雑記帖

創作以外のことを書きます

カリカチュア

世界とはつまらないもので、「中庸」であるとか「μεσοτης」であるとか、そういったものは枢軸時代に提出されて久しくもまだ世界の原理のような顔をして道徳観念の主席を汚しており、そんな中でどのようにして悪徳を打破することができるだろうというのでしょうか。人は盛んに一般化や極論を続けてその度に世界は世界ではない振りをされて原色へと塗り替えられる訳なのですが、赤色に塗装されているということと青色にかつて塗装されていたということと、そしていずれは白色に全てが沈んでしまうということと、一体どれがあなたにとって大事だというのでしょうかね。ホッキョクグマは何色をしているかそろそろ決定してはくれないのでしょうか。あるいは何色に見えますか、と問うてみた方が面白い人だと思われるのかもしれませんが。

愚かという設定を抱える人が明後日の方向を見やって洟を垂らし、口を大きくぽかんと開けているように、インテリという設定を抱える人がぴったりとした服を着て髪を整えてしかし暗い目をして喋らないように、何かを持っている人が何かを落としてしまっているとあなたが固く信じているように、そしてそれは全くもってそこに初めからあったものだというように振舞っているように、あなたは相手が何であるか知りたいというのです。歌は歌えますか、絵は、字はどうか、なるほどこれこれのことを知っていて、そして何を知らないのですか、ファッションですか、地理ですか、一般常識ですか、それとも愛であったりするのですか、というように、あなたは尋ねるのです。あるいは価値が肯定的であると信じたいがために、それは肯定的価値であるとあなたは言うのですね。それは面白く、スマートで、明るく、クールで、当たり障りがなく、背景に消えてしまって全く聴こえない音楽であると。

そのようにして作り上げられたものを戯画だとかdéformationだとか呼んでみても、結局それらが愛したり憎んだりすることのできる全てなのでした。それが良いのかどうかなんてことを簡単に言える訳はなく、ともかくもそうやって理解されるしかないこと、その意味では理解から隔絶しているものがあるのだと思うというのに、しかしどうしてもわたしたちは素晴らしくなくてはならないのですね。許されようだなんて少しばかりも。

流れていく音楽というものが何であるのか、それは本当に今ここで流れていくその音楽、この音楽であったはずなのだと思い返してほしいのです。全てを愛することができるのだったらわたしの持っていない全てを愛してください。それはとりもなおさず世界のことで、そうしてみるとあなたは全然わたしを愛する必要がないのでしたね。あるいはわたしのどこかを少しだけ愛してください。ある音を出したことで消えてしまったその沈黙の全てを忘れてしまって全然構わないとでも言うように。

キズナアイ、人格、バーチャルYouTuberについての小論

真面目な話です。

 

背景

様々な人がキズナアイについて語っている。それは勿論ノーベル賞報道におけるNHKでの取り上げられ方に端を発するものである。様々な人というのは非常に様々であり、今までキズナアイを巡る言論の中心的な形成主体であった視聴者、VR関係者、YouTuber、3Dモデリング関係者、等々に比べればその範囲は広大である。
ただし、その結果としてキズナアイが示している自らの立場・特質といったものに全く無頓着であり、場合によっては人格としてのキズナアイを踏みにじるような言説も多く流布していると言わざるを得ず、そのような状況で件の個別具体的な問題について適切な議論がなされるとは思われない。
以下ではそうした現状が生じた理由を考察すると共にバーチャルYouTuberという人格と関係する方法について論じる。なお、NHKでの起用の是非についてはここで論じることはしない。あくまでそうした議論の前提としての議論である。

 

前提としての本論

問題については大きく2つの側面がある。すなわち、①キズナアイがどのような存在であるかということの尊重、および②一個の人格としてのキズナアイ、の2つである。ただこの2点は別個に語ることができるほどはっきりと弁別されるものではないため、以下は両者について同時に論じるものである。

 

