雑記帖

存在します

年末ウィザード

Q. 自分よりも頭のいい人を、人をというのは登場人物を、生み出したいと思ったことはありますか?

A. はい。

Q. そのためにはどんなことが必要になると思いますか?

A. 頭のいい人を作り出す方法にはいくつかあるのですが、ひとつには、一般に頭の良さと何らかの関係を持っているとみなされることがある指標を利用する方法があります。つまり受験においてレベルが高いとされている学校に良い成績で合格しているとか、IQが200オーバーだとか、300オーバーだとか言うとか、そういう類のものです。でもこれは大抵の場合うまくいきません。

Q. なぜですか?

A. 実質が伴わないからです。あるいはあまりに紋切型であるために、実質を生み出すことができないからです。というよりはむしろ、こうした表現を用いる人がそこで実質を生み出そうとする傾向にない、と言ったほうが適切かもしれませんが。単純に作者がばかだと思われる、というのもあります。

Q. ほかの方法はありますか?

A. 同様の理由でうまくいかない方法としては、ある種の無限後退をともなう形容詞を用いることです。つまり「天才」であるとか、「頭脳明晰」であるとか、そういった言葉を用いることです。「美しい」という形容詞と同じように、その内容は他のパラディグムを想起させるという形式でしか内容を担保することができず、したがって実質がないのです。あるいはまた、偏屈だとか、私生活がだらしないとか、そういうサンタグムの側から逆に「天才」という言葉を不在の中心にすることもできますが、いずれにせよ紋切型であって実質がないという点では同じことです。

Q. なるほど。しかしそういったサンタグムをばらまく方向のうちには成功しているものもあるような気がしますね。

A. そうですね、それが紋切型でなく、独自のものであるほど成功の余地が生じると思います。いずれにせよ、自分より頭のいい人を創造するというときには、すべてを透明にすることはできない、という前提が重要です。

Q. つまり?

A. 自分にとって理解可能な、解釈可能な形で天才性の思考を与えるかぎり、もちろん凝縮の度合いで誤魔化すことはできますが(たとえば自分なら5時間かけて解ける謎を1分で解かせるとか)、作者とスケールからいって同程度の頭のよさしかその人には与えることができない、ということです。

Q. べつにそれでもいいですけどね。ホームズとかはそうやって生み出されているような気がしますし。

A. まあね。

Q. 気安いですね。

A. しかし、凝縮の度合いが高まれば高まるほど描写はわざとらしく、荒唐無稽なものになってしまいますし、スケール的に、というのは質的に、ということでもいいですが、異なる頭のよさを生み出したいと思うなら、それは原理的に作者にとって理解不可能なので、その頭のよさの実質は作者にとっても隠されているしかないということになるということ、それは否定の形式によってしか与えられようがないということ、これが問題なのです。

Q. 自分であるならば自分のことを完全にわかっているとでもいうような言い草ですね。

A. 悪かったね。

Q. ともあれ、その意味では自分より頭のいい人を語り手にしようとするのは単なる登場人物として描くよりも困難な課題となりそうですね。

A. 内的焦点化をともなう場合は特にそうなるでしょうね。しかし少なくとも、このような対話形式をとるかぎりにおいては、描写は完全に表面的なものとなるのでそうした困難は生じないということになります。

Q. あなたは以前、悲しそうにすることと悲しいこととのあいだの微妙な間隙について考えていたことがありましたね。

A. はい。

Q. 先ほどの質問はその内容を教えてほしいということを含意していました。

A. そうでしたか。

Q. 先ほどの質問は、わたしは先ほどの質問にその内容を教えてほしいという意を込めていたので、改めてそれをお願いしたいというメッセージを含んでいました。ぜひ、あなたが以前考えていた、悲しそうにすることと悲しいこととのあいだの微妙な間隙について教えていただけると嬉しいです。

A. とりあえず、「悲しい」と思うことがあるということと、人が悲しそうにしているということは外部から観察可能であるということを前提するとします。そうしたときに、悲しむ、ということはどういうことかが問題になるのです。わたしは悲しんでいる、ということを表明することなしに、つまり悲しそうにすることなしに、人はほんとうに悲しむことができるのか、ということですが。人が死んで悲しいと思うときに思うだけで十分なのかどうかということでもあります。

Q. そういう話をしたときに、ああジェームズ゠ランゲ説とキャノン゠バード説との対立の話だね、みたいなまったく的外れでスノビズムに満ちた応答をされるのが嫌で仕方がなかったということですか?

A. そういうことはありましたし、これからもありますし、今後なくなってほしいと思うだけ無駄ではあるとしてもなくなってほしいとは思いますが、ここでの話にはその応答(それは本来応答と呼ばれるべきではないのですが……では何かといえば「叫び」などになるでしょうか)の内容が関係ないのと同程度に関係がありません。

Q. ところでそれは悲しいということ以外にも当てはまる話ですね。

A. そうです。自分はまったく優しくないと思っている人が、「自らの意に反して」優しい行いを一生続けた場合、その人は優しい人間であったと言えるのかという問いでもあります。問いだと言いましたが、実用的な観点からすれば、人は優しそうな行いの連合を観察したときにその人を優しい人間だと思いなす傾向があるので、そうした傾向は描写に役立てることができるということでもあります。

