雑記帖

存在しており、文章を書いています

噴水塔

あなたはビルの縁に腰掛けている。あるいは大理石の神殿の柱と柱の間に。あるいは天井の低い、二段ベッドが部屋の半分を圧しているような、西向きの部屋の隅に置かれた、背もたれの低い木製の椅子に。

あなたは座っているのではなく腰掛けているのでなくてはならなかった。大理石の神殿は、端が少し崩れていなくてはならなかった。二段ベッドは木製でなくてはならず、布団は少し乱れていなくてはならなかった。部屋は西向きとなった途端に夕方にならなくてはならなかった。大理石の神殿には鉛色の空と真っ青な夏空のどちらも似つかわしいように思われた。あなたは詩的状況にとって似つかわしいように言葉を配置しなくてはならなかった。あるいはそれが単に状況であっても、それが陸続と出来する一連の諸状況の継起としての生の認識の一部であるうちには。その別れはとても陳腐なものであったけれども、あなたがそれを生の根本問題として引き受けなければならなかったように。あるいは。別れはとても陳腐なものであったけれども、あなたはそれを生の根本問題として引き受けなければならなかった。

花と読むよりも桜と読む方が、桜と読むよりも山桜と読む方が、あるいはデイジーと、アイスランドポピーと、デンドロビウムファレノプシスと読む方が、あなたにとっては満足であった。それでも、花と書いてあるところを自動的に桜と読むことができる限りにおいては、あなたはそれを桜と思って十分に満足しなくてはならなかった。

あなたは朝、目を覚まし、家を出る準備をして、仕事に出かけ、帰宅し、夕食を簡単に済ませて、娯楽に耽り、そうして眠った。あるいは、あなたは寝ぼけ眼をこすりながら6時50分(いつもより少し早い)に目を覚まし、その10分後に鳴り響いた目覚まし時計の音楽に驚き、この音楽は誰が作っているのだろうと訝り、シャワーを浴びて、シャワーを浴びずに、髪を直し、髪を梳り、昨日の夜用意しておいた着替えを、クローゼットの上の方にあった適当な服を引っ張り出し、鏡の前で一回転し、二回転し、三回転し、家の鍵をどこのポケットに、鞄のどこに、家のどこに置くかを決めていないことに一抹の居心地の悪さを感じながら、そう感じているとは気づかずに、まったくそう感じずに、あなたは家を出る。

あるいは、血のようなヘドロに浸されていた荒野はたちまちに青々と茂り、自然の一員としての人間の生は大いに肯定され、虹が18個ほど空に架かって、そこで大いに満足したあなたはエンドロールを途中でやめにして外へ出る。やはり夕方である。あなたの休日には午後しかなく、映画を観終わったあと夕方になっているのは当然のことなのだが、あなたはそれに気づかずに、その風景のすべてが詩的感興に奉仕しているような、そういう気持ちになる。あなたはそういう気持ちにさせられている。草原のことを考えながら、コンクリートを足で叩いてみることにさえ喜びを感じる。あなたは喜ぶ。あなたは喜んではいけない。

そうして詩的な言葉を組み合わせながら帰宅したあなたは、家の床が濡れていることに気づくことになる。リビングへ続く廊下の方から水が流れてきている。靴下はすぐに役に立たなくなる。冬なので水の冷たさが沁みてくる。夏なので水の冷たさを心地よく思う。春なのでくしゃみをするのに忙しく、水の冷たさに気を遣う余裕がない。秋なので何も思わない。あるいは季節は余剰である。リビングの扉を開けると、右奥の、マントルピースに向かった位置にある桐箪笥から水が溢れているところを発見する。詩的なあなたは、それをタルコフスキー的状況に重ねる。あなたは『惑星ソラリス』のラストシーンを思い出して、外に飛び出す。