雑記帖

創作以外のことを書きます

かつて聴いていた曲のこと

人生は長いもので生きていれば幸いにもそれなりに多くの音楽を耳にする訳ですが、人生は有限なものですべての音楽を聴き続けることは残念ながらなしえない訳です。そのような理由によって人は「かつて聴いていた音楽」というものを抱えている訳ですから当然それを振り返ることがあるといえるでしょう。この記事はそのような過程によって描かれています。順序はリリース順であり聴いていた時期とは必ずしも一致しません。

How deep is your love?/Take That(1996)
なぜ聴いたことがあるのかが全く解らない。もともとはThe Bee Geesの楽曲。Take Thatは1990年に結成されたボーカルグループの先駆的な存在。高校生の初期の頃に聴いていた覚えがありWalkmanにも入っている。The Bee Geesのヴァージョンが。なぜか。
メロディーが穏やかなので寝る前に聴きやすいんですよ。したがって毎晩のように聴くのです。して食傷気味になるのです。曲は好きなんですがね。そのようにして葬られる曲のなんと多いことでしょうか。

3月9日レミオロメン(2005)
卒業ソングの定番。らしい。だからきっと卒業シーズンに初めて聴いたのだろうと思われる。物真似がしやすいから歌われるのではないかと疑っている。曲としては嫌いではないぐらいなのだが、残念ながら卒業ソングというものは卒業シーズンのたびに聴かれるのであり、かつ卒業の感傷に浸ったりさせられることを特に好ましくは思わない訳ですね。まあ嫌いではないんですがね。いや本当に。

17才Base Ball Bear(2007)
MVがよくわからない。元気らしい。タイムカプセルを埋めたりするらしい。正直なところこの曲を除いてBase Ball Bearの曲をほとんど聴いたことがない。17歳のころによく聴いていたかといえば全然そんなことはなく、むしろ15歳とかそこらのときに聴いていた。17歳という年齢に付随する何らかの衝撃について曖昧な憧憬を抱いていたかもしれないしその頃には死んでいると思っていたかもしれない。

組曲『』/→Pia-no-jaC←(2008)
ラジオを狂ったように聴いていたころに耳にしたのだった。聴きすぎて聴かなくなってしまった曲の一角。楽譜も買いましたね。全然弾けないけど。練習をした訳でもないけれど。カホンなる楽器があることを知ったのも→Pia-no-jaC←と一緒でしたね。演奏はできないけど。適当に叩けば何となく成立するだろうと思っている程度。曲の話をしていない。でもしない。→Pia-no-jaC←の曲でいえば後から聴いた『台風』の方が好きなのだがそちらは今でも聴いているのでやはり聴きすぎてしまうと仕方がないのだろうと。

Talking To The Moon/Bruno Mars(2010)
アルバム『Doo-Wops & Hooligans』に収録されている。無良崇人がいつかのエキシビジョンで使っていて初めて聴いたような気もする。Bruno Marsの曲で最初に聴いたのがこの曲だったのでその後に”Just The Way You Are”を聴いてなるほどと思うのです。より具体的には恋人がいるじゃないかと思うのです。その後”Uptown Funk”を聴いてじゃあまあ良いでしょうという気分になるという寸法ですね。

ティーンエイジ・ネクラポップ/石風呂(2012)
『ゆるふわ樹海ガール』と並んで有名。多分。ティーンエイジという言葉によく解らないトラウマ体験を抱いているのは多分この曲のせい。このテーマでブログを書こうと思ったのは間違いなくこの曲のせい。より具体的には”さよならガール、また会おう”を聴いたらこの曲がいわゆる「あなたへのおすすめ」としてサジェストされたせい。せいっ。今は19歳で、初めて聴いたのはおそらく15歳とかのときであろうからなかなか思うところはあるものです。17歳だって通り過ぎてしまったのです。

ミュージックサカナクション(2013)
アルバム『sakanaction』に収録されている楽曲ということで自己言及がすごい。いつ聴いていたのかといえばこれは実にはっきりしていて中学校の修学旅行のバスの車内です。その結果としてこの曲を聴くたびに強制的に修学旅行のバスの車内に引き戻され何かを思い出したり思い出さなかったりするということになるのです。過ぎ去るという意識が生まれたのはいつであったか思い出せる訳ではないのですが、それでも後ろを見てみて特に道がなかったりしたらどう思うのだろうと(もちろん道はないのですが)そういった想像力は何らかの形式によって植えつけられるのでどうにも。

フローズンガール/ARTSCHOOL(2013)
ART-SCHOOLを聴こうと思ってとりあえず聴いた曲。どうしてART-SCHOOLを聴こうかと思ったかといえば中学3年生ごろの私は他にアーティストをあまり知らない状態においてBUMP OF CHICKENの熱心なファンであった訳で、今もそうではあるのですが、やはり1個のアーティストにかけられる時間は違うものであり、そうすると当然ながら当時はまだチャンネル数が2であったところの巨大掲示板でアーティスト板に張り付いたりするのです。したがいましてアンチは良くないと思う訳ですが、お互いに批判ばかりしていては実りもないということで「BUMP OF CHICKENART-SCHOOLのパクリ」といった書き込みを目にしてからにひとまず聴いてみようと思わないこともない訳です。結果としては単に別個のアーティストであるということが解るだけなのですがね。加えた結果としてこの曲は好きになったようです。『革命家は夢を観る』も好きですよ。