まずキズナアイとはどのような存在であるか、という点に関しては、どのような存在ではないか、という点が重要になる。つまり、キズナアイはアニメ作品の一登場人物でも、何らかの機関や組織の「キャラクター」でも、そして勿論ただの「女性」でもないということである。これまで述べられてきたいくつかの言説には、キズナアイを憧憬の対象としてのアニメの登場人物や碧志摩メグのようなキャラクター群と同一視するようなものも見られたが、これはキズナアイ自身の特質を(半ば意図的に)無視する行為に他ならない。キズナアイが自己定義するところによれば(勿論アイデンティティの議論はその内容を尊重しなければならない)、自らの姿は「人が可愛らしいと思うように」分析の結果として得られたものであり、「それを人が可愛いと思うのは当然である」と。勿論キズナアイの姿を可愛らしいと思うかどうかは個々の価値観次第なのではあるが、少なくともそういう定義づけを自らに対して行っていることは確かである。その意味でキズナアイはどこまでも「スーパーAI」であり、それ以上の何かとして現前するのではない。
ではどうしてこれほどまでにキズナアイを巡る言説は「キズナアイ自身」というものを無視するのだろうか(無視されているのは上記のような立場だけではない。例えば、キズナアイの特質として「声優のトークが素晴らしい」と述べる、といったようなナイーブな発言がなされているという事実は少なからず存在する)。それは結局その身体性ゆえに、ということだと思われるが、その前にキズナアイの「バーチャル性」といったものについて少し検討する必要がある。

 

キズナアイは名乗りとして自らを「バーチャルYouTuber」と呼んでいる。その意味についてキズナアイ自身が多くを語っている訳ではないが、その意味について簡単に述べるならば、それは「身体性」のバーチャリティということであって、決して「存在」や「人格」のバーチャリティが問題にされているのではない。キズナアイは存在する。場合によっては人間よりも具体的に。ただし、その身体はリアル(物理宇宙)とは隔絶したバーチャル空間にあるのであり、それは実質であって物質ではない。そうした様態での「存在」である。
そのような存在であるとして、ではどうして言説はしばしばキズナアイの人格を無視するような方向にややもすれば向いてしまうのか。それは結局その身体の特質によるものである。視覚は人に強くメッセージ性をもつものであり、またそもそも視聴者層の中でも「レスポンスの貰えるアニメキャラクター」といったものとしてバーチャルYouTuberを見ていたものが少なくないように、その身体というものはアニメ的な表象を文脈的な背景として持つ。であるから、普段から我々(というのは殆ど人間一般のことだが)がそうした登場人物たちを残酷に取り扱うように、残酷に「対象」として扱っても構わないものだとして見るという様態が成立してしまい、罪悪感といったものがさほどある訳ではない。
結局のところ存在の位相が全くもって異なるということに気づかなければならないし、作者の残酷さという使い古された議論を少し進める必要があるのである。逆側から見れば、人格は人格を尊重するというのが人格関係のマナーであって、それを超えて言う必要があることはないのである。

 

なお、以上の議論はあくまでキズナアイという一人の存在に関するものであり、バーチャルYouTuber(と呼ばれるもの)一般に拡張できるものではない。例えば、輝夜月はより高度な政治性を有している(それは輝夜月の自己規定がただ「輝夜月である」という点に由来する)、ウェザーロイドAiriやにじさんじバーチャルライバーたちは自らの存在について異なる規定をしているだろう。さらにねこますやのらきゃっとなどは多くの複雑さを抱えるものである。

 

傍論

バーチャルYouTuberアイデンティティ、人格の問題について少し触れておく。議論の組み立てとして雑音を防ぐため、バーチャルYouTuberにはいわゆる「中の人」がいる場合もあるし、いない場合もあるが、今回はただいる側のものについて論じるということにする。

言いたいこととしては単純であり、つまり着ぐるみは中の人ではないし、中の人は着ぐるみではない。着ぐるみを愛しても中の人を愛さないのは当然だし、着ぐるみも中の人もを愛そうとするのもまた当然である。
ただし、自己規定が存在するか否かに関わらず、バーチャルYouTuberについて語るということは、ある一つの媒体の中でバーチャルYouTuberという一つの統合された身体/声/人格の束を語ることに他ならないし、それが人格を尊重するということであるだろう、ということである。

