない」側であったりします(そうは言っても自分の示したい立場というのがその人の実際の立場と一致する道理はなく、ただ単にそれらの表出は「自分がどんな立場でありたいか」ということを示しているに過ぎません)。そのようなとき、何かについて話すというのはそのまま自分が何かについて話すことができることを示すという発語内行為となります。そして、それを対他的な形で行うことによって、その行為は相手の立場に対しても言及する類のものとなります。奇妙なことには。そのようなとき、人は自らの発話内容に(意識的であれ無意識的であれ)攻撃的な色彩を加えることがあります。

13.悪口が実に有用で全人類共通の武器であることは解ったとして、では逆にその副作用についてはどうなのかということを当然考えなくてはなりません。一般に悪し様に捉えられている内容はその(多くは逆説的な)美点について語られることが多く、逆に肯定的価値を帯びているものについてはその思ってもみないような欠点なり副作用について語られることが多いものです。馬鹿馬鹿しいことです。今のは不要な悪口です。

14.悪口がどうして悪いのかということを倫理の観点から喝破しようとするのは存外難しいものです。例えば「人を傷つけることはよくない」という一つの定立を考えてみましょう。この定立を理由として用いれば「人を傷つけることはよくないから、悪口は言うべきではない」というようになります。これについては、「人を傷つけることはよくないなら、人を傷つけない形で悪口を言えばよい」というように幼稚な反論をすることが可能ですが、それはそれとして「人を傷つけることは本当によくないのか」という、より論じる価値のある反駁が提出されます。このような倫理的定立の正否は基本的に「場合によりけりである」というのが結論であることが多いのであまり面白くありませんが、それは悪口がどうして倫理的に正しくないのかという内容について語る上ではちょっとした枷になります。それは例えば「人と仲良くすべきだ」「人を貶めるのはよくない」「他人を尊重すべきだ」というような大体正しい定立群についても基本的に同様です。

15.よりプラクティカルな視点に立つべきなのかもしれません。つまり悪口を言うというのは何らかの意味において非効率的な営みであると結論できればいいのでしょう。例えば人間関係において。これは駄目です。そもそも悪口で刺す対象となる相手というのは切実にかけがえのない存在ではありません。(少なくとも上で述べたような意味では)興味がないから。その一方より興味のある相手に対しては会話の具として、仲間意識の強化の手段としてあまりに役立つものと映ります。曰くそのような形で成り立つ人間関係は不健全である。しかし不健全であるという価値を持ち出してきたところであまり意味はありません。悪口は悪い、という一つのトートロジーで納得することができるのだったら初めからこんな話をするはずもありません。

16.ことばは人間が使うものであって、もし人間関係の観点から上手く悪さを実証することができないなら残るのは自分に対してだけです。実際のところこれはいくつかの検討する余地のある理由を提出します。例えば「悪口を使ってコミュニケーションをしている下卑た自分が嫌になる」とか「悪口を言う自らの傲慢さを繰り返し自覚することになる」とか。つまり精神衛生上の問題として扱うことができるようになります。わたしの場合は自分が正しく清い存在であるべきだ(別にいま自分がそうだと思っているわけではない)という強迫観念が存在するので上のもので理由としては十分になってしまうのですが、もちろんそのような強迫観念が存在しない場合は無意味です。

17.以上の内容はただの分析であって、わたし自身が悪口というトピックに対してどう応答しているかということを示すものではありません。そもそもどうして分析をしていたのかといえば、自分が悪口を言うべきか言うべきでないか(もちろん「言うべきでない」という結論にたどり着きたいのですが)というのを、単に自分の信条としてではなく、納得できる理由のある帰結として所有しておきたいからです。現在のところは自らの願望を無批判に受け入れるという形によって道徳観念に似たものが成り立っています。つまり、わたしはいま「喋り方を上品にしたい」という願望を抱いており、その状況において自らの「口が悪い」という性質を否定的に受け止めています。したがって、その上品さへの願望というものが消失してしまえば(実際に会話の中であまり願望が意識に上らなくなると縮小することもあります)、内的な駆動として口の悪さを矯正する理由が消えてしまうことになります。これはある意味では大きな問題です。

