雑記帖

存在します

前髪は釣り糸にできるか

できるとしてするのですか? わたしはしませんよ。でもあなたはするかもしれない。中学生ぐらいのころに「きみ」とか「あなた」とか呼ばれることを極端に嫌っていたことがありましたが、あれはやはり客体化されている感覚に怯えていたということだったのかもしれません。物語がないよりも誰かの物語に取り込まれてしまうのが嫌で仕方がなく、アン・サリヴァンは素晴らしいのですがアン・サリヴァンになれますよと言われても少し躊躇してしまうような。だからといってあるかないかわからないような吹けば飛ぶ独自性にしがみついて自分の感受性を守っているふりはしたくないわけです。何かに応答することでしか感性を発揮できないのが嫌だとか言ってみてもやはり車輪は2、3個ないと安定して走れないものですから。

贋作アフォリズムに曰く、古今の巨人の似たような処世訓を述べるのはいかに彼らの不見識を示していることか、と。読んだことがない本と読んだことがある本で前者の方が少ないと思ううちは何者にもなれないし、前者が本当に少なくなったときにはもう何かをなす時間は残されていない。道徳を左側通行のようなものだと思って暮らしていてもテーブルの上に座るのはなんとなく躊躇われるもので、その曖昧な発見が実際に独自のものかはさておいてそれを気にしているというのはすでに前提となっているのです。小さじ一杯程度の差異の体系の隅っこでやっとささやかな独自性の旗を立てて無人島での生活を送っていると、空から子どもたちが降ってきて王が決まったりして殺された豚の頭部の周りで蝿が飛び交うのだと、そういうことらしいです。

高尚なふりをするのと高尚であるのとではどちらが良いか。低俗なふりをすることで自分が何か現実に近づいたと思ったりドグマから逃れ出たりすると思えるならそれは幸福なことです。冷やかしだけに生を費やして幸せになれるというなら勝手に幸せになってくださいというわけにもいかず、善性と幸福とは結局あまり関係がないような気がしますよ。paralysisが幸福でないなんて誰も言っていませんよ。

自意識の三段階。1。直接性(無)。2。反省。3。自意識の三段階とかを持ち出すようになる高次の反省。次元が高いというのは別に偉いとかそういうわけではないというのを付け加えなければならないほどにあらゆる言葉は価値に塗れていて、われわれすべての孤独がソーシャル・ネットワーキング・サービスの食い物にされていることにひどく憤慨して絶望しているのです。顔を水面につけてみて前髪で釣りをしているんだよと嘯いてみてもほとんど意味もなくて冗談にもなりませんし、やはりルアーをどこかから垂らさなくてはならないのでしょうか。そういうことを言ってほしくて冗談を言っているというのですか。

シェイクスピアの作品を全部読んだこともないのに人間であるみたいな顔をよくしていられるなと自分を詰ることのある未来もあったかもしれないし、シェイクスピアは半分くらいしか読んでいないけれど人間のふりはしているわけで、あるいは電車の向かいの席に座っている前髪があったりなかったり前髪らしきものがあったりする人たちがシェイクスピアをどれくらい読んでいるのかなど知ったことではないが人間には見えるらしい。でもやっぱり人間というのはシェイクスピアを全部読んでいるものだよと言い募ってみたりしていたかもしれないということを考えています。もう少しのことでした。

さてやはり水面に顔をつけてみて何かを嘯いてみようとしてみても、やはりごぼぼぼぼとなってしまって特に言葉らしい言葉は出てこないのだということに気づくのですが、そんなことは気づくようなことではないのではないか? もちろんそうです。気づくほどのことでもないようなことに気づいたふりをすることで頭が良くなった気がしませんか? 他人が発見した面白いものの話を聞いているだけでまるで自分がその面白いものを発見した人間であるような気分になって、思わず人にそれを得意気に語ってしまうことはありませんか? 頭がいい人と自分は頭がいいと思っている人はいずれもどうしようもない人間であることは確かですから、頭がよく、かつ自分は頭がいいと思っている人間というのは悲劇を捏ねて固めたような存在であるというのです。

あれはクレシダですか? はい、クレシダです。あれはどうですか? いいえ、あれはクレシダではありません。ではあれは? あれは、そうですね、クレシダであってクレシダではありません。これは? あれはクレシダですが、わたしはあれがクレシダだとは思いません。ふうん。クレシダはむずかしいですね。生は単調な繰り返しであるということこそが冗談なのに、それを愛で展開させることが真実であるかのように言うのはやめてもらいたいものです。あるいはあなたの笑顔がチェシャ猫よりも奇怪だとしても、そうです。

ある夫人の日記に曰く、自分が今ここに書き連ねるような悲劇の一群というのはただ自分の頭の中で起こっているように考えているだけのことであって、本当に存在するのはただ単調かつ丁寧な毎日をどうにかして過ごしてきた一個の女性のみであって、もしこの日記を焼き捨ててしまえば、そしてこのすべてを忘れてしまえばそんな悲劇はまったくなかったことになるのではないか、と。それでもやはり夫人は病に倒れ、日記はどうやら焼かれずに娘の手に渡ったのだといいます。