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雑記帖

創作以外のことを書きます

嘘について

https://twitter.com/racbsk/status/863613795188457472

 

そもそもこのツイートをしたのは感情論に対して詭弁で反論し、さらにその上に詭弁を塗り重ねて不特定多数を侮辱するという地獄のようなやりとりを目撃したからなのだが、しかしまあこうしたことが起こったとしてもそれがそれなりに安全であるのはロジック自体は全く揺るがないということは注意深く見れば誰の目にも明らかであるからである。

ただ、同じようにロジックに本来的には影響を及ぼさないものの危険であるようなものとして詭弁乃至嘘があり、これが危険であるというのは、感情論はロジックに影響を及ぼさないもののロジックは感情に影響を及ぼしうるということに由来する。つまり、嘘は原理的にはロジックとは別の存在であるにもかかわらず、感情論とは違ってロジックの姿に偽装することができる。できるので、ロジックのもつ感情への訴求効果を擬似的に持つことができる。つまり、ロジック自体が堅牢であっても、それとは全然独立にロジックと似た効果を持つものを存在させることができる。

というのは第一次段階の危険であり、第二次段階の危険が存在する。それはつまり、事実は、それと対立するような事象が生じただけで、それと対立するような事象が何ら証拠を持たなくても、端的に嘘であっても、その信頼性を相対的に弱めることになる。ここでいう信頼性とは心理的なものでありロジカルに定量化されているものではない。したがって、事実は、もはやロジックによって支援されるだけでは信頼に足るに十分ではないということになる。相手が例え自らを補強するようなことをロジカルにしようとしなくても。ここで何が起こるかというと、簡単にいえば、ロジックが感情的な訴求力を失うということが起こる。それはつまり、感情に訴求しうるものがここではもはや感情でしかないということである。ロジックを互いに構築してそれによって議論を立てようとする形式は崩壊することになる。ここで注意して欲しいのは、この一連の過程において、事実及びロジックは十全に堅牢であるということである。ロジック自体が脅かされるのならばそれはロジックの危機であるが、ロジックは脅かされないのにロジックが力を失うというのは社会的な危機である。

こうした社会においては既に事実と嘘という厳密な区別を社会の中で見つけることは困難になり、ある一定の集団にとって事実らしい、あるいは事実であって欲しいものが、ある集団の中で事実とみなされるということになる。一旦その図式が確定してしまえば、あとは確証バイアスによる強め合いが起こるだけである。そうした全体において、ファクトチェックは無力であり、立場としてのニュートラルさは欺瞞としか見られなくなる。なぜなら、ニュートラルな立場というのは相反する事実をどちらも否定しようとしない優柔不断な立場だと、少なくとも特定の事実を抱える集団には映るからである。

ここで結論とするのは、言説ベースの事実の構成の困難さであり、シミュレーションベースのものをいかに構築するかという問いである。

缶コーヒーは不味い

缶コーヒーは不味い。というのはトートロジーであって、私が不味いコーヒーと言った場合、味の如何に関わらず大体において缶コーヒーのことを指している。そして私はその缶コーヒーもとい不味いコーヒーを愛好している。

キリンやサントリーなど、世に不味いコーヒーを送り出す企業は幾つかあり、そうして、各社ともただ同じ不味いコーヒーをひたすら作り続けるわけではなく、毎年、趣向をこらして新作の不味いコーヒーを出している。そしてその不味いコーヒーたちは不味い。確か一昨年のものだったかは灰を入れた水の味がした。そして確かそれを20本近くは飲んだ。不味かった。

ホットの不味いコーヒーはアイスの不味いコーヒーに比べるとあまり不味くはなく、したがって不味いコーヒーの旬は夏である。夏場に自動販売機やコンビニなどで冷えている不味いコーヒーは不味いコーヒーの中でも特に不味い。或いは冬においても、例えばホットの不味いコーヒーを買って懐炉がわりに使ったとして、その絶妙な冷め具合の、あまりに得るものがない温度は、不味いコーヒーの不味さをいっそう引き立ててくれるものである。