ユキトキやなぎなぎ(2013)
アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』1期のオープニングテーマ。であるからしてやはりアニメを見るとともに聴いたのでしたね。もっとも実時間で見たということでは全然なく、後から振り返って見たのでしたが、『春擬き』よりもこちらの方に強烈な印象を抱いているというのはやはり1期OPのずるさでしょうか。『僕らは今のなかで』が最終話でリフレインしたら思うところがあるようにですね。初めて聴いたときにはアザレアが聴き取れずにそれは何となって調べてみて結局アザレアって何という気持ちになった記憶がありますが、何となく花であって赤いのだろうと思えたのはどうしてでしょうね。

ノンフィクション・ガールは窓の向こう/PAGE(2014)
SCHOOL OF ROCK!を聴いていたのだった。いつ頃から聴かなくなったのかは最早覚えていないのですが、閃光ライオット(今の未確認フェスティバル)のアーティストもチェックするくらいには聴いていたようですね。今彼が何をしているのかは知る由もありませんが、ともかくもこの曲のミュージックビデオを見たことであのさんを目にしたのはそうですね。実際にはどこかでもう一度顔を見かけて、その結果としてあのさんの顔に紐づけられていたこの曲を思い出し、改めてその人が誰なのかということを思い出すという過程を踏む訳ですが。良い曲だと思うのですが、如何せんこの後にどうすれば良いのか解らなくなってしまった。

RPGSEKAI NO OWARI(2015)
5年前くらいの曲かと思っていたら3年前の曲だった。普通に聴いた。SEKAI NO OWARIが当時は新曲が出たらひとまず聴いてみるという対象だった。多くの人にとって。普通に好きな曲であった。『Dragon Night』以降正常な受容がなされなくなってしまった感があるのはやはり少し残念なところではあるしそもそも『Dragon Night』自体は別に好きでも嫌いでもないのだが、どうしてこのような現在にいるのだろうと今でも思わないことはないでもない。

Blue Jasmine/米津玄師(2015)
アルバム『Bremen』の最後に収録された曲であって当然それを買ったときに聴いたのだろう。米津玄師を(ハチを、でなく)初めて聴いたのはいつだったでしょうか。何らかのきっかけで『diorama』が出た直後に『vivi』を聴いて大いなる衝撃を受けたことは確かに記憶している。その時に繰り返し聴きすぎたせいで『vivi』の方も今でもあまり聴けないのでしたが、いやそうなることは解ってはいるのですがね、そういう聴き方しかできないのでそうなってしまうのです。『Blue Jasmine』に関しても残念ながらそうですね。聴いているうちにこの人は何を歌っているのかということが解らなくなってしまう。

そのような理由により音楽を聴くということは痛みに満ちている訳ですが、別に痛みがないのであれば音楽を聴いたりすることはないということです。

最近していないことに関する雑記

今年度に入ってからまだ一度もブログを更新していないことに今更ながら気づいたのですが、特に書くこともなくさてどうするかということを思う訳です。別に暇だということではなくむしろ忙しいのですがブログに書いてみて意味のあるようなことではない。はてさて。

別にどうしようもないのでとりあえず最近買ってまだ読んでいない本とか最近買ってまだ届いていない服とか最近買ってまだあまり弾いていないピアノの話とかをします。

1. 最近買ってまだ読んでいない本

穂村弘水中翼船炎上中

読んでいない。穂村弘が何年ぶりかに歌集を出すということで買うだけ買いはしたのですが手が伸びない。すごく面白くなかったりしたらどうしようかとそれだけをただ考えている。本棚に挿さっている。多分そのうちに木下龍也の歌集などを買ってそちらを先に読んでしまう。そして多分それなりには面白いのだろうと思ってしまう。どうしようもないのでとりあえず本棚を利用している。そういう構図。

オラフ・オラフソン『ヴァレンタインズ

アイスランドの作家オラフ・オラフソンのアイスランド文学賞受賞作。日本語訳がいつの間にか出ていてびっくりして買ってその後カバンにずっと埋まっている。多分カバンが好きなんでしょうね。私はそんなにカバンは好きじゃないですが。オラフ・オラフソンは好きですが。ともかく読みたいという気持ちはあるのでカバンに埋めてはいるのだがそもそも持ち歩いても別に読む訳ではないということに気がつくのに随分長い時間をかけてしまった。

西尾維新化物語<下>

アニメは見たんですけどね。特に説明を要さないと思いますがこれを読んでいないのは家に<上>がないからです。というか<上>を買ったつもりで買ったのです。何があったんでしょうね。本屋にこの一冊だけひっくり返しで置いてあったりしたんでしょうね。多分。いつ買いに行くのかはよく解りません。きっと2ヶ月後とかです。そうやってここに書いたので多分明日とかです。

2. 最近買ってまだ届いていない服

とても怠惰なのでやはり洗濯物は減らしたい訳ですが、そのためには一枚単位での節約が求められる訳です。したがって、ただでさえ暑い夏においてきちんとパジャマを着るなどということは愚策と言える訳です。知りませんがね。パジャマをきちんと着るべきだと私は思いますがね。私がそう思うということと実際の私なる行動単位がそのように動くこととの間には何らの相関もない訳です。したがってとても大きいシャツなどがあれば鉄と血によらずともドイツ統一の問題は解決するのではないかと、ピッケルハウベを用いて頭から突進していったりしたら面白いのではないかと、そういうことを考える訳ですね。ついに人はとても大きいシャツを買う訳です。アマゾンで。