Q. つまり、「ダンブルドア的要素」を多数連合させることによってまさにダンブルドアが顕現する、あるいは「生まれる」、そうしたことでしょうか。

A. それは答えにくい問いですが、というのはつまり、「ダンブルドア的要素」とは何かということがそこでは改めて問題にされる必要があるからです。どちらかというと、ある連合がある程度の自然さをもって連合可能なときにのみ、人物が創造されると言ったほうがいいかもしれません。「自然さ」は「凡庸な想像力」と言い換えることができますが。

Q. 要素に極端な欠落や矛盾がある場合は不条理となると?

A. そうした実験はつねに可能ですね。

Q. 創造するということについてもう少し。

A. 創造するということはある意味では想像するということと対立するものであって、他者との衝突でもあります。自己複製の幽霊との対話に淫するのも結構といえば結構というか、そうしたことに対して誤魔化しがない場合は結構なのかもしれませんが、手紙は届かないことがあり、ダンブルドアは反トランスジェンダー的な言動をしないと完全に信じることができて、そして幽霊はわたしを徹底的に裏切る、そうすることによって初めて創造がなされるのだと言えるのです。

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Q. 家は寒くないですか?

A. よくわかりましたね。

Q. お風呂に入っても出たらすぐに身体が冷えて、布団に入って毛布に包まってもどうにも寒いままで、エアコン暖房なんかつけても温まるわけもなく「耐えられないほど寒い」から「耐えられる程度には寒くない」への移行だけが延々と続くような冬を過ごしているのは虚しくありませんか?

A. 言いたいことを全部言わないでください。

Q. なぜですか?

A. あなたはキューで、わたしがエーだからです。

Q. あなたの言いたいことはなんですか?

A. わたしの言いたいことは、今年見聞きしたもの、好きになった映画や本や音楽、今年のツール・ド・フランスやなんとなく見ているサッカー、音楽のなかでも人に知られておらず、人がもっと知るとよいと思うもの、好きな曲私的ランキング10選、映画の中でも衝撃的だったもの、本の中でも特に分厚かったもの、分厚かったものを読み終えたことを誇示すること、あるいは本を鈍器として扱うこと、本を振りかざし、振りおろし、ページを血で汚して人を殺すこと、人の死を悲しむこと、今年亡くなった人を追悼すること、喪に服すこと、そうすることによって悲しむという行為を果たしかつ諦めること、生活のちょっとした変化、人間関係の難しさ、人生の機微、このまま死んでいくということ、あるいはこのままでは死ぬことはできないようだということ、つまり否応なく変化していく生活に対する不安、社会にたいする怒り、変革の希望、革命の狼煙、あるいは弾圧、とかなんとか、薔薇の花、もっと言えば紫陽花の花、あるいは紫陽花という名前をもつ人、あるいは想像、そして創作、自分がつねづね考えていて人はそれほど考えていないと思うすべてのこと、ではありません。

Q. ありがとうございました。

水中花

あらゆること、あらゆることについて苦もなく全能をもって語ることができるということ、それとほとんど同時に、それゆえにということではなく、しかしそれと深々と絡みつくような形で、ほとんどのことについてはまったく語ることができず、目撃したものの、想像したものの断片の断片としてしかあらゆることを語ることができない、語ることさえできず、実際には書くことしかできないし、書くことさえもほとんどできないということ、そうした感慨をひとつの時期にもつことが深いところに沈潜する言葉への苛立ちなのである。鮮やかな、それゆえに疑わしい「であった」という文末。

突如として、そのとき回想が私にあらわれた。この味覚、それはマドレーヌの小さなかけらの味覚だった、コンブレーで、日曜日の朝(というのは、日曜日はミサの時間になるまで私は外出しなかったから)、私がレオニー叔母の部屋におはようを言いに行くと、叔母は彼女がいつも飲んでいるお茶の葉またはぼだい樹の花を煎じたもののなかに、そのマドレーヌをひたしてから、それを私にすすめてくれるのであった。

出来事に対してつねに遅れてくるその歴史、取り戻すという形でしか書き記すことのできない記憶、記憶として発見されるまでは自己から隠されていて、それゆえに認識ではなくつねに合理化された人工的な形象でしかないそれらに対抗する手段は、それらが偶然的であるということをわざわざ言い立てることではなく、その反対としての現在の形象、帰り道に落ちて散り散りになっている椿の花びらから椿の花を呼び戻すことでもなく、それらを睨みつけることだ。

プチット・マドレーヌは、それを眺めただけで味わってみなかったあいだは、何も私に思いださせなかった、というのも、おそらく、そののちしばしば菓子屋の棚でそれを見かけたが、たべることはなかったので、それの映像がコンブレーのあの日々と離れて、他のもっと新しい日々にむすびついてしまったからであろう、またおそらく、それほど長いあいだ記憶のそとにすてさられたそんなさまざまな回想からは、何一つ生きのこっているものはなかったし、すべては解体してしまったからであろう、

路上で惨殺されている蟻、死んでいないのに死んだと言うこと、死んだまさにそのときには死んだと言わないこと、それらの死を充満させて浮き袋のように、ボアのように身に纏ってそれらからはまったく目を瞑ることを自分自身に対して許すこと、身近なものの死を、あるいはそもそもそのある特殊な形態の何かに名前をつけて語ること、理解可能なものとして語ろうとすることをやめなくてはならない。遠くへの引越しと死とが似ているのではなく、死を遠くへの引越しという譬喩を通じてしか理解できないのだということをもっと厭悪しなくてはならない。