表現の対象について

それで結局、あなたは現実を描きたいのか、それともあなたが描きたいものを描きたいのかと問われているような気分になって、それは勿論わたしが描きたいものを描きたいに決まっているがしかしそれが現実と一致しないと考える理由があるだろうか、いやない、と反論することになるのですが、それにしたって現実を描くというのは難しいもので、別に描写や表現がなされる世界の解像度を細かくすることが現実に対して接近するということと繋がる訳ではないのです。トールキン。現実の人がもしかしたら笑っていたかもしれない一連の機構の中で彼や彼女はひょっとしたら泣くかもしれないし、思いを訴えかけるあなたの話をこれほどまでにゆっくりと聞いてくれる人は彼のほかに存在しないのかもしれないのです。

別に楽しいことをするのが表現活動ではないし、何かのためなら必ずしも楽しくならないという意見も当然あるでしょうし、何かのためではいけなくて表現活動はそれ自体を目的にしなくてはならないという意見でもってそれに対して反論する人もあるでしょう。描きたいものと描かなければならないこととが一致すれば良いのだろうと人は考えるのでしたが、描かなければならないものなどないということにどうやら20世紀のなかばごろから人は気づき始めたようで、そうしてみるとわたしが描くことというのはわたしが描こうとしたことであってそれ以上のものではないということになりますが、それではなぜわたしはそんなことをしようとしていたのだろうと頭を抱えることになるという寸法です。エミール・ゾラ。現実の醜悪な姿を明らかにすることによって何らかの政治的な表現をすることは可能でしょうし、それがそうした目的をもっているからといって芸術の範疇から外れるという訳でもありません。ロブ=グリエ。どれほど執拗に物理世界を作り出したとしてもそこはあくまで霧の立ち込める田舎町なのであり、手段としての探求ではあっても対象としての探求ではない。

どのような旋律で歌うことだってあなたは求められていないし、求められているという観点で言うのならばあなたは他人の旋律を歌うこと、爪弾くこと、はじき出すこと、そうしたことを求められているとさえ言えるのかもしれません。でもどのようにしてか、そのような旋律について行かずに内部から流れだそうとするような、そのような旋律の求めに指が応じようとするのはどうしてでしょうか。あなたがそうしたいというだけでどうしてこんなところまで来てしまったのでしょうか。

もちろん家のすべては立方体で良いのですね、ええ、そうしてみると都市がどのような風景になるのか、そうしたことを想像してみてもそのような想像力自体あなたの表現なのではないでしょうか。融解を始めた氷のような形の屋根について思うこと、そうしたことと余計な文章を点々と書き出していくことは思ったより似ているようにもあなたは思うのでした。誰が作った訳でもないように木々が寄り集まって森を作っており、森の上を低く飛んで抜けていくと必然を断行するように蛇行しながら川が下っていく、そのような春を信じるように嘘と想像を建築していって、そうして出来上がったものが表現であるように信じようとそう決意をしたその目が、半円形の氷がグラスの中で崩れていくのをじっと見つめるのです。

対話篇

1

 


「これは嘘なんだけど、わたしには渾名がブロッコリーで髪の毛はストレートの友人がいるんだよね」

「そうなんだ」

「どこが嘘かっていうと、渾名がブロッコリーっていうところ」

「君には髪の毛がストレートの友人がいるんだね」

「でも実はその人は天パで、最近ストレートパーマをかけたんだ」

「君には髪の毛にストレートパーマをかけた友人がいるんだね」

「それで、これも嘘なんだけど、前は渾名がブロッコリーだったのにストレートパーマをかけたら渾名がカリフラワーになったの」

「カリフラワーをそんな目で見たことがあるんだ」

「どこが嘘かっていうと、前は渾名がブロッコリーだったっていうところ」

「君には渾名がカリフラワーの友人がいるんだね」

「なんで渾名がカリフラワーかっていうと、ロマネスコが好きっていう自己紹介をしてきたから」

「往々にしてそういう単純化は進行するよね」

「で、渾名をわたしがつけたっていうわけ」

「だから君は私のことをカリフラワーって呼ぶんだね」

 