人はとても大きいシャツを買うものですが、それと同じくらい人は七分袖を希求する生物であるということが衆目の意見の一致するところですゆえ、黒い色をした七分袖のTシャツを人は探すのです。アマゾンで。服ぐらい直接どこかに買いに行けば良いではないかと思いますがね。しかしとても怠惰なのでシャツはとても大きいし七分袖を希求する健康な満19歳の何らかの何かは外に出ることを厭う訳です。シャツはとても大きいのできっと持ち帰るのが大変でしょうし。着るのは大変ではないというのですか。はい。

別に届いていないことに特別な理由はなくただ単にまだ届いていないというだけです。時間が解決することです。そして別に届けるのは私ではないのです。届かせることがおそらくは私のすることです。

3. 最近買ってまだあまり弾いていないピアノ

KORGのB1を買いました。値段はそこそこしました。ピアノを買ったので楽譜も買いました。値段はそこそこしました。お金があると思いきや別にないのです。そういえば眼鏡も買いましたね。そうですね。誰ですかねあなたは。

そんな訳で家にはピアノが横たわっており、私は毎晩ピアノの横に横たわって睡眠を享受しているという構図が発生しているのですが、別にピアノを買ったのは添い寝をしていただくためでは全くなく、むしろ完全に叩くためであるのです。しかしながらここ数週間の殺人的な忙しさによってピアノは完全に添い寝の具となっている訳で、どうにも仕方がないと歎きつつひとり寝る夜の明くる間は果たしてどうかということです。夜に眠れないとどうしても横転を繰り返してさらなる不眠を誘発することになるのですが、そんなときにもピアノは優しく受け止めてくれるのでした。先日は足の小指をぶつけました。まあそんなものですね。

このエントリで何が伝わるのかは判然としませんがそもそもそのように意図された文章であるというのが残念ながら実情なのでした。最近していることについて少し書き添えておくならば久々に小説を書いています。とりあえずそのうち過去作のリライトをカクヨムなどに上げる予定です。結局書かなければ仕方がないのだと気づくのにどうにも時間がかかってしまったようです。小学生のころの何も考えていない毎日と今の毎日の流速はどちらが早いのだろうかと、本当に自分が未来に向けて行進しているのかどうかなどが解らないまま、ともかくも今が6月も半ばであるということには何となく気づいたのでした。

1年間について

ただ私が個人的に大学1年目を振り返るだけです。有用な情報があるかは知りませんがありそうであれば勝手に見出していただいて結構です。ひとまず個別の授業から。ちなみにSセメスターというのが夏学期(4月~7月)、Aセメスターというのが冬学期(9月~1月)にあたります。

Sセメスター

英語二列W(ALESA) (F.R.)
Active Learning of English for Student of the Artsだそうです。具体的には自分でテーマを設定して英語で短い論文めいたものを書くクラスです。クラスによっては教員側がかなり大枠のテーマを設定してくるところもあったそうですが、Mr.Rはいくつかの選択はあったものの実質的にはほぼ自由に考えることができました。Michel Foucaultについて真面目に取り組んだのは久々だったのでなかなか面白かったとは思います。Sセメスターが終わってから英語力が錆びついているのをひしひしと感じています。

哲学Ⅰ(T.S.)
哲学の所産をいくつかの主要なテーマごとに概観してみようという趣旨の授業。基本的に今までの学習法が歴史的な展開を追っていくというものだったので現代の先端で詳しく探究されている部分についてはあまり詳しくなかったこと、好きな分野に偏りがちであったことを考えればとりあえず受けた意味はあったのかもしれない。Rodney Brooksの動画は面白かったですね。もう少し科学哲学をちゃんとやろうかという気持ちにならないでもないがそれより先にやりたいことがあったのでしたというところ。テストは欠席と相成りました。

フランス語一列①(M.I.)
個別に書くことがあまり思いつかない。黒板がワンダーランド。フランス語に関して感想を述べるならば、ゆっくりやれば単語や文法の面で難しさのある言語ではないということはありますね。発音も非常に一貫していて規則的ですし。アイスランド語と比較している訳ですが。どちらかといえばかけた時間がかなり率直に問題にされるだろうと考えられます。リスニングの難易度は高い。

古典語初級(ラテン語)Ⅰ(K.T.)
ゆっくり。ラテン語の文法をAセメスターまでと合わせた1年間でやってみようという内容の授業でしたが、まあ進行も話し方もゆっくりだったので船は漕ぎながらもそんなに無理せずまあまあ色々身についたかなという感触はあります。もう少し整理して文法をやった上でちゃんと文章を読んでみようかと今は考えています。古典語は会話練習とかがないので楽ではありますね。ギリシャ語もやらなければ…

情報(Y.K.)
学生に何を求めて実施されているのかが今ひとつ理解できない授業。プログラミングを教えるならもう少しちゃんと教えればいいのに。教科書を読めばわかることしか教えないならば教科書を読ませればいいのに。内容自体が全く面白くないという訳ではないのですが1セメスターしかない中で飛ばし飛ばしに詰め込んで面白いと感じられるのだろうかというところです。チューリング機械の話は文系にもしましょう。フォン・ノイマンボトルネックの話もしましょう。

