雑記帖

存在します

concord

 人に優しくされたり褒められたり祝福されたりすることに慣れたいと思うことがあり、そう思うとほとんど同時に、そうしたことに慣れたくないと思う、それは話がすれ違っており、慣れたいと思うというのは、いちいち人がわたしを気にしているという事実に怯えたくないという意味であって、慣れたくないというのは、それらの出来事を惰性的に受容したくないという意味だ。他人が存在するということを認めなくても他人と話すことはできると考えることは卑近な水準では正しいけれどそれ以上ではまったく正しくないことで、わたしは反応に対して適切あるいは不適切な反応を返すように会話をしているほど、そのような反応の系が会話のすべてであるということを認めたいと思わなくなる。人が実際にいてそれらはそれぞれが無数のわたしであり、そしてそれぞれが他人のことを無数の描像として内心にもっているということ、そのような素朴な事実を気の遠くなるような気持ちで認めながら、わたしはわたしがそのような素朴な無数の一部であることを知る。それがわたしであるということだ、とりあえずは。「貸金庫」や「ここがウィネトカなら、きみはジュディ」や「良い夜を持っている」や、そしてもちろん『変身』を読みながらわたしが考えるのはそうしたことで、そこで照り返してくる無数のわたしの反映がそのまま、寄る辺なさ、矮小さにつながり、わたしはもうわたしが存在するという事実に対して多くのことを考えることがない。人間が人間以上のものになるということが決してないということを、人間が人間のことを、あるいは人間でないものも、人間としてしか捉えることができないということ、わたしはそれをある思想の死として捉えることになるのだけれど、それはまた同時に、わたし、と言い、書くときに、そこに過去に言われ書かれたむせかえるようなわたしの群れの痕跡をそこに見るということでもある。そのことがわたしにとって重要なことだ。言葉は初めから死をもってわたしの前に現れていたし、言葉を使えば使うほどその影は激しく濃くなっていってもうどうしようもないということ、だから服喪と弔鐘がいつまで経っても止むことがないというのはわたしが言葉のことをただ口からすべり出ていってしまう程度のものとしか思えていなかったからなのだろうと思う。沈黙にすべてがあらかじめ書かれているという感覚を諦念としてではなく実感としてもつこと。

 数百人の人が同じ列車に乗って移動している。その人たちのほとんどが互いに喋ることがなく、その人たちの多くが二度と同じ電車に乗ることがない。同じ電車に、その人たちが、ということでもあるし、電車に、同じその人たちが、ということでもある。あるいはもっと重要なのは、もし奇跡のようにそのような出来事が起こったとして、その人たちがまったくそのことに気づくことがなく、気付きようもないということで、その人たちは電車から降りては1人のわたしとなり、電車に乗っては数百のわたしとなり、それと同時に幾らかのあなたともなり、わたしはそのことに気づかないまま長いこと電車を待っていたのだった。だから、バス停や駅に歌垣の盛りの残響を聞くとしてもそれは偶然ではなく、ある人が微生物のやりとりとして見出したような人間と人間とのもっとも原始的で親密な関わりのことを無視することは難しい。不快だ。理路はそれほど明確なものではない。わたしはひとりのわたしに出会い、これはわたしにとってわたしではなく、あなたである、というように思う、そこでわたしはあなたに問いかける、あなたはわたしにとって何なのか、と、そのことを確定させたいがために、ではあなたは、セックスをしなくてはならないのか、とそう真面目に問いかけられていると『欲望のあいまいな対象』を観ているときに感じてしまって、それでよかったのかどうかはわからない、わたしは初めの爆発のときには笑っていて、2度目の爆発のときには表情が引き攣っていた、わたしは笑うことができなかったのではなく、ただ寒さを感じてしまっただけなのだと、一応は振り返ってみることができるけれど。熱を出して寝込んでいるときのように、火照りによって震えるときのように。

 ゆびをそろえて伸ばした左手を,手のひらを上へ向けて胸によせたのへ,内がわからたもとを返して載せると,それは左がわにいる他者の手であった.載せられたたもとからのぞく手さきにつとためらうように見いってから右手でそっとささえもち,右へ,二あし三あし連れていくとき,右手にとって左手は他者の手であり,左手にとって右手は他者の手である.私は他者をかねた.

 わたしは他人が存在するということをもう簡単に信じていて、そのことに驚くことができない。多くの救いが敗れさっていき、ここに残っているものはもうずいぶん少なくなったようだと感じる。書くことによって生まれるものは何もなく、書かないことによって生まれないものがいくつかある。矛盾ではない。目の前に存在する檸檬の色、ざらざらとした質感、少しの重み、手から離したときにもまだ少し残っている香り、わたしはそうしたものたちと同じように、自分の内部と外部にある他人の存在を、認識として信じている。認識は言葉と生まれた。だから言葉は無為であり、言葉が書かれないことによって、生まれなかった認識があったと、とりあえずはそうしたわずかな形式のために、祈りを、それらのために捧げているのだと、そのように言ってみることができる。祈りは言葉だ、当然のことながら。認識のための祈りとして、わたしは沈黙を破る。

引用は、黒田夏子「感受体のおどり」(『abさんご・感受体のおどり』文春文庫、2015年)より。