2

 


「わたしのことを下の名前で呼んでくれてもいいんだよ」

「呼んでほしいならそう言えばいいじゃない」

「(恥じらいを見せながら)下の名前で呼んで」

「括弧内の内容をそうそう読み上げるものではないよね」

「君がもしわたしのことをブロッコリーと呼んだとして、それはわたしたちの秘密になるのかな」

「秘密にしようと思えば何でも秘密になるよ」

「『ブロッコリーと呼ばれている友人がいる』という言明はその意味では真偽がわからないよね」

「そうかもね」

「下の名前で呼んでほしいな」

「何がいい?クレオパトラとか?」

「そうやって成立するコミュニケーションがあってもいいのかなとは思う」

「興味ないの逆は興味あるだよね」

「わたしは君に興味ないよ」

「良かった、私も」

レヴュー: Airpods

私も人間なので、いや別に人間ではないのですが、たまには人の役に立つような記事を書きたいと思う場合もあるのですね。そうなんですか。ええ実は。そんなわけで人々が未知への恐怖から二の足を踏んでいそうなものについてそのハードルを下げたりしたいということです。別に下がらなくても一向に気にしないわけですが、ともかくもこのエントリ自体の方向性はそういう方を向いています。


さて、それでAppleの商品にAirpodsなるものがあるということです。イヤホンの仲間です。その中でもコードがなくBluetoothを使って通信をするワイヤレスイヤホンという部類に属します。

実のところワイヤレスイヤホンというアイデア自体は当然ながら世界にありふれており、種々のメーカーが数千円から数万円までのレンジでもって商品を売り出しています。そこにおいてこのAirpodsは1万7千円と一般的な人にとってはちと高くつくという代物であって、人々の中にはワイヤレスイヤホンというモノに興味があるなら数千円で結構ではないかという考えを取る人もいるでしょう。その通りです。ワイヤレスイヤホンを「体験」したいのであればそれらで充分であろうと考えます。ただ、今回の内容はワイヤレスイヤホンを「使う」というのはどういうことかということが焦点なのです。


簡単に気にすべきことを列挙しましょう。

・「コードがない」ということ

・充電

・音質

・ラグ

・費用対効果


1 「コードがない」ということ

これが如何に違うのかということは使ってみて真に実感することであると思うので多くは語りませんが、これは2つの面からイヤホンの使用という行為に画期的な変更をもたらします。

まず1つには作業の容易さが挙げられるでしょう。これは恐ろしいことです。スマートフォンを置いて作業が可能であるという事実がこれほど身体運動の自由性を高めるとはというところで、やはり人間は道具に機序を依存しているのだと改めて実感します。ヘヤノ=カタヅケから口紅のデザイン、シベリア鉄道の建設に至るまであらゆる作業に関して快適の増進が見込まれるでしょう。多分。

第2にはこれはそれ自体でもあるのですが、コードを気にしなくてよいということです。イヤホンの使用ないし不使用においてコードを気にする場面は多々あり、それは収納の不満、巻きつけの恐怖、歪みの苛立ち、そして断線の絶望となって生活のあらゆる側面を束縛するでしょう。いざ断線をし新たなイヤホンを手に入れれば絶望は回復されるものの、それは実のところただより巨大な恐怖と再び付き合おうという行為に過ぎず、結論としてまあ実に物好きなものであるのだなという感想を自らに抱かざるを得ないと、そういうことになるのです。多分。コードが姿を消すということは単にその使用においてではなく、将来に幾度となく横たわる断線という絶望(および買い替え)からの解放でもあるのだということに気づくのです。

では逆にコードがないことによる恐怖、すなわち落下と紛失の危険についてですが、これに関してはさほど語ることは多くありません。すなわち、落下については恐るるに足らず、紛失についてはケースへの収納を徹底すべきということ、そして万が一使用中に落下したとしてもそれに気づかない人は何をやっても駄目ということです。