それらのものの形態は——謹厳で信心深いその襞につつまれてあんなに豊満な肉感をもっていたお菓子のあの小さな貝殻の形もおなじように——消滅してしまったのだ、それとも、眠りこんで、ふたたび意識にむすびつくだけの膨張力を失ってしまったのだ。

ふつうに人に優しくしたいし優しくされたい、そういうことの実現のために諦めなくてはならないそのほかの重要なことたちの実現、何が優しいということなのかをはっきり定義しないまま、定義すればいいというものではなく、優しいという言葉について全人類と調停を行ったあとで、それでもなお、kiki vivi lilyの優しい歌声、カネコアヤノの優しい歌声、尾崎世界観の優しい歌声、藤原基央の優しい歌声、その程度のものでもまったく異なるものになってしまうということの馬鹿馬鹿しさはわたしたちが言葉を使うということのうちにはじめから潜んでいるということを感得しない状態で優しさを云々しても仕方がないという指摘は容易でわたしの欲望は繰り返される形でそれでもなお優しくありたいということになるのかもしれずそうであるならば何かを言うことはほとんど無意味だ。

しかし、古い過去から、人々が死に、さまざまなものが崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。

だから言葉に邪魔されているから嗅覚や聴覚について考えるのではなく、言葉に邪魔されないために言葉について考えるのでもなく、言葉について考える/考えないということの陥穽について考えるのだとひとまずは言ってみることができる。わたしがここでこうして書いていることはわたしによって言われたことでは全然なく、わたしが言おうとしていたことでも全然なく、わたしが言おうとしていることだけが、あるいは無数のわたしにとってのわたしが言おうとしていることだけがつねに書きつけられてきたのであれば結局また、わたしたちは沈黙によってすべての音の震えを贖うことができるということになってしまう。わたしたちがどれだけ想像して何かに近づくことができたと感じるとしても、そこに何か生の本質の欠片であってかつその反転としての死の本質の欠片でもあるものを見出したと感じるとしてもそれはすべてわたしたちにとってあらかじめ前提されていることに過ぎない、あるいはわたしたちという言葉を、彼、彼女、そのどちらも、そのどちらでもないもの、そうした区別が無意味になってしまうような指し方を発明してみたとしてもそれでもやはりそこにある不定形で不可解な他者ではない他者を、まさにその発明によって発明することをやめないのなら、わたしたちの生きているこれ、この、現実という言葉や世界という言葉で捉えた途端にずれてしまうこれのことはつねに打ち捨てられるしかない。

 そして私が、ぼだい樹花を煎じたものにひたして叔母が出してくれたマドレーヌのかけらの味覚だと気がついたとたんに(なぜその回想が私をそんなに幸福にしたかは、私にはまだわからず、その理由の発見をずいぶんのちまで見送らなくてはならなかったが)、

わたしは話しているのでも、語っているのでもなく、ただ書いている、読んでいるのでさえなく、目に捉えたさまざまな印象は印象以上のものではなく、わたしは「あ、竹がある」だけをつねに見ていて、わたしは竹を見たと言う、あるいは書く、そうしたことの残酷な切断、だからわたしは死を見て、「あ、死がない」と思う、そうすることによってしか死を見ることができないということを恥じている、そこにある死体、火葬場の煙、すこし豪勢な食事、そうしたものの連続によってすべて何か隙間ではないものとして消失してしまった生命の痕跡、あるいは靴の裏についている踏み潰した蟻、その不連続のことと自分との関係がないことを恥じているのだ。

たちまち、表通に面していてそこに叔母の部屋があった灰色の古い家が、芝居の舞台装置のようにあらわれて、それの背後に、庭に面して、私の両親のために建てられていた、小さな別棟につながった(私がこれまでに思い浮かべたのはこの別棟の截断面だけであった)、そしてこの母屋とともに、朝から晩にいたるあらゆる天候のもとにおける町が、昼食までに私がよく送りだされた広場が、私がお使に行った通が、天気がいいときにみんなで足をのばした道筋が、あらわれた。

だからあったものをあったと言っておくことから始めるしかないのだし、そこで終わるしかないのだし、そういうことすべてに対して残酷なものに対して、あなたは残酷だということを執念深く伝えていくこと、それが言葉について考えたいと思ったかもしれないときに思ったことのほんとうの意味、ほんとうの意味というのは偽の意味ではないということで、わたしはないものについて、それはなかったのですよ、なかったために、ほんとうにあるのです、いっかいかぎりのことではないことがほんとうにあるのですといって人に優しくするためにないものについて話すことが、わたしにとっての優しさであるのだとしたら、そのためにあったことについて書くことの残酷さを認めなくては、認めさせなくてはならないのだとしたら、まだ言葉でもないような、叫びのようなものを書くことから始めなくてはならない、それはできないということをわたしは知っている。

そしてあたかも、水を満たした陶器の鉢に小さな紙きれをひたして日本人がたのしむあそびで、それまで何かはっきりわからなかったその紙きれが、水につけられたとたんに、のび、まるくなり、色づき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、おなじくいま、私たちの庭の全ての花、そしてスワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の睡蓮、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住まい、そして教会、そして全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。