18.加えて一つの懸案として、悪口によるコミュニケーションによって関係性の強さが成り立っている場合に、悪口を言うのをすっぱりとやめることがその関係性の断絶の契機になりはしないかというものがあります(そもそもそのような関係性が今の自分にあるのかどうかについては判然としませんが、懐古や趣味によって成り立つ関係というのがある以上あっても全く奇妙ではありません)。もちろんそういった関係性のあり方の更新というのを考えるのが方策なのでしょうが。

(ポリグロット)

19.初めて英語に触れたのがいつなのかは解りません。自由かつ奔放に野山を駆け巡り部屋にこもって本を読んで幼少期を過ごしたので英才教育を受けているといったことは全然なく、小学校も住んでいるところに即した公立でしかありませんでした。その小学校の授業で触れたのが最初だろうかと考えてみるとそれはそれでやや怪しく、家で親のCDを借りて聴いていた音楽がもしかすると最初かもしれないと思わないこともありません。

20.しかしながらそのようにゆるやかな接触はあったもののそんなに深入りすることはなく、小学校の英会話といえばいかに気取った(というのは上手な)発音をしないかというゲームでもありました。ペアを組んで会話練習をしてくださいと言われても流れるような発音の英語はお互いに聞き取れないというので自然下手な発音で話すようになり、次第にそのような全てが馬鹿馬鹿しくなって日本語で話してもまあ何とかなるということに気づいたりします。

21.実はフランス語への接触というのは多少はっきりするもので、アフリカのフランス語圏の国から何らかの使節(JICAの関連だったと思いますが)が学校を訪れるというイベントがあり、そのときにたまたま何らかの矢面に立つ立場にあったためにフランス語の挨拶などを練習させられたということがありました。意味もわからずに。rの発音が難しいんだよと言われてもrの発音とかそういう次元の問題ではなく、そもそも「ボンジュール」という言葉と「Bonjour」という言葉とがどのように隔たっているのかが不明瞭でした。「Bonjour」を日本語の文字で書いたら「ボンジュール」になったのではなくて? 言語の越境の際に文字が違うと切り取りの単位が違うのでそのように混乱が生じる場合があります。

22.文法があるというのは言語があるという主張であるように思われるものです。実際のところ、小学校に入りたてのときもちょっとした英会話の内容というのはあったものでしたが、中途半端に賢いので「なぜ日本語の方が伝わるのに日本語で話さないのか」という疑問を抱いたりすることもありました。ともかくも中学校に入ると周囲が英語にかぶれるようになります。というのは当時の自分の心情であり、日本語と英語を混ぜた言葉遣いをするのはよくないと明確な理由もなく思っていました。「純粋な日本語」のようなものを正しく使いたいという願望があり、英語が発話に織り交ぜられることによってそれを使えなくなることに恐怖していたということが考えられます。

23.しかし実際のところはそんなことは不可能です。不可能であるということに気づくのではなくて、単に不可能であるからどこかで諦めるということによってその「純粋な日本語」への憧憬というものは頓挫します。そしてまあ普通に今に至ります。この項は過去を振り返ることを主題としているのではなく、どちらかといえばそのような言語状況というものがむしろ一般的であるということに注目するためにあります。

24.多くの人が(というかほとんどの人が)、学校教育を通じて英語に何らかの形で触れているのが現状の姿であるように思われます。そして、英語の得意苦手にかかわらず、異種の言語体系への接触は自らの言語体系に不可避な変更をもたらします。その理由には、まず単純には異種の語彙が大量に流入することにあります。外来語というカテゴリイは日本語を構成するものとしては(漢語を別のものとして考えるとしても)不可欠ですが、しかしその大量の流入には外来語という箱には納めがたいものがあります。殊に、昨今の技術関係の翻訳においては(分野に二重の壁を作らないために)外国語の専門用語を新語を造語しないままに受け止めるという傾向があるように思われます(その意味では、それらの新語を無理に漢語の観点から見ようとするのは的を外したことであるかもしれません)。そのような中で、あれもこれも日本語であるというのは次第に難しくなっていきます。自分の話していることばが日本語であるという主張も同様に。