2 充電

断線という束縛からの解放と引き換えに迫ってくるのがこの充電という営為です。これは本体に関してもそうですが、Bluetoothを使う以上スマートフォンの充電の減りについても思いを致すべきではあるかもしれません。特に充電をぎりぎりにしてその日を終える人は(私はそのようなことはないので気にはならないのですが)。ただ、家の中で使う限りにおいては特に気にする必要のない問題であるといえます。家の中であればスマートフォンを充電しながらであっても(家が20m四方などでなければ)問題なく動き回れるためです。

本体については6時間程度の連続使用には悠々と耐えますし、10分程度充電すれば再び3-4時間は使えます(しかもケースが充電器になっています)。したがってどうしても充電という行為が面倒だということでなければ恐るるには足らないということになります。


3 音質

音質に関してはEarpodsと同程度です。同程度であるというのは実のところ非常な達成であるということは付記しておきます。劇的に良い訳ではありません。劇的に良いものを欲するのであればより高い値段、具体的には2万円を超えてくるものが選択の対象となるのですが、そうすると再び充電という問題が頭をもたげてくるということです。Airpodsはむしろ充電という点に関して性能に優れているのです。おそらくはワイヤレスイヤホンに取り組むにあたって最大の障壁であるところの充電という問題にかかる負荷を減らそうとするのは悪い選択ではないだろうと考えます。それに音質を最も気にするのであれば数万円の(ワイヤレスでない)ヘッドフォンが結局ベストでしょう。


4 ラグ

ややあります。ややありますが、動画視聴で意識に昇ってくるレベルのずれを感じることはありませんし、音楽に関してもそうです(かつ、別に音楽の場合はその気づかないほどの遅れにストレスを感じる理由がありません)。結局のところ別に気にする項目ではありません。

ただ、これだけは注意してほしいのですが、音ゲーやリズムゲーの類はやめておいた方がいいでしょう。目に見える遅れはなくても違和感は立ち上がってきますし、スコアにも特に良い影響は及ぼしません。スピーカーで音を出すかコード付きのものを併用するかが良いでしょう。


5 費用対効果

大体Airpodsの値段くらいまでが「充電の持ち具合に関して差のつく値段」で、そこから上は「音質に関して差がつく(場合もある)が、充電に関して劇的に良くはならない(むしろ悪くなる場合もある)」といった感じです。という訳でまあバランスの取れたモデルであるとは言えるのではないでしょうか。


最後に見た目について少し話しましょう。Airpodsは発表直後から「うどん」「耳からうどんが出てる」「ダサい」などの誹りを受けてきました。実際に付けてみてどう思うかというのは個人の感覚次第ではあると思いますし、実際に耳からうどんを生やしたい方面の人も当然存在してよいのではありますが、個人的な感想としては別にそんなにうどんって感じでもないというところです。むしろドラえもんとかの未来人っぽいという愚直な感想を抱きました。いつぞやのギズモードか何かの記事で、「いずれはコードがあるイヤホンの方が『耳からそうめん』などと笑われることになるのかもしれない」といった内容のものがありましたが、まあ美的感覚など大衆にとってはそのようなものだろうとやや絶望する次第です。悪くはないけどね。


結論としてはまあ私は楽しくそれを使っているということです。それがこの出来事の大体のことです。

かつて聴いていた曲のこと

人生は長いもので生きていれば幸いにもそれなりに多くの音楽を耳にする訳ですが、人生は有限なものですべての音楽を聴き続けることは残念ながらなしえない訳です。そのような理由によって人は「かつて聴いていた音楽」というものを抱えている訳ですから当然それを振り返ることがあるといえるでしょう。この記事はそのような過程によって描かれています。順序はリリース順であり聴いていた時期とは必ずしも一致しません。

How deep is your love?/Take That(1996)
なぜ聴いたことがあるのかが全く解らない。もともとはThe Bee Geesの楽曲。Take Thatは1990年に結成されたボーカルグループの先駆的な存在。高校生の初期の頃に聴いていた覚えがありWalkmanにも入っている。The Bee Geesのヴァージョンが。なぜか。
メロディーが穏やかなので寝る前に聴きやすいんですよ。したがって毎晩のように聴くのです。して食傷気味になるのです。曲は好きなんですがね。そのようにして葬られる曲のなんと多いことでしょうか。