世界史論(A.T.)
中東のキリスト教徒の歴史をたどるというニッチな需要に応えてくれる授業でした。別に私がもとより需要していた訳では必ずしもありませんが。しかしながら種々の黙示録やイスラム教徒との契約文書の話などは非常に刺激的で良かったですね。途中で多少混乱状態に陥ったりしましたが高校の世界史で受け取った物語を良い意味で解体できたのは1つの成果であったと思います。中東に違った目線で興味が湧きもしましたね。アラビア語ぐらいはやらなければ。

英語中級(K.U.)
近代日本の歴史を英語で読んでみようということらしい。まあ確かに英語で読みましたね。国際礼譲などを英語で言えるようになったのはまあ面白いことですね。そしてまた日本史の素養がないということの困難さはやはりひしひしと感じるところではあったのでありまして、日本史をきちんと学び直す必要があると考えてはいるのでした。詳説の新版を買うかどうかというところにおいて私の中で激しいせめぎ合いが行われていたりします。

英語一列①
話を聞いていないので何ともなかなか。別に聞いていない訳ではないのかもしれないが。そこまで面白くもない文章の意味をとって関連するリスニングを聞いてさてどうするという感じの授業でしたが、まずもってどうしてこの形式の授業を続けたいのかということについて少しは考えるべきではないですかね。別に教員に罪はないので特に何も言いませんがね。

身体運動・健康科学実習Ⅰ(忘れた)
パワーリフティングをする。教員のやる気のなさに味があってよい。選択した理由はまあそれだけなのですが、実際のところパワーリフティングよりも縄跳びをしていた時間の方が長かったであろうという気はしますね。それでもSセメスター中の体力維持には少しは貢献があったのかもしれないとは思っています。今は体力がどうしようもない。

社会Ⅰ(T.W.)
社会といいつつ経済社会史といった方が適切な内容でしたね。何らかの映像を見てその映像に基づき色々と歴史の中での思想のぶつかり合いを見ていくという内容の授業。Jeffrey Sachsが話しているのを見たりアメリカの活動家の話を見聞きしたりするなど面白い部分もありましたが少し退屈な時間が長かったかとは思いますね。そして試験の形式は本当にあれで良かったのでしょうかね。

初年次ゼミナール文科(Y.N.)
はてさて。

フランス語初級(演習)①(A.D.)
一列/二列が文法のクラスであったのに対してこちらは会話練習が主でした。教え方は実際のところ上手だとは思いますね。教科書を製作した張本人とは思えないほどに内容をどんどん飛ばしていましたが。発音に厳しい。子音の発音は何とかなるのですが母音の発音における微妙な機微は結局よく解らないままですね。もう少しフランス語も進んで勉強したいとは思っているのですが。

表象文化論(A.S.)
教員はクィア論の日本における第一人者でありました。大学に入る前からTwitterで見かけており知ってはいたのですが実際に話を聞いてみると違った面白さがありますね。内容としては複数のテーマでグループに分かれて発表するというプロセスを繰り返すというものでしたが、本来ならば時間がある2年生の時期に取った方がよいものではありそうであるとはいえ、知識内容としても形式としてもSセメスターの授業の中では得るものが多かった方ではあるので結果的には良かったのだろうと思います。もう少し色々と話を広げてみなければとは思いましたが。

数理科学概論(N.I.)
理系よりも進むのが早い楽しい文系向け数理科学概論。内容面は正直なところ知っていることが多かったのですが、記法の流儀などに慣れること、また道具として扱うための訓練には役に立ちましたね。もう少し進んだ勉強をして数学基礎論の方に大学在学中にアプローチしたいと思っているのですが如何せん何につけても時間は足りないのであります。

フランス語二列(J.S.)
フランス語一列とともに進むフランス語の文法の授業。黒板はそれほどワンダーランドではない。フランス語の学習に関して言えば結局のところ慣れだろうなという感じがしますね。来たる2Sセメスターにはフランス語の中級クラスを取るつもりでいますがあまりの衰弱ぶりに絶望するであろうことは想像に難くありません。語学として簡単な方ではないのかもしれませんが結局のところ選択肢の問題ですし、大して変わりもしない難易度にこだわるよりはむしろ興味関心を少し拡張するといったぐらいの動機の方が結局のところ楽かと思いますね。ミシェル・トゥルニエとかが少しにせよ原語で理解できるのは感動するところ。

科学技術基礎論(S.S.)
役に立ったかと言えばそこまで役に立ってはいない。というのは知っていることが多かったから。とはいえラザロ徴候の実際の映像を見たり改めて福島第一原発に何があったかということを反芻することによってひとつ考えるテーマにはなったとは言えますが。内容はそこまで面白くなくはないのだからもう少し資料を解りやすくするなり説明を簡潔にするなりすれば良い授業になるのになということを思うとともにむしろそれが教育というものの本質なのだなと思うところではありましたね。本は書けるのに。

Aセメスター

英語中級(G.M.)
社会におけるさまざまな格差について学ぶことをテーマとしながら英語でプレゼンしたりディスカッションしたりしようということらしい。生のデータが多かったのは面白いところでしたがプレゼン能力が上昇したとかそういうことは特にありませんでした。英語に触れていないと述べる能力から順番に駄目になっていきますね。一人でも何かを読んだりはしないといけないということは思うところです。教員は最後までいい人でした。