25.もう一つには、自らが育ててきた言語体系に対して自省/相対化を迫られるということがあります。単なる自省は例えば口語文法を「学ぶ」という行為によっても誘引されるものですが、それ以上に別の言語体系の現前によって相対化を迫られるというのは一種の危機です。自らが用いている表現を妥当性という観点から見るようになると同時に、自らが用いていない表現も正しいということが全く完全な形であり得るようになります。これはある意味ではことばの正しさというものを見つめる機会であるとも言えますが、同時にことばの正しさから限りなく離れていくことでもあるのです。

(冗談の形成)

26.冗談について真面目に語ることは難しいことですが、冗談について冗談っぽく語ることはそれ以上に難しいことです。以前に以下のような傲慢な内容を呟きました。

大学に入ってから皮肉や反語や冗談を解さない人と話すことが増えたと感じており、結果として自分のそれらを扱う能力も減退してしまった感があって虚しい

 全くのところ。このように感じてからさらにしばらくの時間が経過しており、そうしてみるとその時点での自分というのも過去のものとして扱うようになるのですが、そうしてみると冗談のセンスのようなものがどのように成立しているのかということについて一つのモデルを打ち立てることができます。

27.最初に構築されたモデルは階梯をその基本構造とするものでした。つまり、人は世に流布している冗談を摂取してその技法を身につけ、冗談のセンスを磨いていく、そしてその人はセンスという階梯を成長するにつれて上に登っていくと。このモデルでは、上のわたしの嘆きは「一部の人は自分に比べて冗談の階梯で進んだ場所に到達しておらず、結果として自分がその段階に降りた状態で冗談を扱うためにさらに高位に進んでいくことが難しい」ということになります。しかし、このモデルは幾つかの点において問題を生じます。

28.自分が面白く感じていることが相手にとっては面白く感じられない場合があるというケースがあります。つまりセンスのようなものが単に線状に進歩していくものならば、自分が取り扱っている冗談は相手にとって明らかにより面白いものとして現前しなくてはなりません。しかしそのような形にはなっておらず、むしろただ断絶があるように感じられるのです。上で述べたのとは逆に、自分が面白くないと感じているものを相手は面白いと感じており、しかもそれが単に使い古されたものであるのではなくて全く異質なものとして受け止められることがあります(もちろん使い古されたものであるように感じることも往々にしてあります)。つまり階梯のモデルは多様性とゴールへ複数の道があるという事実を見逃しているように思われます。

29.そこで遊牧というモデルが考えられます。遊牧民は羊などを連れ草原を求めて移動し、その草原を食べ尽くしたら次の場所に移動しという風に動いていきます。そこではゴールへの目的意識や線的な段階があるわけではありません。冗談の感覚というのもそのようになっているように考えられます。例えば2ちゃんねる(現5ちゃんねる)で享受されている笑いというものを摂取し、それを既にあるものとして受け止め、そしてそれに飽きる。あるお笑い芸人を見て、バラエティ番組を見て、アフォリズムを読んで、そのように種々の冗談を摂取していく。あるいはそれらの冗談を全然摂取しない。そのようにして大きくなっていく。

30.実際の遊牧とは違って、通り過ぎていった冗談の群は経験として残存します。それゆえ、それらを基本的な道具立てとして、メタ化を行うことによって笑うこともできます。一方で、それらの既に通り過ぎてしまったものをア・ラ・モードとして受け取っている人は、自分がすでにそれらを面白いと思っていないだけにひどく陳腐なものとして感じられます。あるいは、成長する上で全然別のルートを通ってきた場合には、冗談の感覚はひどくかけ離れたものとして映ることになります。