言葉を水に浸すとそこから、ほの白んでいる明け方の街が出てきて、そこにはわたしの記憶のすべてが、箸はヨーロッパと、信号機は熊と、地下街の入り口は甲高い声と関連づけられて、溢れ出してくる、そうしたことがない、言葉を水に浸すと、言葉がとたんに、怯え、苦しげに喘ぎ、爪先をつかんで冷えたところを温めようとする、そのような人ではないように、そのような噴水や歴史やペダンティズムのまったくないように、何かを誠実に書くということが、どのようにしてできて、どのようにしてできないというのか。

引用はすべて、マルセル・プルースト失われた時を求めて1 第一編 スワン家のほうへ』、井上究一郎訳、ちくま文庫、1992年より。

顔、道具、顔

兄に似てきた気がする。どういうところが似てきた気がするのかといえば顔である。顔が似てくるということがあるのかどうかはわからないが、顔が似てきた気がするのでまあそういうことはあるのだろうとしておく。いやそれは本当はおかしく、顔が似てきた気がするという信念についての検分が済んでいないままその前提として存在が認められる現象を肯定するのは順序が適切でない。適切ではないが、気にしないまま進めていいことというのもあるはずだ。顔が似てきた気がするというよりは、表情の作り方がということかもしれない。作り方というと、ある顔の基本形から表情を作るのには色々な方法があって、人は生きていく中でその中のひとつの方法を自分で選びとっていくが、ときにはそれは変化することがあり、そしてわたしの場合、いやつまり、兄に似てきた気がしているのはわたしなのだが、わたしの顔なのだが、わたしの顔がわたしの兄の顔に似てきた気がしているのはわたしなのだが、そしてわたしの場合、その方法の変化が兄の方法の個性に類似した方向に変化したということについて言及しているようであるがそうではなく、表情の作り方などというものにはそんなダイナミックさはなくクリシェ的であることがむしろ想定されるが、たとえば兄に見られる表情作りのうまさにわたしが追いついたみたいなことであったりはしないか。兄なのだから。兄はわたしより生まれたのがすこし早く、すこし早いからには表情作りの技術においてすこし優れていてもおかしくはない。そういう相談になってくる。人の顔を見る機会が減りましたね。Zoomに代表されるビデオ会議アプリでは全員の顔が同じ方向を向いているので怖いですよね。人の顔を見る機会は減りましたかね。兄の顔を見たのは今年に入ってから数日だ。自分の顔ばかり見るようになっているからそんなことが気になるのではないか? 自分の顔ばかり見ているのはべつに今に限ったことではないというか、身支度をしているときにこそ顔を見るのだから、身支度をする機会が相対的に少ない現在の状況においては顔を見る回数も相対的に減っているのではないか? じゃあやっぱり兄に似てきたのかもしれない。兄に似ている人がよりいっそう兄に似てくるときも、兄に似ていない人が多少兄に似てくるときも兄に似てきたという表現を使うことができて、この場合わたしがもともと兄に似ていたのかどうかでいえば、まあ似ていたのだろうと思うが、というのはわたしにとってはそうではないことが多くの人にとっては、たとえば兄の同級生にとってはそうであるということがあるわけだけれど、わたしはその人たちの発言を理解しがたいものであるとかつては感じていた、なぜならわたしは兄に似ていないのだから。でもまあ兄に似てきたんですよ。顔が。だんだんと。いや実際はそうではなく、ただわたしが是認していなかった兄との類似について、何かのトラウマ的なものを乗り越えた結果として承認できるようになったということかもしれない。つまりわたしはもともと兄に似ていたのであって、入れ替わったのは認識だけである。つまり似ているかどうかというのは適当に量化することができて、その数字は変化していない。そうだろうか。何があったか? 特に何もなかった。色々なことがあった。色々なことがあったけれど、兄との顔の類似についてトラウマを解除するような出来事は、いやそもそもそんなトラウマがあるものだろうか。というかないと思うのだけれどどうだろうか。似ている、ということは本当に人間なしに量化できるのかしら。誰かがそう思う限りにおいて似ているとか似ていないとかそういうことを云々できるのではないかしら。この場合似ているとか似てきたとかそういうことを思っているのはわたしで、じゃあわたしの認識だけが基準になるのかといえばそうではなく、わたしが兄に似てきた気がするというのはそのことが客観的な基底を持っていると想像しているからだ。

「こうして私はこの小説の第一章を書き終えた。厳密に読み返してみると、多くの矛盾が目につく。しかし今さらそれらを訂正したいとは思わない」——『エウゲニー・オネーギン』

