雑記帖

存在します

顔、道具、顔

兄に似てきた気がする。どういうところが似てきた気がするのかといえば顔である。顔が似てくるということがあるのかどうかはわからないが、顔が似てきた気がするのでまあそういうことはあるのだろうとしておく。いやそれは本当はおかしく、顔が似てきた気がするという信念についての検分が済んでいないままその前提として存在が認められる現象を肯定するのは順序が適切でない。適切ではないが、気にしないまま進めていいことというのもあるはずだ。顔が似てきた気がするというよりは、表情の作り方がということかもしれない。作り方というと、ある顔の基本形から表情を作るのには色々な方法があって、人は生きていく中でその中のひとつの方法を自分で選びとっていくが、ときにはそれは変化することがあり、そしてわたしの場合、いやつまり、兄に似てきた気がしているのはわたしなのだが、わたしの顔なのだが、わたしの顔がわたしの兄の顔に似てきた気がしているのはわたしなのだが、そしてわたしの場合、その方法の変化が兄の方法の個性に類似した方向に変化したということについて言及しているようであるがそうではなく、表情の作り方などというものにはそんなダイナミックさはなくクリシェ的であることがむしろ想定されるが、たとえば兄に見られる表情作りのうまさにわたしが追いついたみたいなことであったりはしないか。兄なのだから。兄はわたしより生まれたのがすこし早く、すこし早いからには表情作りの技術においてすこし優れていてもおかしくはない。そういう相談になってくる。人の顔を見る機会が減りましたね。Zoomに代表されるビデオ会議アプリでは全員の顔が同じ方向を向いているので怖いですよね。人の顔を見る機会は減りましたかね。兄の顔を見たのは今年に入ってから数日だ。自分の顔ばかり見るようになっているからそんなことが気になるのではないか? 自分の顔ばかり見ているのはべつに今に限ったことではないというか、身支度をしているときにこそ顔を見るのだから、身支度をする機会が相対的に少ない現在の状況においては顔を見る回数も相対的に減っているのではないか? じゃあやっぱり兄に似てきたのかもしれない。兄に似ている人がよりいっそう兄に似てくるときも、兄に似ていない人が多少兄に似てくるときも兄に似てきたという表現を使うことができて、この場合わたしがもともと兄に似ていたのかどうかでいえば、まあ似ていたのだろうと思うが、というのはわたしにとってはそうではないことが多くの人にとっては、たとえば兄の同級生にとってはそうであるということがあるわけだけれど、わたしはその人たちの発言を理解しがたいものであるとかつては感じていた、なぜならわたしは兄に似ていないのだから。でもまあ兄に似てきたんですよ。顔が。だんだんと。いや実際はそうではなく、ただわたしが是認していなかった兄との類似について、何かのトラウマ的なものを乗り越えた結果として承認できるようになったということかもしれない。つまりわたしはもともと兄に似ていたのであって、入れ替わったのは認識だけである。つまり似ているかどうかというのは適当に量化することができて、その数字は変化していない。そうだろうか。何があったか? 特に何もなかった。色々なことがあった。色々なことがあったけれど、兄との顔の類似についてトラウマを解除するような出来事は、いやそもそもそんなトラウマがあるものだろうか。というかないと思うのだけれどどうだろうか。似ている、ということは本当に人間なしに量化できるのかしら。誰かがそう思う限りにおいて似ているとか似ていないとかそういうことを云々できるのではないかしら。この場合似ているとか似てきたとかそういうことを思っているのはわたしで、じゃあわたしの認識だけが基準になるのかといえばそうではなく、わたしが兄に似てきた気がするというのはそのことが客観的な基底を持っていると想像しているからだ。

「こうして私はこの小説の第一章を書き終えた。厳密に読み返してみると、多くの矛盾が目につく。しかし今さらそれらを訂正したいとは思わない」——『エウゲニー・オネーギン』

どうしてそう思ったのかということについて少し言っておいたほうがいいかもしれない。言っておいたほうがいい、とここで書くのはそんなに奇妙ではなく、喋っているときに「これから注意点を書きます」と言うのはおかしい。なぜか? わたしたちは書かれる言葉よりも話される言葉のことを主要で根本的なものだと思っているからだ。ほんとうに? ただそれが慣用的にあることの起源的な理由にささやかに関わっているだけではなくって? あまりそういうことを執拗に文献にあたって気をつけたいと思わないとしても、誰かにはそうしてほしいと思うものである。真実を単純に知りたいということは、真実を知りたいということではなく、単純に知りたいということだ、もっと厳密に言えば(言えば!)単純に知ることができることだけを知りたいということだ。何について書いていたんでしたっけ。兄に似てきたということでしたっけ。髪の毛の右のほうがどうにもぴょいと出てしまうなと思いながら鏡を見ていじくりまわしていると(つまり髪を、ということだが)この人はどうにも誰かに似ているなと思ってそれがまあ兄であった、というようなことがあって、数日後には全部忘れてそのあと鏡を見て同じことを思ったことはなくわたしは兄に似ていない。そうしたことをまったく思わないままに書いてしまえるのはどういうことか、と憤ってみることが手軽にはできるが、どうしてあなたは思ったことを書くことができると、話すことができると思っているのかということはもう少し真面目に問われてよい類のことだ。鏡の前にじっと立っているとだんだん鏡が自分に似てくる気がしませんか? 棚にずっと置いてある手鏡がだんだん棚に似てくるのと同じで。

Zoomに代表されるビデオ会議アプリを人がちゃんと使えているのか不安になるときがある。人がというのは特定の人がということではなく人類がということである。昔は人がかしこく生きようとするのも道具をうまく使えるのも当然のことだと思っていたがぜんぜんそんなことはなく、大抵の道具は人の能力を超えていて大抵の人生は幸せではなくべつにそれでいい。バーチャル背景を見るたびに不安な気持ちになる人とバーチャル背景を見てもべつに不安な気持ちにならない人がいるのだろうとか、ミュートがちゃんとできているかどうかを始終気にしている人とべつに全然気にしていない人と、気にしていると自分で思っている割にはそんなに気にできていない人がいて、じゃあやはり特定の人がという話じゃないか、文章じゃないかと思うかもしれないがそうではなくそうした状況が出来するというのはどういうことだろうということのほうを考えてみるとどうなのでしょうね。人は石をとても上手に使っていて賞賛に値する。人は言葉をそんなに上手に使っておらず賞賛に値しない。言葉は非常にうまくできているが言葉のうまいところを人はそんなにわかっておらず、ハサミでも何でも人が自分の作った道具がいかに使えるのかをあまりわかっていないのはいつものことで、言葉のことを人がハサミとかに比べてより多く考えているのはよくわからない。言葉は色々な方法で簡単に壊すことができて、たとえば、たとえば、たとえば、たとえば、たとえばどう思いませんか? あなたはパンダに生まれないこともできて、それなのにわたしは元気です! おはよう。次に会えたときはもっと強くなっているから、僕のことをよろしくお願いします。