雑記帖

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主人公ではない人について

 公爵令嬢メリー。ペチョーリンはピャチゴルスクに滞在している。わかりやすくバイロニズムにかぶれているグルシニツキーは自らを人生の物語の主人公として任じているようで、彼のメリーへの恋はその物語の一頁をなすかのように彼自身には思われるのだが、ペチョーリンの目には彼は愚か者としか映らない。バイロニズムとダンディズム。英雄的ということの愚かしさを見通してしまったあとでは滑稽にしか映らないバイロンの英雄性は、それでもなお物語として把握される類のものであり、だからそのエピゴーネンのどうしようもない愚かしさは、バイロン自身に発するものかもしれない。いずれにせよ、彼は主人公ではなく、ギリシャ独立戦争の戦火に飲み込まれたひとりの詩人でしかなく、しかしギリシャ独立戦争の戦火に飲み込まれたひとりの詩人、という文言が称えている微妙なロマンと、その居心地の悪さ、そこに英雄の影を直截に見ることができるとはもはやおもわれないのだが……

 嫉妬。屋根の南西部の角を支えている柱の影。Aとフランクは何でもない日々を過ごしている。ほんとうに何でもないのだろうか? Aの夫はここにおらず、ふたりは……Aの夫がそこにいないのは、Aの夫がAの夫によっては見られていないからだ。カメラは主人公を映し、主人公はカメラに映り、主人公はカメラの方を向き、カメラは主人公の方を向き、カメラはこちらを向かず、わたしは主人公ではない。ただAの夫の情念が何かを覆っているとすると、そこではもはや誰が主人公であるかということはもはや問題ではありえないし、カメラに映ることによって主人公になりうるということが可能であるとあなたはほんとうに、そうおもっているのですか? カメラがあなたを映さないとしてもあなたは主人公となることができるのかということではなく、主人公になるということが何らかの手段によって可能であると、そうおもっているのか、ということとして。

 三四郎。美禰子と彼との関係は平常の人付き合いをまったく逸脱するものではなく、三四郎にとって美禰子がどれだけ運命的な存在に見えたとしても、美禰子にとって彼は、広田や野々宮や佐々木やらのコミュニティに最近加わったひとりの鈍重な田舎者でしかない、あるいはそうでないとしても、それは三四郎にとってそうであるということの投影が語りに滲んでいるだけなのではないかとさえ思える。三四郎自身が自分のことを何かになるべきものとして表象してしまうということはむしろ憐れまれるべきことだが、彼は幸運にも語り手を得て主人公として現れることができた、もちろんそれは、そのような存在であることを徹底的に辱められる形でしかありえなかったが。誰であっても、世界にとって重要な存在であると自身をみなすことはその者自身の矩を超えていて、だからこそ人が主人公になるときはまったくありそうにもないことがそこにあるのだと、そのことについてまずは疑いを中止しなくてはならない。

 ラストタンゴ・イン・パリ。ジャンヌはポールとの関係を終わらせようと思う。ふたりの関係に何かロマンスのかけらがあるとすれば、それが終わることによってである。名前も身分も、そういった一切の正体を明かすことなくジャンヌの前に立ち現れたその中年の男は、観客の目にはマーロン・ブランドであり、そうでなくても、何か超越的な存在であるようにジャンヌにはおもわれたかもしれない。しかし、実際のポールは、妻を失って人生に疲れたみじめなひとりの中年であり、ジャンヌへの執着はだんだんと、執着としか言いようのないものになっていく。ポールがアパートを去って、ジャンヌが虚ろな部屋を立ち去るところで物語が終わっていればよかったのに、ポールはふたたびジャンヌに会って、もはやジャンヌには彼が下品で恐ろしい男にしか見えない。その出会いがポールにとっては運命的な、続いていくロマンスの一頁に思えるとしても。あるいは、ラストタンゴの踊りがせめて美しいものであったら、そこで画面がフェードアウトしてくれればよかったかもしれないのに、ポールはパンツを脱いで醜態を晒し、わたしたちの関係は終わったのだ、もう終わりだとジャンヌが告げても、告げても、彼は追いかけてきて、終わりがない、ここで終わらないとされているものは何なのか、結局ポールは撃ち殺される、知らない人だった、急に追いかけてきて、恐ろしかった、知らない人だったの、とジャンヌは繰り返して、そしてもう物語を湛えていない画面は耐えきれなくなったように消えて、そうしてほんとうに終わる。