どうしてそう思ったのかということについて少し言っておいたほうがいいかもしれない。言っておいたほうがいい、とここで書くのはそんなに奇妙ではなく、喋っているときに「これから注意点を書きます」と言うのはおかしい。なぜか? わたしたちは書かれる言葉よりも話される言葉のことを主要で根本的なものだと思っているからだ。ほんとうに? ただそれが慣用的にあることの起源的な理由にささやかに関わっているだけではなくって? あまりそういうことを執拗に文献にあたって気をつけたいと思わないとしても、誰かにはそうしてほしいと思うものである。真実を単純に知りたいということは、真実を知りたいということではなく、単純に知りたいということだ、もっと厳密に言えば(言えば!)単純に知ることができることだけを知りたいということだ。何について書いていたんでしたっけ。兄に似てきたということでしたっけ。髪の毛の右のほうがどうにもぴょいと出てしまうなと思いながら鏡を見ていじくりまわしていると(つまり髪を、ということだが)この人はどうにも誰かに似ているなと思ってそれがまあ兄であった、というようなことがあって、数日後には全部忘れてそのあと鏡を見て同じことを思ったことはなくわたしは兄に似ていない。そうしたことをまったく思わないままに書いてしまえるのはどういうことか、と憤ってみることが手軽にはできるが、どうしてあなたは思ったことを書くことができると、話すことができると思っているのかということはもう少し真面目に問われてよい類のことだ。鏡の前にじっと立っているとだんだん鏡が自分に似てくる気がしませんか? 棚にずっと置いてある手鏡がだんだん棚に似てくるのと同じで。

Zoomに代表されるビデオ会議アプリを人がちゃんと使えているのか不安になるときがある。人がというのは特定の人がということではなく人類がということである。昔は人がかしこく生きようとするのも道具をうまく使えるのも当然のことだと思っていたがぜんぜんそんなことはなく、大抵の道具は人の能力を超えていて大抵の人生は幸せではなくべつにそれでいい。バーチャル背景を見るたびに不安な気持ちになる人とバーチャル背景を見てもべつに不安な気持ちにならない人がいるのだろうとか、ミュートがちゃんとできているかどうかを始終気にしている人とべつに全然気にしていない人と、気にしていると自分で思っている割にはそんなに気にできていない人がいて、じゃあやはり特定の人がという話じゃないか、文章じゃないかと思うかもしれないがそうではなくそうした状況が出来するというのはどういうことだろうということのほうを考えてみるとどうなのでしょうね。人は石をとても上手に使っていて賞賛に値する。人は言葉をそんなに上手に使っておらず賞賛に値しない。言葉は非常にうまくできているが言葉のうまいところを人はそんなにわかっておらず、ハサミでも何でも人が自分の作った道具がいかに使えるのかをあまりわかっていないのはいつものことで、言葉のことを人がハサミとかに比べてより多く考えているのはよくわからない。言葉は色々な方法で簡単に壊すことができて、たとえば、たとえば、たとえば、たとえば、たとえばどう思いませんか? あなたはパンダに生まれないこともできて、それなのにわたしは元気です! おはよう。次に会えたときはもっと強くなっているから、僕のことをよろしくお願いします。

主人公ではない人について

 公爵令嬢メリー。ペチョーリンはピャチゴルスクに滞在している。わかりやすくバイロニズムにかぶれているグルシニツキーは自らを人生の物語の主人公として任じているようで、彼のメリーへの恋はその物語の一頁をなすかのように彼自身には思われるのだが、ペチョーリンの目には彼は愚か者としか映らない。バイロニズムとダンディズム。英雄的ということの愚かしさを見通してしまったあとでは滑稽にしか映らないバイロンの英雄性は、それでもなお物語として把握される類のものであり、だからそのエピゴーネンのどうしようもない愚かしさは、バイロン自身に発するものかもしれない。いずれにせよ、彼は主人公ではなく、ギリシャ独立戦争の戦火に飲み込まれたひとりの詩人でしかなく、しかしギリシャ独立戦争の戦火に飲み込まれたひとりの詩人、という文言が称えている微妙なロマンと、その居心地の悪さ、そこに英雄の影を直截に見ることができるとはもはやおもわれないのだが……

 嫉妬。屋根の南西部の角を支えている柱の影。Aとフランクは何でもない日々を過ごしている。ほんとうに何でもないのだろうか? Aの夫はここにおらず、ふたりは……Aの夫がそこにいないのは、Aの夫がAの夫によっては見られていないからだ。カメラは主人公を映し、主人公はカメラに映り、主人公はカメラの方を向き、カメラは主人公の方を向き、カメラはこちらを向かず、わたしは主人公ではない。ただAの夫の情念が何かを覆っているとすると、そこではもはや誰が主人公であるかということはもはや問題ではありえないし、カメラに映ることによって主人公になりうるということが可能であるとあなたはほんとうに、そうおもっているのですか? カメラがあなたを映さないとしてもあなたは主人公となることができるのかということではなく、主人公になるということが何らかの手段によって可能であると、そうおもっているのか、ということとして。

 三四郎。美禰子と彼との関係は平常の人付き合いをまったく逸脱するものではなく、三四郎にとって美禰子がどれだけ運命的な存在に見えたとしても、美禰子にとって彼は、広田や野々宮や佐々木やらのコミュニティに最近加わったひとりの鈍重な田舎者でしかない、あるいはそうでないとしても、それは三四郎にとってそうであるということの投影が語りに滲んでいるだけなのではないかとさえ思える。三四郎自身が自分のことを何かになるべきものとして表象してしまうということはむしろ憐れまれるべきことだが、彼は幸運にも語り手を得て主人公として現れることができた、もちろんそれは、そのような存在であることを徹底的に辱められる形でしかありえなかったが。誰であっても、世界にとって重要な存在であると自身をみなすことはその者自身の矩を超えていて、だからこそ人が主人公になるときはまったくありそうにもないことがそこにあるのだと、そのことについてまずは疑いを中止しなくてはならない。

