雑記帖

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終わりのあとについて

別に2017年は勝手に終わればいいと思うし止めたりはしないのですが、問題はむしろ2018年が始まることにあるのではないですかね。年というものの一回性が薄れるのは次の年も似たような顔をしているせいであって、終わることに対して感傷などを抱いていられるのは始まるものがあるかということに何となく期待しているからでしょう。

何が書きたいのかといえば、出来事が生起してしまえばそれはつまり終わりではないのかといえばそういう訳では全然なく、むしろ終わりのあとに出来事が次々と生起するにしてもそれが決して前の出来事のような顔をしていないということに気づくという形式が存在するのであって、それがつまり終わりのあとであり、だから終わりのあとは静謐ではないということでは別になくてですね、つまりそうした雑多な形式内において常に存在してもよいものは何かということでも同様にない訳です。

そうしたところで検討に付されるべきはむしろ終わりのあとと終わりではどちらが終わりなのかということになってくるのであって、全体にそういう風に星が降ってくれば終わりは良いように終わりになるということがまず前提とされます。では星が降ってきたとしてクレーターがやや良い感じだななどと考えながらクレーターの周りを歩いている訳ですが、不思議なことにはもはや二度と星が降ってくることはないでしょうということにクレーターを眺めながらでも意識を失いながらでもいいですがふと気づくことになる訳です。それが終わりであって終わりのあとの存在条件であり、寝て起きたあとにもう二度と寝ることはないのだと気づくようなことを経験することと、眠りにつくことを経験したかもしれないことと、そのようにして終わりは与えられるでしょう。一向に星が降るのがやまない世界で星を打ち返すために素振りをする人がいるのは終わりであり、それを眺めている方から終わりのあとが生起する訳です。

これ以上出会える人もいないのに寂しいのかどうかはよく解らないということに気づいても気づかなくても別にいいのですが、ともかくそういうことを言ってみて何となくそういう気分になるのは別に間違ってはいない訳です。ピンチに陥った時に助けに来てくれる何らかのデウス・エクス・マキナがあっさりと敵に粉砕されるのと、それともそんなものは来ないということに驚くほど気づいてしまうことと、どちらが終わりのあとでしょうか。

終わりのあとで生きていくのは別に全然簡単であり、シャープペンシルの芯をそのまま使って文字を書いている場合それはシャープペンシルでも芯でもないわけですがシャープペンシルの芯ではあるといったことと同程度には終わりというのはくだらないものになってくる訳です。幽体離脱をした上で寝ている自分を上から眺めたいという欲望をどのくらいの人が持っているのかをフェルミ推定するのが楽しいかもしれない訳です。

終わりのあとは終わりから始まるという言い方はある程度面白く、始まりのまえは始まりで終わるというのは全然面白くないです。共産主義になってしまったらこれ以上進化できなくてつまらないからもう少し資本主義のままでいようといってマルクスと楽しげに暮らすことが全然不可能であるように、終わりのあとは面白くないのに終わりはとても楽しいのでしょう。今が始まりのまえではないのだとどうしようもなく気づいてしまうということが終わりのあとであって、今が終わりのまえではないということに気づくことと似ているように思いたくなります。

ロストテクノロジーにもう二度と手を伸ばすことはできないのだと気づく訳です。

であるからしてもう少し雪が降った方がバランスが良いのではないかと思う訳ですが、しかしながらどうにも年は明ける訳です。

どうか来年も頑張って何らかの無をしてください。お疲れ様です。