不味いコーヒーは缶から取り出しても不味いので不味いコーヒーの不味さは不味いコーヒー自体の責任である。そのように不味いコーヒーを私は日々購入しており、飲むたびに不味いと感想を漏らしているのであって、不味いコーヒーは不味く、例えば美味しい食べ物と不味い食べ物では美味しい食べ物を選ぶのだが、普通のコーヒーと不味いコーヒーがあったら不味いコーヒーが選ばれるのだと思う。

不味いコーヒーは様々な場所に存在しているので、不味いコーヒーを手に入れることは容易である。これは不味いコーヒーの特殊さであり、例えば不味いオレンジジュースを探すのは結構難しかったりするものである。不味いコーヒーの不味さは美味しいコーヒーと飲み比べなくても解る不味さであるのでそうした飲み比べは不要であり、むしろ2つの不味いコーヒーを並べてどちらがより不味いかを比較する方が有意義である。

不味いコーヒーは不味いので、美味しい缶コーヒーなどといった表現は美味しくて不味いコーヒーといったものを想定することになり不毛である。

教育について

何故堀江貴文茂木健一郎がメディアでもて囃されるのか、私には解りかねるが、ともかくも社会問題について発言をする際には多少考えてから言って欲しくはある。この話は本題とは関係ないのだが、もう一つ関係ない話をすると、MOSHIMOの曲で「命短し恋せよ乙女」というのがあり、私は別に好きではないのだが、タイトルが「ゴンドラの唄」の歌詞から来ていることは解る。解るというか、もし解らなくても少し調べれば数秒で解る。にもかかわらず、YouTubeのコメント欄で森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』との類似を指摘するものがあり、そりゃあ類似も何もどちらも元ネタが同じだということは解るだろうと。解るだろうというか、もし解らなくても少し調べれば数秒で解る。しつこくてあれだが、この「もし解らなくても調べれば数秒で解る」事象に遭遇しても調べずに先に口が動く人は結構多い。私はスマートフォンを持つ前から、日常的に聞いた解らない言葉を頭に貯めておいてPCで調べたりといったことをしていたので、スマートフォンを持っても私にとってはラグが無くなっただけだったし、実際にすぐ解る(解りそう)な事柄を例えばTwitterなどに投げ出しておくということも耐え難いように個人的には思うのだが、そういう人が居るという事実が正直なところよく解らない。

という前提があった上で、さて普通教育は何を教えるべきかという話をしたかったのだった。

そもそも種々の学問分野全てに関して様々な判断が出来るほどの教育を行うには普通教育の期間はあまりに短く、したがって全く普通教育では入門できない例えば心理学のような分野があることもある程度仕方のないことではあるが、しかし心理学が重要ではないということでは全然なく、未開拓領域が広いという観点から言えばかえって重要ですらある。しかし時間は限られており、しかも高等教育では自分の興味に応じたある程度の専門化が求められもする。そうした選択において重要なのは、興味・関心に基づいて選ぶことで、自分のできること/できないことに基づいて選んでしまうのは前述のような分野があることから考えても望ましいとは言えない。であるならば、つまり普通教育で何を教えるべきかだが、これは2点あると思う。

1つに問題意識があり、これは別に何かが問題であるということを意識づけるという意味ではない。学問には目的があり、経済学とは経済現象を扱う学問ではなく、経済現象を数理的に理解することを目指す学問なのだと思う。多くのことが解っており、それでいて多くのことが解っていないという知見、知識をつける上での方向性を与えること。

もう1つはリテラシーであって、これは別に読み・書き(・算盤)ができるとかそういうことを意図しない。もちろんそれは出来るようになるべきであるが、ここで言いたいのは、自分で理解を進めるための基礎づけを与えること、という意味においてである。つまり、自分で自分の知識を広げる手段もとい方法論を習得させること。

というのは抽象的な議論であり、抽象的なのは私の考えが進んでいないからである。そのうち続きを出したい。

 