法Ⅱ(T.K.)
国際法の基礎を学んだり学ばなかったりした。教科書は読んだ。国家承認の問題であったり国際機関の有り様についてであったりといったことを回りくどく理解するのが重要であるということは理解できるものの、やはり構築的にある法というものに対していかに向き合うべきかというのはなかなか何ともいえないところではある。世界連邦みたいなものがいかにして上手くいかないかということは割とよく解るところではありますね。法学は一度きちんと芯を通さなければならないところです。

古典語初級(ラテン語)Ⅱ(K.T.)
Sの続き。さらにゆっくり。時制を後から学ぶというのは常に大変なのであって、それは結局色について後から学ぶようなものです。読解が多少できるようになったとは信じたいものの意味を理解できるのと上手に訳出できるのとはまた別の話であるので今ひとつ日本語に落とし込む形での理解はできていない。”芸術は長く、人生は短い”とかが例文として出てくるのはひとつ古典語の面白いところではあると思うのです。キケローの弾劾演説の一部に触れるということをどのように成し遂げるかということでもあります。ギリシャ語もそのうちやりますがまずはもう少し理解を進めなければならないところ。

演劇論Ⅱ(S.T.)
別に履修する気はあまりなかったのに履修に入り込んでいたようで、結局単位を全て確保するという営為はSセメスターに続いて成し遂げられないのでした。それはそれとして演劇の勉強であったり演劇であったりには一度取り組んでみたいと思っています。現状では場所がないので仕方ないのですが。

英語一列②
Sセメスターよりさらに面白くないということに軽く衝撃を受けました。なるほど授業とはここまで退屈であることが可能なのかという感想を抱かせてくれたことに関しては新規性があったかもしれませんが、そのほかのことに関してはあまりに実りがないですね。和訳を出回らせるのを禁じようとする前にもう少し学生のためにできることがあるのではないですかね。だからといってチートが仕方のないことであるというわけでもありませんが……。

英語二列S(FLOW) (C.M.)
FLuency-Oriented Workshopだそうです。会話をしてプレゼンなどをするという内容の授業でしたが、教員によってかなり裁量の幅が大きいようで全然異なることをしている場所もあるようでした。まともにスライドのプレゼンを組み立てたのは久方ぶりだったので楽しくはありましたね。そしてもう少し頭を動かすような毎日であらなければならないということもひとつ思うところではありました。主義を一個立てて満足しているようでは結局旗を支えるために生きることになってしまって果たして何のための旗だったのかということになってしまいます。

歴史Ⅰ(T.O.)
東南アジア史を一通り見てみてどうかという授業。Sセメスターに受けていたのは中東のキリスト教徒だったわけでどうもそういう方向に奇縁があるようです。もう少し整理してくれた方が聞きやすいという不満は抱くもののある意味ではその整理されていないという点が東南アジア史にとって重要な点ではあるかもしれない。編まれたわけではないものが確かにあるという実感をもって歴史を見ることができたのはひとつ重要な経験ではあったでしょう。レポートはそれなりに真面目にやった方。

現代哲学(S.N.)
ウィトゲンシュタイン研究の大家であるところのN氏によるウィトゲンシュタイン哲学を総覧する授業。N氏とほとんど完全に哲学観が相容れないので不安なところではありましたが、がというかありましたし実際に戻ってきた成績を見るにある程度は不安が当たったところはあったでしょうね。中期の資料が豊富であったのは良かった点ではあったかもしれません。本授業の履修者各位におかれましてはどうか一度ウィトゲンシュタインをまっさらに読んでみてどう思うか一旦考えてみてほしいところです。思想は各個のものであり全体のものです。

フランス語初級(演習)②(A.D.)
Sセメスターに引き続き。結局母音には常に苦しめられ続けるのだなというのが感想です。フランス語を使ってしたいことの8割はフランス語が読めれば事足りてしまうのですが実際にフランスに行きたいということもある訳でやはりその点に関しては維持しなければならないところです。文化の受容と言語の受容とをもっと並行にできたら良かったのかもしれません。

ドイツ語初級(第三外国語) (T.N.)
一度はやっておかなければならないと思って取り敢えず受けてはみたものの時間も勉強量も授業のコマ数も足りていないような気がしましたね。そして1限から言語をやるべきではありませんね。ただでさえ連日の早起きであるというのに。一人でもう少しちゃんと時間をかけてやってから色々と手を広げられればよいと思います。ポーランド語の予習もします。

フランス語一列②(T.T.)
Aセメスターになると文法の授業が週1コマになりました。教員は天災が忘れた頃にやってきそうな名前の人でした。フランス語およびフランスに対する造詣は明らかに非常に深かったのでその点に関しては信頼できましたし文法をやる上では良い人でありました。フランス語で良いことについて言うならば、ひとつには文学の豊穣が挙げられますね。ウリポもフランスですし、別にそれを挙げるまでもなくヌーヴォー・ロマンも、自然主義もフランスが中心な訳です。読めるようになった後が素晴らしい。もう一つ敢えて言うならば英語を外側から理解することに一定の貢献はありますね。むしろ英語に古い形が保存されていたりするのはやはりなかなか言語地理学的な見地を感じざるを得ないところです。

