雑記帖

存在します

乱文と黒猫、あるいは年末について

本棚を漠然と眺めていたら2019という数字が目に飛び込んできており、それはジョン・ヴァーリイの『逆行の夏』に割り当てられたハヤカワ文庫SFの分類番号である訳なのですが、しかしどうして2019という数字が気になったのかと思ったらそれは来年なのでした。そんなことを3ヶ月周期に繰り返して2018年は終わらんとしており、今年の振り返りみたいなものを書く気にはどうしてもなれないまま、ただそのように歩調を整えるための方法として何かを書かなければならないとは思うものなのです。今ここで書いているものは何なのですか、韻文ではないから散文だというのですか、パジェット・パウエルの小説の日本語訳は韻文だとでも言うつもりなのですか? 散文にとっては韻文こそが乱文でありアナーキズムであるのかもしれないというのに。アナーキズムという言葉をアナーキズムでないものを貶めるために使うのはやめてくれませんか? あるいは、アナーキズムという言葉によって何かを貶めることができると考えることを。今までずっとこんな、問いかけても意味のない問いをわたしに投げ続けられているのがあなた、今まさにこうして「今まさにこうして」を辿っているあなたなのかどうか、もうわたしにも随分自信が無くなってきてしまったものです。ひょっとしたら社会を変えるつもりでいてただ壁画を作り上げていただけなのかもしれないとか、でも壁画運動というのはまさにその壁画によってすべてを変えようとしていたのかもしれないし、本当のところは何だって理解することはできないのですから。昨年の今ごろに書いた文章から離れてゆくことができないまま、もちろん進歩というものはある一点から離れる時にその離脱運動が信念の補助エンジンを伴っていることをいうのでしたが、だからわたしは「ここから離れよう」とだけ歌ってそしてまた戻ってくるあの歌が好きなのでしたが、哲学体系をもくもくと湧かすように作り上げたりすることが人生の目標ではないことを理解してからそれでも随分経つのだし、微笑んで特に深くもないことを囁いてくれる老人がずっと我々には必要だったのです。いま必要なのは「深い」という言葉を使うたびにボーちゃんの物真似をしてくれる人です、どうか助けてください、黒猫を壁に埋め込んで殺したと思ったのにこちら側が壁だったのです、そんなものは覚えていないよ、と余裕をもって笑うことが教養なのかもしれないと思ったし、わたしたちは何もかにもを忘れてしまうことによってようやく言葉を話せているのです。記憶を高手小手に縛り上げてさあどうだ思い出せと鞭打つような、そんな状態のことを博識だとか碩学だとか呼びたかった訳ではきっとないはずなのです。いやに世界は面白く、そして世界の不完全な(あるいは不透明な)鏡であるところのわたしがそれをひどくつまらないものにしているのではないのでしょうか、あなたはひどく面白くて、それで鏡であるあなたはひどくつまらないのではないのでしょうか。どうであるならいいということもないのです。生き方を考える前に生きていくことを考えなければならない時間の一部分がもうすでに徐々に生活への闖入を始めており、だから死にかけることが生活の経験であることなどはありえない、暗闇の中を手探りで進むより明るい中を松明を掲げて進む方がよほど大変なのです、でもそうやって今まで進んできたのだから、本当はただ離れて、遠ざかってきただけなのかもしれなくても。

だからジョン・ヴァーリイを家で繙いて、2019の経験が少しでも超越的なものであれば、それはひとつ生きていくということだなと思うのです。