31.思うに、高校までは程度の差はあれそれなりに近しい地域に住んでそれなりに話題を共有しており、冗談のルートというのもある程度似通っていたものであったように思われます(かつ小さいころの人間というのは柔らかいものであり、そのように話題を共有すること自体がある意味では遊牧の一過程として作用します)。しかし、大学ともなると規模が大きく変容するものであり、ルートが全く異なる人との出会いを経験することにもなります。しかも、大学生ともなってくると自分が何であるかということについて図々しくも何らかの信念を抱えているものであり、それまでと比べると随分薹が立ってしまっています。そのようにして理解できるものとできないものが強く弁別されていきます。

32.であるからして、面白みというものに何らかの統一的な尺度を設けることは困難ですし、それゆえ面白さというものが解らなくなるというのは成長の必然であるともいえます。したがって、むしろ問題にすべきなのは自分が扱っている冗談の種類や性質であって、それらの新規性や面白さの度合いといったものを問題にするのはさほど有益な議論を生むようには思われません。具体的な内容についてはまた別に。

(表現の撹乱)

33.インターネットの話から始めなければなりません。【29】で2ちゃんねるには触れましたが、ともかく人は中学生ぐらいになればインターネットに出会うものです。インターネットに出会うということがそのままネットカルチャーと出会うことではありません(わたしは当初Wikipediaを読むばかりのインターネットライフを送っていました)が、いずれそうした出会いも果たされることになります。

34.ネットカルチャーとの出会いは世界の描像に種々の変容をもたらすものですが、こと言葉に関して言えばネットスラングの存在というのが大きいものです。ネットスラングの特質。1。文脈を喚起するということ。2。認証のシステムとして作用すること。3。定型/お約束/繰り返されるパターンであるということ。このうち最初の2つは今回の話にそんなに関係ないので飛ばします。定型であるとはどういうことかといえば、ある一定の表現が次の表現を喚起し、さらにその反復によってパターンが強化されるということです。さらに進んで、現実の類似のパターンに対して同じような反応を返すということまで進む場合もあります。

35.そのような様態は恐怖を生みます。生みますといっても、わたしには生まれたというだけであってそれ以上ではないのですが。どのような恐怖かというと、日本語を本当の意味で自由に操れなくなるという恐怖です。それは【22】で述べた英語の混入に対する恐怖と軌を一にしています。つまり、日本語を自在に素晴らしく正しく操るという理想があり、その理想への道を阻むものとしてネットスラングのようなものが混入するということです。

36.そのような恐怖を駆動として、「変な表現を使う」というメソッド(あるいは対抗策)が考案されます。それは例えば、自然にするりと口から流れ出てくるような表現を迂回すること、ある特定の文脈のもとで使われることが多い表現をあえて別の文脈のもとに晒すこと、日本語の構文として読みやすく自然と思われるような流れに反することとして現れます。実際のところ、ネットスラングを措くにしても会話は約束事によって快楽を醸成するものであり、その際限ない繰り返しをどうにかして避けようとすることは結局大いなる目標となるものであったのかもしれません。

37.容易な具体例を挙げると、例えば「家族/親がいる」という表現を「家庭がある」という表現に置き換えるという戦略があります。「家庭がある」という表現は大抵両親の、しかも仕事に従事している者の目線として使われるものですが、字義通りに受け取ってみれば単に家庭というものに所属しているという意味で使うことができるかもしれません。あるいはできないかもしれません。往々にしてそういう撹乱は追い求められます。