トロッコ問題の問題

覚え書き程度に書きます。

トロッコ問題とは、以下のような状況設定での選択問題のこと。「猛スピードでトロッコが走っており、線路の先には5人の作業員が居て、このままだと確実に轢かれて死にます。貴方は分岐器の側におり、路線を切り替えることができますが、切り替えた先には1人の作業員が居て、そっちが確実に轢かれて死にます。路線を切り替えますか、切り替えませんか。他には何もできません。」

第1の問題: 非現実性

他に打つ手はなく、どちらかを選ぶしかないという状況、全ての要素を把握できる立ち位置、線路の分岐を操ることができるような位置に居てぎりぎりまでトロッコが来ることに全く気づかない不自然さ。

第2の問題: 恣意的な制限

トロッコとか実際どうでもよくて、直接手を下しはしないが5人か1人どっちかを殺すことを選ばなきゃいかんのです、さあ選べという非常に制限の厳しい問題ですよね。実際に立ち会ったらどうするのかを考えろって、全員を助けるのに全力を尽くすに決まってますよね。実際に立ち会わないそういう特殊な状況ではどうかを考えろって、それ考えるのは良いですけどどこで使うんですかね。頭の中で道徳を云々しているだけではただの自己満足ではないですかね。

第3の問題: 通時的な決定性

上にも関連するけれど、どちらかは確実に死ぬと解っている状況なんて実際にはない。出来る限りのことに全力を尽くそうとする上で、5人より1人の方が助けやすいから1人の方に路線を切り替える行為とか、もし結果が解っていなかったらそういう判断をするだろう。その判断が後から振り返ってみてどうだったかという次元の話で先の判断を云々するのは実に実に意味がない。したがって、トロッコ問題のヴァリエーションとして太った人を突き落とすというのもあるが、これも太ったのを落としたら確実に止まるという本来は後から解ることを先に判断した上で議論を構成しており不毛。また、生存者を最大化しようとする人がさっさと犠牲者1を計上するだろうか。時間の概念を導入しないからこういう酷いことになる。

 

というわけで、私のトロッコ問題への回答は「偽問題であるため答える意味も価値もない」です。以上。

行為について

例えば、コンビニに迷惑な客が来て迷惑な行為を行ったとして、その客が高齢であったとする。あるいはイスラム教徒、中国人、在日朝鮮人ユダヤ人、若者、男性、女性などであったとしてもよい。その際に、店員や別の客の立場でその現場を目撃したとして、迷惑な行為をその客の先に述べたような属性と結びつけて考えること(「これだから老害は」といったように)は妥当であるか。

完全に妥当であると考える人は少なかろうと思うが、ではその属性とそうした行為の行いやすさとの間に信頼できる統計に基づく確かな相関があるとした場合、それは妥当であるかというのを問題にしたい。もし相関が無い場合これは単なる心理学の問題になると思う。

統計を個々のケースに安易に適用すべきではないというのは当然そうであって(つまり、何もそうした行為を行っていないその属性の客を一様に迷惑行為を行う蓋然性が高いと考えるのは誤り)、では実際に行為した客に対峙した際にどう考えるべきかというところ。ここで考えるというのは、それを言明することにほぼ滑らかに繋がるものである。

これは例えば、以前少しどこかで話題に上がっていた小児性愛者の問題とも通底するものがあり、つまり例えば実際に小児の強姦を行った者が居たとして、その者が小児性愛者であるかどうかということが行為への判断に影響すべきかということである。ただ私は小児性愛者の方が小児の強姦を行いやすいということを証明するデータは持たない。

もう一つ例を挙げると、上野千鶴子氏(や内田樹氏)の言説を裕福だからとか高齢だからとかいう理由から糾弾することは妥当なのかどうかという問題とも繋がり、実際に(かどうかは解らないが)そういう人が多いからといってそうした属性を基にして批判がなされるべきなのかという判断の問題になる。

個人的な結論を述べるならば、理由あって私はそれは妥当ではないと言いたい。一つに、より一般的な道徳の構成を妨げることになる。なぜなら、行為の悪徳を属性の悪徳に結びつける危険性があるからである。その行為それ自体を推奨乃至行わせるものであっても属性自体を悪徳とみなすことはできない。もう一つには、一つ目と関連するものの、行為の道徳性に対しても目を曇らせるからである。

