雑記帖

存在しており、文章を書いています

名付けと偶然性(部分的な近況)

クリプキの話はしません。クリプキの話みたいな話はするかもしれませんが。

最近起こったことの話をするとややマニアックに過ぎる気がするのですが、マニアックに過ぎるというのはたとえばあるカルト作家の知られざる短編を読んで別に面白くなかったみたいなそういう話にみられるものではなくて、Tカードを1年半ぶりに更新したのがあまりに呆気なくて目のやり場に困ったみたいな、解像度が狂った話しか浮かび上がらないということです。それで面白ければまだ良いのですが、別に面白い話をするために生きているわけでもないし、面白いことを経験していなくても面白い話はできるしということで結果的にどういう生活をしているのかを人に話す機会というのはほとんど通り過ぎてしまって、人には形而下における形而上の話ばかりをする羽目になるというわけです。天国にいる人が何食べてるかとか気になります?

フィエーゾレの丘といくつかにも少し書いていますが、今年の3月に流行の間隙を縫って(そんなものはありませんでしたが)引越しをしました。そうするとねこがいます。そうするとねこがいますというのは引越し先にはねこがいるものだとかクロネコヤマトがどうこうとかそういう話ではなくて、そうするとねこがいます、ということです。ねこがベランダにいるので、見たり見なかったりします。あんまりまじまじと見つめすぎるとねこは警戒心というものを持っているので逃げます。適切な距離を保つことでねこは警戒をゆるめ、ベランダに落ち着きます。全然関係ないですが、ソーシャル・ディスタンスのことを人はソーシャルと略すのですね。意味わかんないですね。

それで、「ねこくん、ひとり?」とは『耳をすませば』に出てくるやや問題含みの台詞ですが、まあねこが一匹なら良いのです。ですが、ねこが二匹いることがあります。あるいは、ベランダでないところをねこが闊歩していることもあります。それはまた別のねこであり……と書くと嶋岡晨「かくれんぼ」のようで事ですが、まあ実際上ねこは複数匹いるのです。ねこは複数匹いるので、ねことねことを区別する必要が生じます。あるいは、いまこのようにねこ、ねこ、ねこと書くことによってねこは複数匹生じるわけですが、そのねことねことは文章の中で位置的に隔たっており(文章は一種の剛体です)、ということはおそらく読者にとって時間的に隔たっているので区別の必要は生じません。つまり問題は、ねことねことねことがいるということではなく、ねこが複数匹いるということにあります。

自然な成り行きとして名前をつけようということになります。ねこに名前をつけるといえば『ルドルフとイッパイアッテナ』の話を避けては通れませんが、避けて通ります。名前をつけるアプローチには毛並みを見るとか既存のねこらしい名前を導入するとか既存の特にねこらしくはない名前を導入するとか特にねこらしくはないがあるときにねこにつけられたことがある名前を用いるとかそういったアプローチがあります。全然関係ないですが、アプローチという言葉には空間性があっていいですよね。竹林の中に歩道がぐっと曲がって通っている光景が似つかわしい言葉です。まあなんでもいいから名前をつけようということになります。一方では、名前をつけるとへんに愛着が湧いてしまうので、いなくなったりしたときに悲しいという反対意見も出ます。じゃあいなくならないようにすればいいじゃないかとくるので、餌付けを考えます。餌付けをすると味をしめてしまって大変だ、というところまで議論が進展し、近所のひとが複数のねこに餌をやっている場面を目撃して講堂は崩れ落ちます。今井澄が「一時この放送を中止します」と言ったときに講堂が崩れ落ちたならどんなによかっただろうと考えています。はじめて全共闘のことを知ったのが『ぼくらの七日間戦争』を読んだときであるという事実について特にどうとも思っていないのですが、物語がどんどん勝手にばかばかしくなっていってしまうのはどうしてだろうと不安に思っています。

一応名前はつけたのです。つけたのですが、それがまだ私的言語であるうちは名前とは呼べないのではないか、というかわたしは本当に名前をつけたのだろうか? ひとに名前をつけるという機会があることが想像されます。あるいはひとでなくても、ものだとか、団体とか、そういったものに。ぬいぐるみに名前をつけている人はぬいぐるみに名前をつけることを恐れなかったのだろうかとか、そういうことを考えています。そもそもその名前は必要なのかとか言い出して文系学部は削減の憂き目に遭います。

ところでやはり、粉挽きの娘はルンペルシュテルツヒェンの名前を当て、夜神月デスノートに人々の名前を書き込んでいくわけなので、お前の名は千だよと、そういう感じになってくるわけですが、このあたりについて詳しいところは物語要素辞典の「名当て」とかを参照していただくと良かろうと思うのですが、どこまで行ってもトリストラム・シャンディはトリスメジスタスたりえないわけです。その意味において嫌な暴力は避けたいと思うのですが、別に好もしい暴力があることは含意していませんが、そんなくだらないこともあるまいと思うところではあります。自分の名前で検索することをエゴ・サーチといい、何かの言葉で検索することを「〜でエゴサする」というのはどこかがおかしいけれどどこがどうおかしいのかはそれほど自明ではありません。このあたりに哲学の逃げ道があるのではないかと思っています。

生ハムを電子レンジで加熱したらハムになってしまって食べた 

(三上春海「終わりとそのあとで」) 

 2016年5月に刊行された『北大短歌 第四号』を、少し寒かったような気がするのでたぶん冬に、何らかの理由で立ち寄った文芸部の部室で読んだ記憶があります。勝手に入ってもよかったのかどうかはあまりよく覚えていません。そのときにどう思ったのかもあんまり覚えていません。評論をぜんぜん読まずに作品だけを読んだということはやや覚えています。生ハム、という言葉を電子レンジに入れたら、ハム、という言葉だけが出てきて、生ではなくなってしまったんだなと思う、その思うというのを悲しいとか寂しいとか形容しないところで踏みとどまっていて、「なってしまって」とだけ言い、用済みのように「食べた」と言う、そういう歌だと思っています。電子レンジは名前を滅ぼすことができるということです。あるいは、名前というのは滅ぼされることができるということです。

そのときは短歌をメモしておこうなどといったことはぜんぜん考えないで、作者の名前と「終わりとそのあとで」というタイトルをうっすらと記憶して、その後長いことほとんどのことを忘れていました。高校3年生のことです。