雑記帖

存在します

ストーリイ・テリング

あるおにぎりがわたしの目の前にある。ある鬼斬りがわたしの目の前にある。とても美味しそうだ。とても美味しそうなので、写真を適切な角度で撮り、小粋なコメントを付して全世界にこのおにぎりを公開したい。この鬼斬りを公開したい。あるところにそういう欲望に駆られたおじいさんとおばあさんがいたらしいです。おかしな話です。まだ美味しいかどうかも、よく切れるかどうかもわからないおにぎりを、鬼斬りを、どうして公開したいと思うものでしょうか。彼女と彼とは結局、「これめちゃくちゃうまい」というコメントとともにおにぎりを世界に晒し、鬼斬りは生まれてくる息子が鬼退治に使ったそうです。知らないけど。世界に晒されたおにぎりを見た息子は、出生の秘密に悩むあまりインターネットに依存していたのですが、「まだ食べられていないこのおにぎりは、どうしてここで同時的にうまいと語られているのだろう?」と、そう疑問に思ってアカウントを削除したといいます。

都合のよいストーリイと都合の悪いストーリイでもってあらゆる未来が予測され、妥当な推論とみられていたものはやはりそこそこに妥当であったので、それが成就しつつあるということがはっきりとしてきてからしばらくが経つようです。この一つの困った事態を壮大な悲劇の一幕であると勘違いしてしまって情熱的な文章を書いた人もいたようですし、悲観的な自分の悲観的であることに忠実なあまり妥当な推論を過剰に悲観的な調子で述べた人もいたようですし、そのほか、さまざまな位相で言説がとうに尽くされ未だに尽くされる気配はないのですが、そしてこの文章もそのような有象無象のカッパドキアの一部として奇観をなすよりほかに役割をもつことはありえないのですが、何はともあれふだんの調子というものが崩壊の契機に目を瞑ったままで進められているという点においてすべては些かも変わることがないようです。起点があるから終わりがあるべきだと考えている人にとって、何かの出来事について語ることは本の頁を繰ることのようなもので、このまま充分に無視できるほど小さくなっていく崩壊の契機と、あるいは崩壊への遁走と、どちらにしたって点のような終わりが晴れやかに咲くことが前提されるはずもありません。

ずっと頑強に外を歩くときは眼鏡をかけない生活を続けてはきたものの、家の中にいる時間が続くと結局ディスプレイや本や猫を見ているのでずっと眼鏡をかけていることになります。その結果、また外に出るようになったときに習慣が喪われていたようなのですが、そのことに気づいたのは数日前のことでした。そのことに気づいたのでブログを書けるような気がしました。3月の最後にぼやけた文章を必死に書いてからずっと、自分がこの事態に対していかにもな文学的仕草、既知の物語で、既知の文体ですべてを包みこんでしまう仕草を取ってしまうことを恐れていて舌が(舌の比喩によって示される言語能力が)痺れていました。あるいは、それらの仕草があまりに節操なく溢れ出しているのを見て呆然としていました。

フランス像とは何ですか? それは仏像です。日常の中に外に悲しいことが詰まりすぎていて、そのひとつひとつについて丁寧に悲しんでやれないことをやはり悲しいと思ったのでしたね。あるいは悲しいことに接したとき、人は適切な心的態度とその表出(そうでない場合は少なくとも、適切な心的態度を思わせる表出)を示さなければならないと自分が考えていることを。時間ができたわけでは全然なかったし、原理上もう二度と暇になることがありえないように人生に対する心的態度を組織化してしまっているし、はるかに思い出すことによって自らを快癒させんとする意思が自分に欠けているのは別に未来志向だからではなくてただ拘るのが面倒だと思っているだけだからということにはずっと気づいているわけです。もちろんいささかの自虐性も生じることはありません。

うまく生きる方法のひとつに冷笑があって、なかなか傷付かずに済むので良いのですが、生産性に欠ける点でベストな方法とは言いがたいものです。それとは逆の方法として情熱というのもあって、基本的にこちらの方が正しいのですが、正しさゆえの難しさというものが付きまとう点では易しい方法ではないと言えます。全部どうでもいいです。生き方について考えると言ったときにわたしがしようと思っていたのはそういうことでは全然ないわけで、つまり座右の銘マシンみたいなものがあって、困ってしまう人生上の選択に対してマシンの出力を当てにするみたいな、そういう感じのことではないわけです。どう生きるかを決めることは簡単なことですが、その上でいかに生きるかということは難しいという言い方もできますし、あるいはそうではなくて、速度とか浮遊感とかを座右の銘にするのだったらまだ救いがあるかもしれない、つまりダックスフントの足が高速で動いていて、岩山が宙に浮いていて、無数のシータが落下してくる、そういうような。サイコパス診断をしましょう。ある戦争で荒廃した村に死体の山があります。あなたは敵軍に見つからないよう、その死体に紛れてあたりを窺っています。すると突然まわりの死体たちがぞろぞろと立ち上がって「狗神さまが来たらどうしよう」と口々に言い、やがてばたばたと倒れてまたしんとなりました。以上のような話が聊斎志異にあるのですが、さて、あなたはどうしますか?

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ある白い壁がわたしの目の前にある。わたしはそれに向かって銃を構えている。ふとこれは夢であるかと思う。銃など持ったことがなかったから。しかし、いま現に銃を構えている以上、そのようなことは問題にならないと気づく。壁の先には別のものがあるのか、撃ち抜いたら穴が開き外が見えるのだろうか、どうして銃を撃たなければならないのか。そう考えているわたしはふと、わたしが彼や彼女に完全に置換可能な存在であることに気づく。そう気づいてしまった彼女は銃を放ち、彼は銃を置き、以降、無数の彼と彼女がどちらかを繰り返して、白い壁の向こうにいるまた別の彼と彼女とを撃ち抜き続けるのだが、しかしさすがにそれはあんまりではないかと思う。