例え誰かがどのようなことを信じていたとしても、それが行為という形で外部に(悪)影響を及ぼすことがなければそれは実際に問題がないのであり、その意味でドグマすら単純に棄却されるべきではないのかもしれないと、強い道徳の結構を構成するという可能性に対して判断が揺らぎがちである。

よくここまで読んだね。よっぽど暇なんだね。

ノヴァイオレット・ブラワヨ『あたらしい名前』感想など

ジンバブエからアメリカへーー。グァバを盗んだり、ごっこ遊びをしたり、天真爛漫に遊ぶジンバブエでの日々を経て、少女ダーリンはアメリカに移り住む。しかし豊かで物があふれる国での暮らしは、予想外に戸惑うものだった。」(カバーより)

 

カバーにこう書いてあるのですが、これ殆ど詐欺。「ごっこ遊び」という言葉に収斂されているのは世界システムであって、殺人であって、天真爛漫さはむしろ残酷さだと、子供でない目線からはそうとすら見えてしまう。ストーリーは確かに冒頭に書いた通りで、内容はアフリカの生々しい現実を感じさせるものでもあるのですが、それがおそらくこの物語の本領ではない。

Twitterで軽く感想をサーチしてみると、まず目に入るのは「アフリカの現実をまざまざと見せつけられ衝撃を受けた」という類いのもの。いや、この本を読むまで貴方はアフリカのことを何だと思っていたんですかね。あまりに無関心過ぎではと。そうでない感想で見当たったのは「貧困も知ってることばかりだし、テーマだけが壮大で結局回収されず終わりも適当」というもの。それはあまりに内容しか読んでいなさ過ぎでは。

言いたいことは、この物語の本領は視点にあるのだと、そう思う訳です。大きな世界の文脈の中にはない、本来のままで解釈から離れたまま放り出されているほんとのことを、そのまま突きつけられるような特異な視点。視点が痛い。多分、あるように、いつものようにアフリカについて思うように憤ったり、同情したりできるのであれば、こんなに刺さりはしないのだと思う。

アフリカはどのようであるか、知っていることばかりであったというのは私にとっても必ずしも当てはまらないことではないのですが、それでも知らなかったような生々しさがあります。過激という言い方が正しいのかは解りかねますが一般的にそうとされる描写もありますが、読んで後悔はしないと思います。高いけど。

テンションが解らない

いやさ、ブログを書いていて少なくとも自分で面白くなかったら多分人が読んでいても面白くないのだろうと特に思いはしないのですが、そうでなくても書いていて面白くもないものを書きたくもない訳ですよ。したがって面白おかしく書きたいと思う訳ですが、だからと言って私がRO69のライブレビューみたいなテンションでブログを書いていても不穏だしそれはそれで面白くもないという訳であって、要するにブログを書くのに適切なテンションが解らないと。ではTwitterには何故書けるのかは謎ですね。

というか、それはインターネットメディアを読んでいても思うことではあるのですが、随分読みやすい文章が多いなと。口語体のような文章で、無駄に改行が多く、面白い感情を面白いとも書かずに(笑)と書いて面白がっていることをプリミティヴな次元で表象する。感情だけで読めてしまうような文章であって、感情が動く訳ではないというのは表現形式として新規ではあると思うのですが、それはつまり記号に応答しているだけではないのですか。

そういえば先日「愛とは何か」と急に聞かれたのですが、道徳と愛の違うところは哲学的ゾンビには後者の実現は不可能だということは確かだなと思いましたね。それは別に心があるからとかそういう通俗的なロマンティシズムに基づいてではなく、道徳は内面が必ずしも伴う必要はない、つまり道徳的とみなされている行為を行うことが実際的にその人自身を道徳的だとすることになるのに対して、愛はそのようにみなされている行為のセットメニューがないということ(性愛的な行為は形式の多様性やプラトニックな愛の存在から棄却される)であり、要するに言いたいことは、深い次元で感情を喚起するのは行為という記号化された表現形式では困難が伴うのではということです。

だからテンションは低めで書きます。以上です。