38.結局その果てに何が訪れるのかといえば、それは詩的言語との衝突に他なりません。つまり、例えば多和田葉子はドイツ語と混ざり合うことによってかなりアクロバティックかつ鮮烈にそのようなプロセスを実行していますし、また具体的な名前を挙げることをしなくても現代短歌や現代詩のかなりの部分がそうした方向を向きつつ進んでいます。あるいはそもそも文学とは言語の芸術であるゆえに言語の解体を進めざるをえないプロセスであると言うこともできるのでしょうが。それは行為のレベルにおいて(カニエ・ナハ)、あるいは描写の不自然さのレベルにおいて(円城塔)取り組まれるとしても同じことです。手前味噌な話をするならば、以前の『洗濯学入門』はそうした方向を向いています。

39.したがって、もう後戻りすることはできず、日本語の淵の底にただ落ちていくしか方向はありません(重力とはそういうものです)。あるいは全く撹乱を外的なものとして受け止めること(ヴァルター・ベンヤミン)、言語それ自体を全く異質なものとして受け止め直すことでしか、本当の意味で言語を使えるようになれるはずもありません。

(冗談の技術)

40.ナンセンスとメタ化、過剰といったものたちとどのようにやっていくのか。deal withという表現が頭の中に浮かぶのだけれど、それをうまく日本語にしてやることができなくて全然話すことができなくなってしまうものです。過剰さは冗句でありジョークであって、例えば情報量を過剰にしてやることはそれ自体で面白みを生むことができます。情報量の多い画像とかアクション映画とかを人が面白がることができるのは情報量が多いからです。多分。情報量を減らしてやると面白くならない気もしますね。デザインは引き算だというのは情報量が多いと冗談のようになってしまうからではないのですか。多分。繰り返し、天丼というものが面白いのも過剰だからです。会話というのは情報のやり取りであるような気もしますし、そうしてみると2回同じことを言う道理というのは別にありません。そんなことを考えながら冗談を言っているわけではないのです。全然。

41.あるいはナンセンス。センスがないという意味でナンセンスという言葉を使ってしまうとやや狭量に過ぎ、センスがないなと思った場合はセンスがないって言えばいいんじゃないでしょうか。例えばライム。親父ギャグっていう言葉は面白くないそれについてしか言わないような気もしますね。駄洒落を言うのは。布団が吹っ飛ぶのは面白くないですかね。布団が吹っ飛ぶのが面白いからそう言うんですか? あるいは全然意味がないような会話。論理を外れているのはナンセンスで、だから面白いものであって別に正解となる応答とかはないのですね。あるいは全然面白くない応答というものが面白いのかもしれないのですが。すべり芸が面白いのはずるくないですか。全然ばかばかしい想定というものを人はするもので、それがいかにばかばかしいかを説明されても困るというか困らないというか。あるいは一言面白いことを言って立ち去るような。

42.「寝転べば畳一帖ふさぐのみ」と。

43.ギャハギャハと笑いたくはなくて、いや笑いたいのかもしれないけれど、でもどちらかといえばくすりとにやりと笑いたいのかもしれません。メタ化。相手が冗談に乗っかってきたら梯子を外します。いまあなたが言ったことは変ではないですか? いやわたしの言ったことも変ではあるのですが、階層がずれたのはそこではないので反論されても別に意味はないんですよ。あるあるネタを言えば面白いんですか? 「人間はそのうち死ぬ」とか。枠組を設定されたらそこから離れていくべきなのです。あるいは設定されたのではなくても枠組を探してみれば意外と見つかるものです。

44.書き言葉になった途端に饒舌になると言って人を馬鹿にすることがあっても、結局このブログを書いているあなただってそうではないですかね。自分のことを指してあなたという表現を使うのはちょっとウィトゲンシュタインっぽさが強すぎるというか。だから本当は応答ではなくて発話として冗談を言うようになりたいと思うものです。そのためにフリートークをする練習をしてみたいと思うものです。練習をしてみたいって、練習は勝手にすればいいんじゃないでしょうか。どうしたらこのことばの海——言海とは辞書につけるには少々本質を射止め過ぎている表現です——から進化して陸に上がることができるのでしょうか。いつからわたしたちは自分のことを魚だと思っていたのでしょうか。