ボーカロイド音楽論(P.A.)
#東大ぱてゼミ はこれのことです。ボーカロイド楽曲を通じて人文科学の様々なテーマに(特にセクシュアリティと時間が大きいテーマであったように思いますが)切り込む内容の授業。単純に言って授業中から今までよりずっとボカロを聴くようになったのでそれだけでも良い契機であっただろうと思いますが、もたさんと改めて出会わせてもらえたのはとてもありがたいことでした。音楽をきちんとやる気にもなりましたね。あまりに時間がない人生の何とやらである訳です。

適応行動論(T.H.)
進化心理学みたいな内容かと思いましたがむしろ進化生物学といった方が内容としては近しい。「人間も動物である」というテーゼは常に重要であるとは思います。あえて言おうとして言うわけでもありませんが、内容はそれなりに面白いのに期末試験が(おそらく授業を聞いていない人を排除するためか)瑣末なことばかりを問う内容であったので何とも残念でならないですね。出回っている過去問で対策すればそんなことは解るわけで、結局授業をそんなに聞いていなくても過去問対策が至上となってしまうならどうしようもない。何をするためにわざわざ東京まで来て大学に通っているのかということです。

身体運動・健康科学実習Ⅱ(忘れた)
色々とマイナースポーツをやってみようということらしい。より正確にはマイナースポーツというよりは少し変わったスポーツというところで、筋力や経験があまり重要にならないようなものが選ばれている印象がありました。それ自体は面白いと思いますが達成という感じはしないですね。あとあまり疲れませんね。体力が驚くほどなくなりましたね。もともとないのに。どうにかしなければならないとは思っています。思っているだけですが。

さてまあそんなわけで授業に関してはこんなところです。思ったよりこれだけでも疲れたのであとは生活についてとサークルについてだけ書くことにしようと思います。まあ大体それが全てなのではありますが。

生活
思いついたことを適当に書きます。まずもって朝起きるということが一人暮らしになると全然違った意味を持ちますね。自分だけでなく家全体を一人で起動しなければならないのであって、その意味で1限に間に合わせるということに関しても中高におけるそれとは全く違った様相を帯びます。そもそも通勤電車が嫌です。嫌です。2階をつけてほしい。そして少しでも混雑を緩和してほしい。自転車も自転車で疲れるし。その場合音楽も聞けなくなるし。しかしやはり一人暮らしは悪くないと思いますよ。大量に本を買い込んで来ても家で変な顔をされることもありませんし、家に人を呼びやすくなりますし、逆に人の家に行ったり途中でどこかに寄ったりということに関しても非常に自由になりますし。大学生になってからレイトショーに行くようになったのも一人暮らしであるという点が大きく関係しているでしょう。レイトショーのみならず小旅行にもよく行っていますね。個人的に行ったものだけでも大阪に3回、京都に1回、愛知に1回、東北に1回といったところで、お金がない。ちなみに3/23からまた大阪に行くのです。色々と面白いことはあるものです。しかし食事はなかなか難しいですね。一品料理くらいなら作る気になるのですが色々と何個も作ろうとすると面倒であるという気分が先行してしまってどうしようもない。したがってメインディッシュ以外の料理をする能力はあまり向上していない訳です。また料理本を買うなりしようかとも思っているところです。そう本。本を買い過ぎている。おそらくもうすぐ100冊を超えるのではないでしょうか。次に引っ越すときにはどんなことになるのかとやや不安にも思っていますがまあ別に良いかなとも思っています。広辞苑は2冊あります。実際のところ交通費・食費以外には本を買うくらいしかお金を使っていないのですが、むしろそれだけでかつかつなので結果として生活の形式としては正しいと言えるのかもしれません。家に遊びに来たい人や別にそこまで遊びに来たくない人は気軽に連絡をしてくれれば基本的に大丈夫ですよ。暮らしは寂しくなかったり楽しかったりした方が良い訳です。

サークル
クイズをしています。クイズをするということは真面目に取り組もうと思えば生活のかなり多くの時間を攫っていくので色々とやりたいことがある場合は注意が必要ですが、取り組むに値する行為だと思えるうちは大丈夫であろうと思ってやっています。なかなか思うところは色々とありますが、常に作り手であることができるということはクイズというフィールドの大きな強みであると考えますし、クイズをやっている人にはなかなか面白い人が多いのでそれもまた良いことでしょう。大学内で閉じない契機にもなりますね。もし大学に入ってクイズをやりたいと考えている人がいる場合声をかけてくれれば基本的なことは伝えられるので声をかけたければどうぞというところです。私もまだできることがあるとクイズに関しては感じています。

まあそんな感じの1年です。そうでもないです。とにかく来年度は始まる訳です。

主義-否定-詭弁

世界-内-存在みたいな。

明けましたね。2月ですね。明けましたねなんて言うのは2018年最初の更新だからなのですが、すでにもう1月が手元にないということでどうにもやり切れない状態にある訳です。

そんなことは基本的にどうでもいい訳です。言いたいことは言いたいことのような形で存在するので、それを適切に言葉の形にするのが言いたいことを述べる上で問題になる訳です。どうでもいいことなど何もないということを未だに信じつつどうでもいいという言葉は簡単に使える訳ですが、それは結局おそらくのところ、私が信じていたのは「どうでもいいことはどうでもいい」ではない、ということだからなのでしょう。