 ラストタンゴ・イン・パリ。ジャンヌはポールとの関係を終わらせようと思う。ふたりの関係に何かロマンスのかけらがあるとすれば、それが終わることによってである。名前も身分も、そういった一切の正体を明かすことなくジャンヌの前に立ち現れたその中年の男は、観客の目にはマーロン・ブランドであり、そうでなくても、何か超越的な存在であるようにジャンヌにはおもわれたかもしれない。しかし、実際のポールは、妻を失って人生に疲れたみじめなひとりの中年であり、ジャンヌへの執着はだんだんと、執着としか言いようのないものになっていく。ポールがアパートを去って、ジャンヌが虚ろな部屋を立ち去るところで物語が終わっていればよかったのに、ポールはふたたびジャンヌに会って、もはやジャンヌには彼が下品で恐ろしい男にしか見えない。その出会いがポールにとっては運命的な、続いていくロマンスの一頁に思えるとしても。あるいは、ラストタンゴの踊りがせめて美しいものであったら、そこで画面がフェードアウトしてくれればよかったかもしれないのに、ポールはパンツを脱いで醜態を晒し、わたしたちの関係は終わったのだ、もう終わりだとジャンヌが告げても、告げても、彼は追いかけてきて、終わりがない、ここで終わらないとされているものは何なのか、結局ポールは撃ち殺される、知らない人だった、急に追いかけてきて、恐ろしかった、知らない人だったの、とジャンヌは繰り返して、そしてもう物語を湛えていない画面は耐えきれなくなったように消えて、そうしてほんとうに終わる。

ad personam

サカナクションの曲で一番好きなのはなに?
『映画』。

サカナクションの曲で一番きらいなのは?
特にない。

サカナクションの曲で一番好きなのはなに?
『ミュージック』。

サカナクションの曲で一番きらいなのは?
『Klee』。

サカナクションの曲で一番好きなのはなに?
『Klee』。

サカナクションの曲で一番きらいなのは?
『映画』。

なにかをきらいになるということによってわたしはなにかをいったつもりになっているが、なにかをきらいになることによってほんとうのところなされているのは、きらいになるということではなくて、ただそれにあるべきところをみつけてやることにすぎない、そうしてそれとうまくやるということのへたなやりかたのひとつだ。あるときにはまったくそうであるとしていなかったことが、あるときにはまったくちがうようになっているということにいまさらきづいたんだというふうにふるまってみても、それはつまり、あなたはそれをあるところにあるということにしただけなのだからあたりまえではないかと、そのようにわたしは話す。

近況を書こうと思っていたのだった。べつに文学的な調子で始めたいと思っていたわけではないし、『Klee』は好きな曲だし、『映画』は3番目くらいに好きで、中学校の修学旅行のときはずっと『ミュージック』を聴いていた。それは前にも書いた。だからきらいだというわけでもない。

形式的に環境は変化したものの、住む場所が変わるというようなこともなかったのであまり劇的に何かが変わったと感じることはない。住む場所は一年くらい前に変わった。近隣の人間との付き合いは特にないが、近隣の猫との付き合いはある。猫との付き合いは微温的なものにならざるを得ない点がよくないところだとおもう。

大学院に進んだので大学に通っている。大学院に通っているという意識はない。電車でいくと20分くらい、歩いて行くと30分くらいで、電車に乗るのがバカらしいので大きい荷物のないときは歩いての行き帰りである。大きい荷物のあるときはないので歩いての行き帰りである。歩くことに慣れるというのは景色から自分の位置を把握することに近く、だんだんと自分が大学と家とのあいだのどこにいるのかが感覚的に掴めるようになっていく過程を心地よく思っている。

自転車を持っているので自転車に乗って大学に行くことができる。自転車に乗るときにイヤホンをしていると危険であり、音楽を聴きながら歩きたいので自転車に乗って大学へは行かない。雨が降っているときには自分は徒歩を選ばずに電車を選ぶのかもしれないと考えたが、雨の日に乗る電車はきらいである。

身綺麗にしておきたいという意識と髪の長いほうが好きだという意識とのあいだには微妙に齟齬があって、それは前者が建設的だとすれば後者がトラウマ的だからなのであって、前髪のないボブヘアをなんとかヘアアイロンで撫でつけているのが現状となっている。ヘアアイロンを使ったあとに髪に通すために買ったヘアクリームからはバラの香りがするが、何のためにバラの香りがついているのかを理解していない。数ヶ月前までボディソープからはバラの香りがしていたが、いまはリリーの香りに変わっている。香りは自動的に変化するわけではない。

ジャック・デリダを読んでいる。よく理解できる部分とまったく理解しがたい部分があり、よく理解できている部分はもともとわたしが理解していたことに似ているというだけのことなのではないかと危惧している。しかし、そのような部分があるということは徒手空拳で言葉に立ち向かうよりは幾分ましなことである。ジャック・デリダが総体としてまったく理解できない場合、それはそれでジャック・デリダを読んだということになるわけではあるというような。

春休みを利用して自分のための読書をしようと思い立ったのは春休みのことである。当然のことではない。自分のための読書とみなされるものは、わたしにとっては、役立てるための読書でないもののすべてであるが、自分のための読書がどうして意識の上で役立てる読書と対立しているのかは不可解である。娯楽的な本を選ぶことも考えたが、言葉を理解する能力に乏しいころに読んだ長編の再読という考えのほうが気に入ったので『細雪』を読み返すことにした。