3月9日レミオロメン(2005)
卒業ソングの定番。らしい。だからきっと卒業シーズンに初めて聴いたのだろうと思われる。物真似がしやすいから歌われるのではないかと疑っている。曲としては嫌いではないぐらいなのだが、残念ながら卒業ソングというものは卒業シーズンのたびに聴かれるのであり、かつ卒業の感傷に浸ったりさせられることを特に好ましくは思わない訳ですね。まあ嫌いではないんですがね。いや本当に。

17才Base Ball Bear(2007)
MVがよくわからない。元気らしい。タイムカプセルを埋めたりするらしい。正直なところこの曲を除いてBase Ball Bearの曲をほとんど聴いたことがない。17歳のころによく聴いていたかといえば全然そんなことはなく、むしろ15歳とかそこらのときに聴いていた。17歳という年齢に付随する何らかの衝撃について曖昧な憧憬を抱いていたかもしれないしその頃には死んでいると思っていたかもしれない。

組曲『』/→Pia-no-jaC←(2008)
ラジオを狂ったように聴いていたころに耳にしたのだった。聴きすぎて聴かなくなってしまった曲の一角。楽譜も買いましたね。全然弾けないけど。練習をした訳でもないけれど。カホンなる楽器があることを知ったのも→Pia-no-jaC←と一緒でしたね。演奏はできないけど。適当に叩けば何となく成立するだろうと思っている程度。曲の話をしていない。でもしない。→Pia-no-jaC←の曲でいえば後から聴いた『台風』の方が好きなのだがそちらは今でも聴いているのでやはり聴きすぎてしまうと仕方がないのだろうと。

Talking To The Moon/Bruno Mars(2010)
アルバム『Doo-Wops & Hooligans』に収録されている。無良崇人がいつかのエキシビジョンで使っていて初めて聴いたような気もする。Bruno Marsの曲で最初に聴いたのがこの曲だったのでその後に”Just The Way You Are”を聴いてなるほどと思うのです。より具体的には恋人がいるじゃないかと思うのです。その後”Uptown Funk”を聴いてじゃあまあ良いでしょうという気分になるという寸法ですね。

ティーンエイジ・ネクラポップ/石風呂(2012)
『ゆるふわ樹海ガール』と並んで有名。多分。ティーンエイジという言葉によく解らないトラウマ体験を抱いているのは多分この曲のせい。このテーマでブログを書こうと思ったのは間違いなくこの曲のせい。より具体的には”さよならガール、また会おう”を聴いたらこの曲がいわゆる「あなたへのおすすめ」としてサジェストされたせい。せいっ。今は19歳で、初めて聴いたのはおそらく15歳とかのときであろうからなかなか思うところはあるものです。17歳だって通り過ぎてしまったのです。

ミュージックサカナクション(2013)
アルバム『sakanaction』に収録されている楽曲ということで自己言及がすごい。いつ聴いていたのかといえばこれは実にはっきりしていて中学校の修学旅行のバスの車内です。その結果としてこの曲を聴くたびに強制的に修学旅行のバスの車内に引き戻され何かを思い出したり思い出さなかったりするということになるのです。過ぎ去るという意識が生まれたのはいつであったか思い出せる訳ではないのですが、それでも後ろを見てみて特に道がなかったりしたらどう思うのだろうと(もちろん道はないのですが)そういった想像力は何らかの形式によって植えつけられるのでどうにも。

フローズンガール/ARTSCHOOL(2013)
ART-SCHOOLを聴こうと思ってとりあえず聴いた曲。どうしてART-SCHOOLを聴こうかと思ったかといえば中学3年生ごろの私は他にアーティストをあまり知らない状態においてBUMP OF CHICKENの熱心なファンであった訳で、今もそうではあるのですが、やはり1個のアーティストにかけられる時間は違うものであり、そうすると当然ながら当時はまだチャンネル数が2であったところの巨大掲示板でアーティスト板に張り付いたりするのです。したがいましてアンチは良くないと思う訳ですが、お互いに批判ばかりしていては実りもないということで「BUMP OF CHICKENART-SCHOOLのパクリ」といった書き込みを目にしてからにひとまず聴いてみようと思わないこともない訳です。結果としては単に別個のアーティストであるということが解るだけなのですがね。加えた結果としてこの曲は好きになったようです。『革命家は夢を観る』も好きですよ。