別にそういう話をしたかった訳ではないのでした。

つまり何が言いたいかというと、大学生というのは、否、自分に凝り固まった人間というのは、どうにも厄介な生き物だということだということです。初めにお断りしておきますが、もし自分のことを言われているような気がして不安になったりなんなりした場合は、その通りです。あなたのことです。あなたがそのようであることが実に下らないことだと私は考えています。そのことについてどうにかすべきだと考えています。そう思ってください。そうしてそれは決してあなたのことではあり得ません。私は誰のことも考えていないのですから。自分のことを言われているなどと決して思わないでください。どうか。

あなたがそのことをそう思っているから正しい、と、そうあなたは言っています。そうしてそれは正しくないと私が今言っています。具体的に述べましょう。あなたは何かをします。あなたでない何かはあなたのとは違う仕方で何かをします。あなたでない何かはあなたの仕方に首を捻っています。あなたは首を捻られています。あなたでない何かとは違う方法であなたは首を捻っています。それがそのように続きます。別に続く必要はない訳ですが、その方が面白いので首を捻ってください。別にそうしてほしいとかそういう訳ではありません。あなたは驚きます。驚いたあなたは、私がこのように何かをしていることはあなたには関係のあることではないのだし、私がするこれの仕方にあなたがどう思うかということは、あなたにとっての私の思いと同じくらい気にされるべきでないものです、と言います。そうしてあなたは別に何かの仕方や首の捻り方に対して何かを思っていた訳では全然ないのでした。でもあなたは、生きていることを否定されるのが理不尽なのとそれ、あなたの自然なやり方を否定されること、それは非常に似通ったものであるように思います。あなたの自然は私の自然ではないのだということに気が付いたように思います。そうしてあなたは自分を自然なものだとみなし、そうして主義を作ろうとする訳です。主義であるから否定されるべきものではないのだと、そう言うためにそれを主義とする訳です。

ここで最初に戻るのでした。あなたは、あなたがそう思っているから、そういう主義を抱えているから、それは正しいのだということを言っています。勿論、相手も同じくらい正しいことを––それはつまり、どちらもが全然正しくないということですが––を言っている場合の方がはるかに多い訳ですが、それでも問題はそのように現前する訳です。そうして、主義だから正しいというのは詭弁であるという訳です。人生の問題ではないものを人生の問題にしてしまうことが詭弁であるように、幸せになるのは良いことかと聞かれて私は幸せになどなりたくないと答えるように、それはそのような問題ではない訳です。それに気付いてほしい訳です。実際はどうでもいいのかも知れませんがしかし、ほしい、とは書く訳です。その程度です。

繰り返しますが、これはあなたの話であって、全然あなたの話ではないのでした、ということです。

終わりのあとについて

別に2017年は勝手に終わればいいと思うし止めたりはしないのですが、問題はむしろ2018年が始まることにあるのではないですかね。年というものの一回性が薄れるのは次の年も似たような顔をしているせいであって、終わることに対して感傷などを抱いていられるのは始まるものがあるかということに何となく期待しているからでしょう。

何が書きたいのかといえば、出来事が生起してしまえばそれはつまり終わりではないのかといえばそういう訳では全然なく、むしろ終わりのあとに出来事が次々と生起するにしてもそれが決して前の出来事のような顔をしていないということに気づくという形式が存在するのであって、それがつまり終わりのあとであり、だから終わりのあとは静謐ではないということでは別になくてですね、つまりそうした雑多な形式内において常に存在してもよいものは何かということでも同様にない訳です。

そうしたところで検討に付されるべきはむしろ終わりのあとと終わりではどちらが終わりなのかということになってくるのであって、全体にそういう風に星が降ってくれば終わりは良いように終わりになるということがまず前提とされます。では星が降ってきたとしてクレーターがやや良い感じだななどと考えながらクレーターの周りを歩いている訳ですが、不思議なことにはもはや二度と星が降ってくることはないでしょうということにクレーターを眺めながらでも意識を失いながらでもいいですがふと気づくことになる訳です。それが終わりであって終わりのあとの存在条件であり、寝て起きたあとにもう二度と寝ることはないのだと気づくようなことを経験することと、眠りにつくことを経験したかもしれないことと、そのようにして終わりは与えられるでしょう。一向に星が降るのがやまない世界で星を打ち返すために素振りをする人がいるのは終わりであり、それを眺めている方から終わりのあとが生起する訳です。

これ以上出会える人もいないのに寂しいのかどうかはよく解らないということに気づいても気づかなくても別にいいのですが、ともかくそういうことを言ってみて何となくそういう気分になるのは別に間違ってはいない訳です。ピンチに陥った時に助けに来てくれる何らかのデウス・エクス・マキナがあっさりと敵に粉砕されるのと、それともそんなものは来ないということに驚くほど気づいてしまうことと、どちらが終わりのあとでしょうか。

終わりのあとで生きていくのは別に全然簡単であり、シャープペンシルの芯をそのまま使って文字を書いている場合それはシャープペンシルでも芯でもないわけですがシャープペンシルの芯ではあるといったことと同程度には終わりというのはくだらないものになってくる訳です。幽体離脱をした上で寝ている自分を上から眺めたいという欲望をどのくらいの人が持っているのかをフェルミ推定するのが楽しいかもしれない訳です。