細雪』には唖然とさせられた。はじめて読んだときに何を楽しんだのかはすでに曖昧だが、おそらくは雪子の縁談というひとつの軸を追うことに汲々としていたのではないかとおもう。唖然とさせられたのはその余剰の多さにであり、妙子をめぐるエピソードを除いて考えても、水村美苗も書いているように、たとえばシュトルツ夫人の手紙は、文体的な特徴も驚かされるような内容もない近況報告でありながら妙に気になる。下巻の最後に掲げられていた長大な手紙には、わからないままに心が揺さぶられてしまうほどだった。そのように際限なくつづく余剰としての小説を通じて、妙子という人間はこうだ、雪子という人間はこうだ、というふうには表明できないまま、こんなときであれば雪子はこう考えるであろう、いま妙子は嘘をついているであろう、というようなことが諒解されるようになってしまった。

野球を観ている。特段何が好きというわけでもないが、家族の影響で日本ハムを応援する恰好に自然なっていた。2017年3月に東京へ越してきてから家にはテレビがなく、欲しいとおもったこともべつになく、最低限の情報は新聞やらで確認していたものの野球を観るという要素が4年間生活から抜け落ちていた。あるいは単になくなった。きっかけは何もないが、ともかくもう一度観ることにした。上沢が開幕投手であったり、渡邉諒に妙なあだ名がついていたりといったタイムラグによって生じる驚きを素直に受け止めた。田中将大の復帰登板を見ておもうところがないでもなかった。伊藤大海の初勝利を喜んだ。

身体に由来する欲求のそれぞれが程度の違いこそあれ消えかかっているのを感じている。もともとさしてない食欲ともうどうでもよいものになっている性欲は措くとして、睡眠に抗うような生活になっている現状をどうしたものかと思い悩んでいる。あるいはそれは生の感覚の欠如によるものかもしれないと考えて『リリイ・シュシュのすべて』をまた観たりもしてみたがそういうわけでもなさそうだった。食欲がさしてないということと深夜にチョコレートをかじることとのあいだに淵があるような気がしているが、暇だ、と言いたくなるような場面で「おなかすいた」と言っているのだからおおむねそういうことであるかもしれない。

最近はサカナクションはあまり聴いておらず、『ベンガルトラとウィスキー』と『海と花束』を繰り返し聴いている。

噴水塔

あなたはビルの縁に腰掛けている。あるいは大理石の神殿の柱と柱の間に。あるいは天井の低い、二段ベッドが部屋の半分を圧しているような、西向きの部屋の隅に置かれた、背もたれの低い木製の椅子に。

あなたは座っているのではなく腰掛けているのでなくてはならなかった。大理石の神殿は、端が少し崩れていなくてはならなかった。二段ベッドは木製でなくてはならず、布団は少し乱れていなくてはならなかった。部屋は西向きとなった途端に夕方にならなくてはならなかった。大理石の神殿には鉛色の空と真っ青な夏空のどちらも似つかわしいように思われた。あなたは詩的状況にとって似つかわしいように言葉を配置しなくてはならなかった。あるいはそれが単に状況であっても、それが陸続と出来する一連の諸状況の継起としての生の認識の一部であるうちには。その別れはとても陳腐なものであったけれども、あなたがそれを生の根本問題として引き受けなければならなかったように。あるいは。別れはとても陳腐なものであったけれども、あなたはそれを生の根本問題として引き受けなければならなかった。

花と読むよりも桜と読む方が、桜と読むよりも山桜と読む方が、あるいはデイジーと、アイスランドポピーと、デンドロビウムファレノプシスと読む方が、あなたにとっては満足であった。それでも、花と書いてあるところを自動的に桜と読むことができる限りにおいては、あなたはそれを桜と思って十分に満足しなくてはならなかった。

あなたは朝、目を覚まし、家を出る準備をして、仕事に出かけ、帰宅し、夕食を簡単に済ませて、娯楽に耽り、そうして眠った。あるいは、あなたは寝ぼけ眼をこすりながら6時50分(いつもより少し早い)に目を覚まし、その10分後に鳴り響いた目覚まし時計の音楽に驚き、この音楽は誰が作っているのだろうと訝り、シャワーを浴びて、シャワーを浴びずに、髪を直し、髪を梳り、昨日の夜用意しておいた着替えを、クローゼットの上の方にあった適当な服を引っ張り出し、鏡の前で一回転し、二回転し、三回転し、家の鍵をどこのポケットに、鞄のどこに、家のどこに置くかを決めていないことに一抹の居心地の悪さを感じながら、そう感じているとは気づかずに、まったくそう感じずに、あなたは家を出る。

あるいは、血のようなヘドロに浸されていた荒野はたちまちに青々と茂り、自然の一員としての人間の生は大いに肯定され、虹が18個ほど空に架かって、そこで大いに満足したあなたはエンドロールを途中でやめにして外へ出る。やはり夕方である。あなたの休日には午後しかなく、映画を観終わったあと夕方になっているのは当然のことなのだが、あなたはそれに気づかずに、その風景のすべてが詩的感興に奉仕しているような、そういう気持ちになる。あなたはそういう気持ちにさせられている。草原のことを考えながら、コンクリートを足で叩いてみることにさえ喜びを感じる。あなたは喜ぶ。あなたは喜んではいけない。