ユキトキやなぎなぎ(2013)
アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』1期のオープニングテーマ。であるからしてやはりアニメを見るとともに聴いたのでしたね。もっとも実時間で見たということでは全然なく、後から振り返って見たのでしたが、『春擬き』よりもこちらの方に強烈な印象を抱いているというのはやはり1期OPのずるさでしょうか。『僕らは今のなかで』が最終話でリフレインしたら思うところがあるようにですね。初めて聴いたときにはアザレアが聴き取れずにそれは何となって調べてみて結局アザレアって何という気持ちになった記憶がありますが、何となく花であって赤いのだろうと思えたのはどうしてでしょうね。

ノンフィクション・ガールは窓の向こう/PAGE(2014)
SCHOOL OF ROCK!を聴いていたのだった。いつ頃から聴かなくなったのかは最早覚えていないのですが、閃光ライオット(今の未確認フェスティバル)のアーティストもチェックするくらいには聴いていたようですね。今彼が何をしているのかは知る由もありませんが、ともかくもこの曲のミュージックビデオを見たことであのさんを目にしたのはそうですね。実際にはどこかでもう一度顔を見かけて、その結果としてあのさんの顔に紐づけられていたこの曲を思い出し、改めてその人が誰なのかということを思い出すという過程を踏む訳ですが。良い曲だと思うのですが、如何せんこの後にどうすれば良いのか解らなくなってしまった。

RPGSEKAI NO OWARI(2015)
5年前くらいの曲かと思っていたら3年前の曲だった。普通に聴いた。SEKAI NO OWARIが当時は新曲が出たらひとまず聴いてみるという対象だった。多くの人にとって。普通に好きな曲であった。『Dragon Night』以降正常な受容がなされなくなってしまった感があるのはやはり少し残念なところではあるしそもそも『Dragon Night』自体は別に好きでも嫌いでもないのだが、どうしてこのような現在にいるのだろうと今でも思わないことはないでもない。

Blue Jasmine/米津玄師(2015)
アルバム『Bremen』の最後に収録された曲であって当然それを買ったときに聴いたのだろう。米津玄師を(ハチを、でなく)初めて聴いたのはいつだったでしょうか。何らかのきっかけで『diorama』が出た直後に『vivi』を聴いて大いなる衝撃を受けたことは確かに記憶している。その時に繰り返し聴きすぎたせいで『vivi』の方も今でもあまり聴けないのでしたが、いやそうなることは解ってはいるのですがね、そういう聴き方しかできないのでそうなってしまうのです。『Blue Jasmine』に関しても残念ながらそうですね。聴いているうちにこの人は何を歌っているのかということが解らなくなってしまう。

そのような理由により音楽を聴くということは痛みに満ちている訳ですが、別に痛みがないのであれば音楽を聴いたりすることはないということです。

最近していないことに関する雑記

今年度に入ってからまだ一度もブログを更新していないことに今更ながら気づいたのですが、特に書くこともなくさてどうするかということを思う訳です。別に暇だということではなくむしろ忙しいのですがブログに書いてみて意味のあるようなことではない。はてさて。

別にどうしようもないのでとりあえず最近買ってまだ読んでいない本とか最近買ってまだ届いていない服とか最近買ってまだあまり弾いていないピアノの話とかをします。

1. 最近買ってまだ読んでいない本

穂村弘水中翼船炎上中

読んでいない。穂村弘が何年ぶりかに歌集を出すということで買うだけ買いはしたのですが手が伸びない。すごく面白くなかったりしたらどうしようかとそれだけをただ考えている。本棚に挿さっている。多分そのうちに木下龍也の歌集などを買ってそちらを先に読んでしまう。そして多分それなりには面白いのだろうと思ってしまう。どうしようもないのでとりあえず本棚を利用している。そういう構図。

オラフ・オラフソン『ヴァレンタインズ

アイスランドの作家オラフ・オラフソンのアイスランド文学賞受賞作。日本語訳がいつの間にか出ていてびっくりして買ってその後カバンにずっと埋まっている。多分カバンが好きなんでしょうね。私はそんなにカバンは好きじゃないですが。オラフ・オラフソンは好きですが。ともかく読みたいという気持ちはあるのでカバンに埋めてはいるのだがそもそも持ち歩いても別に読む訳ではないということに気がつくのに随分長い時間をかけてしまった。

西尾維新化物語<下>

アニメは見たんですけどね。特に説明を要さないと思いますがこれを読んでいないのは家に<上>がないからです。というか<上>を買ったつもりで買ったのです。何があったんでしょうね。本屋にこの一冊だけひっくり返しで置いてあったりしたんでしょうね。多分。いつ買いに行くのかはよく解りません。きっと2ヶ月後とかです。そうやってここに書いたので多分明日とかです。

2. 最近買ってまだ届いていない服

とても怠惰なのでやはり洗濯物は減らしたい訳ですが、そのためには一枚単位での節約が求められる訳です。したがって、ただでさえ暑い夏においてきちんとパジャマを着るなどということは愚策と言える訳です。知りませんがね。パジャマをきちんと着るべきだと私は思いますがね。私がそう思うということと実際の私なる行動単位がそのように動くこととの間には何らの相関もない訳です。したがってとても大きいシャツなどがあれば鉄と血によらずともドイツ統一の問題は解決するのではないかと、ピッケルハウベを用いて頭から突進していったりしたら面白いのではないかと、そういうことを考える訳ですね。ついに人はとても大きいシャツを買う訳です。アマゾンで。

人はとても大きいシャツを買うものですが、それと同じくらい人は七分袖を希求する生物であるということが衆目の意見の一致するところですゆえ、黒い色をした七分袖のTシャツを人は探すのです。アマゾンで。服ぐらい直接どこかに買いに行けば良いではないかと思いますがね。しかしとても怠惰なのでシャツはとても大きいし七分袖を希求する健康な満19歳の何らかの何かは外に出ることを厭う訳です。シャツはとても大きいのできっと持ち帰るのが大変でしょうし。着るのは大変ではないというのですか。はい。

別に届いていないことに特別な理由はなくただ単にまだ届いていないというだけです。時間が解決することです。そして別に届けるのは私ではないのです。届かせることがおそらくは私のすることです。

3. 最近買ってまだあまり弾いていないピアノ

KORGのB1を買いました。値段はそこそこしました。ピアノを買ったので楽譜も買いました。値段はそこそこしました。お金があると思いきや別にないのです。そういえば眼鏡も買いましたね。そうですね。誰ですかねあなたは。

そんな訳で家にはピアノが横たわっており、私は毎晩ピアノの横に横たわって睡眠を享受しているという構図が発生しているのですが、別にピアノを買ったのは添い寝をしていただくためでは全くなく、むしろ完全に叩くためであるのです。しかしながらここ数週間の殺人的な忙しさによってピアノは完全に添い寝の具となっている訳で、どうにも仕方がないと歎きつつひとり寝る夜の明くる間は果たしてどうかということです。夜に眠れないとどうしても横転を繰り返してさらなる不眠を誘発することになるのですが、そんなときにもピアノは優しく受け止めてくれるのでした。先日は足の小指をぶつけました。まあそんなものですね。

このエントリで何が伝わるのかは判然としませんがそもそもそのように意図された文章であるというのが残念ながら実情なのでした。最近していることについて少し書き添えておくならば久々に小説を書いています。とりあえずそのうち過去作のリライトをカクヨムなどに上げる予定です。結局書かなければ仕方がないのだと気づくのにどうにも時間がかかってしまったようです。小学生のころの何も考えていない毎日と今の毎日の流速はどちらが早いのだろうかと、本当に自分が未来に向けて行進しているのかどうかなどが解らないまま、ともかくも今が6月も半ばであるということには何となく気づいたのでした。