そうして詩的な言葉を組み合わせながら帰宅したあなたは、家の床が濡れていることに気づくことになる。リビングへ続く廊下の方から水が流れてきている。靴下はすぐに役に立たなくなる。冬なので水の冷たさが沁みてくる。夏なので水の冷たさを心地よく思う。春なのでくしゃみをするのに忙しく、水の冷たさに気を遣う余裕がない。秋なので何も思わない。あるいは季節は余剰である。リビングの扉を開けると、右奥の、マントルピースに向かった位置にある桐箪笥から水が溢れているところを発見する。詩的なあなたは、それをタルコフスキー的状況に重ねる。あなたは『惑星ソラリス』のラストシーンを思い出して、外に飛び出す。

半年前の覚書より

かつては反時代的であるということに何らかの勇気が必要であったように思われるというか、そもそも時代の潮流というものが幻影的であれ何かテーゼを伴って駆動していたために、それに対して反抗的な態度をとるということもそれはそれで立派であったというような事情があったようにも思われるのだが、そうしてみると広範な断片化によって乗っかるべき(べき?)潮流がさまざまに階層化されたり散乱してしまったりしてこの方、何かの態度をとるということがそれ自体として相対化されてしまって、とりあえず態度をとってみればいいということにはまったくならず、勝負するべき方向は態度としてあらかじめ分類されないような態度(群をなさないだけでそれも態度である)をとるか、あるいは態度としての切れ味で勝負してみるかみたいなことになってくるので、なってくるのでとは言いつつも、結局それらが実際上どんな価値を持っているかということは出来事の至上の特徴ではなくて、量的ないし質的なアテンション・エコノミーの中に溺れたあとで帰ってきて、結局そうしたもののすべてはくだらないことだよねとみなすところまでは共通の過程として設定されなくてはならないので、むしろそこでは批評的な精神であるとか編集工学的な目線が復興してくるのではあるが、そういったあたりの事情は『ディスタンクシオン』を読めばもう少し明晰に語ることができるのだろうとぼんやり考えていてもぼんやり考えているだけなので読書は遅々として進まず、それはともかくとしてところで今度はその批評/編集的な主体というものが匿名化していることが問題となってくるように思われるのであって、というのはエピゴーネンであるということへの浅薄な忌避というものがあるのだが、それはつまりとりあえずのオリジナルな自分であるということを無批判に価値として肯定してみることであって——オリジナルなるものへの希求というのは根深い問題であり、そんなものはないのではないかと理論的には脆弱であったとしても疑問を投げかけてみる契機となったという点において間テクスト性のごとき概念は今少しの寿命を許されてもよいと感じられるのだが、そのオリジナルであるということと、イノセントであるということとの共犯関係についてすこし考えさせられる部分がないでもないというか、アウトサイダー・アート的であることをとりあえず肯定しなければならないように感じられるということの圧力の根源がオリジナル性の肯定にあるのだとしたらそれはとても不分明な問いかけを投げかけるものだと顔を顰めてみせなくてはならない、もちろんそうしなければならないということはなく、彼自体としても引用の織物であったようなヴァルター・ベンヤミンがその容易さゆえにあらゆる引用の暴力の対象になっているということを思うならば断片は一度も書くべきではなくただ断片のみを書くのでなくてはならない、そういう逆説とダブルバインドについて言及しようとしているのだが、それはつまりわたしが反時代的であることの完全なくだらなさと完全なすばらしさについて言及しようとしていることとも関係していて、かつもちろんそれは、「くだらないということ、まさにそのためにすばらしい」というような言説とはいささかも関係がないのであったが、焼けついてしまった心、思わず殴り飛ばしてしまいたくなるようなその複雑さを複雑さのままで肯定せよとはさすがに思わないにせよ、その複雑さについて深い検討を加えることもないままにイノセンスと美学によって(美学とは愛のことだ)それを浄化できると考えるのは新しい暴力なのではないかということだ、暴力が破壊を尽くすものであるうちはただ大聖堂を建てていればよかったのかもしれないが——そんな時代があったのかどうかについては改めて考えてみる必要があるのだが——建築することがほとんど暴力であるということがはっきりしてからは改めて別の逃避が生まれなくてはならなかったようで、プレカリアート的不安に抗するためのかぎりなく希釈された紐帯と改めて出来するMystery Of Missing Outと、いやな家族といい家族と家族のようなものとの奇妙な関係、結晶のようであることも液体のようであることも嫌なのであれば液晶のようであるよりほかに方法はないのだが、それが具体的な意味ではどんな方法であるのかをはっきりと名指すことができるわけではぜんぜんなく、ハンマーとダンスの泥沼のなかでどのような中間領域を創造していくことができるのかというのはさらにまた別の問題であるのだろうし、打ち下ろすハンマアのリズムを聞こうとするにせよ、あるいはそうでなくても、今すこし真剣に考えなくてはならないのは、ユートピア的な建築の欲望に駆られて、全体を為そうとして短絡ばかりをなしてしまう、植え付けられたように自然なこの怒りについてではないだろうか。(2020年6月3日/2020年12月2日追補)