終わりのあとは終わりから始まるという言い方はある程度面白く、始まりのまえは始まりで終わるというのは全然面白くないです。共産主義になってしまったらこれ以上進化できなくてつまらないからもう少し資本主義のままでいようといってマルクスと楽しげに暮らすことが全然不可能であるように、終わりのあとは面白くないのに終わりはとても楽しいのでしょう。今が始まりのまえではないのだとどうしようもなく気づいてしまうということが終わりのあとであって、今が終わりのまえではないということに気づくことと似ているように思いたくなります。

ロストテクノロジーにもう二度と手を伸ばすことはできないのだと気づく訳です。

であるからしてもう少し雪が降った方がバランスが良いのではないかと思う訳ですが、しかしながらどうにも年は明ける訳です。

どうか来年も頑張って何らかの無をしてください。お疲れ様です。

京都に行ってきた

京都に行ってきたそうです。

11/17全体を期間とし、紅葉を観測するという至って観光客然とした目的のもとにおよそ3万円を消し去った訳ですが、とはいえその3万円は他に用途を考えることが不可能であったという前提を踏まえていただきたいところです。

旅程。

家→京都駅→東福寺清水寺南禅寺永観堂禅林寺丸善京都本店→京都駅→家。

①家は良い。

②京都駅は久し振りに行きましたが、天井が高く、ガラス張りのおかげで明るさもありといったことによって息苦しくないのがやはり良いですね。京都駅までの道中は辞書を読んでいました。

③今紅葉が見頃だと様々な情報源からお達しがあったので愚直ながら東福寺に行ってきました。近くでお葬式が営まれており、黒い服であったのでいやなかなか。紅葉は確かに見頃であり橋の上からの海のような紅葉が旅行の目的にとってあまりに適切でしたね。

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適切な紅葉。

④そういう経緯があり清水寺に向かったのでありまして、ちなみに申し添えておくと今回は京都駅→京都駅は全て徒歩です。どうしてかというと電車がよくわかんないからです。詳しい人がいたら順序立てて解説をしてください。そうして清水寺に至る訳ですが、実のところ京都に何度も来ていながら清水寺に行っていないことがなく、これはつまり自然人の人生におけるナポリないし日光にあたると考えられる訳です。理屈はいいから紅葉を見るんだ。

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 まあそういうことです。

舞台は工事中でしたし人は多いしお願いですから自撮りをしないで紅葉を見てください。さもなくば家で自撮りをしてください。以上です。

⑤旅程には迷う予定は含まれていなかったのですが、東山周辺をふらふらと歩いていたら旅程が攻撃されているのを感じましたので、結果的にはそういうことになりました。円山公園の有名な枝垂れ桜は葉も散って枯木となっておりちょっとした終末を感じさせる佇まいでした。写真はないです。ないですとありませんではないですの方がなさそうですよね。ないですねと言われるのとありませんねと言われるのではないですねと言われた方がないんですねとなりますね。寒いなと思いながら円山公園内で抹茶ソフトクリームを買って食べたのですが寒いですね。写真はないです。

南禅寺に関しては場所すら知らなかったのですが、意外と北の方にあって仮想の地図が壊れた感がありました。伏見あたりにあると思っていたところがあります。そんな訳で五山の上であるところの絶景かな×2なのですが、山門に登る上では靴を脱がなければならず、そろそろ足を休めたかったのでその意味では南禅寺を旅程に組み込むのは良いことかもしれません。

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行けば解りますが絶景です。

という話がありつつ良い庭があるそうなので見ました。

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良い庭の写真。

広いしゆっくり色々と見られるので南禅寺は旅程に入れるには良いところですね。靴も脱げますし。

⑦歩くこと数分、東山中高の生徒さん方が沢山おり、理解が及ばないうちに永観堂禅林寺に着きます。この永観堂とは何なのかといえば永観という名の僧侶に由来する通称らしいですね。永観が歩いて回りながら修行をしていたところ阿弥陀仏が先導してくれたそうで、驚いた永観が立ち止まると阿弥陀が振り返って「永観遅し!」と言ったとかで、急にそんなことを言われたり前を先導されても困る訳ですが、ともあれこの逸話に基づく見返り阿弥陀像が有名らしいです。見てはいません。

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こちらを見ていました。

目的に合致しています。ここもかなり赤が鮮やかな景色だったのですが、やはり東福寺が一番良い紅葉でした。見頃の力。

⑧昼食のために丸善京都本店へ向かうというのはいささか奇妙なことではあるものの、檸檬ケーキがあるなら行かなければ行けないところでありました。

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そして行きました。2回目。

早矢仕ライスまで食べてしまっていやはやというところ。朝からウイダーと抹茶アイスしか摂取していなかったのだし許してほしい。3万歩歩いたし。そうして本を買う訳です。本屋に行くとはかくも罪深いことなのです。

⑨帰宅を試みに京都駅を出立するのですが、帰りの新幹線は意識を喪失しました。サークル活動に勤しむところまでで旅行の内容です。

⑩家は良い。

まあそんなところです。

自己愛あるいは受動という形式について

注意1: この文章は一般論ないし私の個人的な(つまり、他者から独立した)内面を述べたものであり、特定あるいは不特定の誰かに対して述べるものでもなければ特定あるいは不特定の何かへの糾弾でもありません。

注意2: この文章には頻繁に「愛」という単語が登場しますが都合上仕方がないので、見ていてつらい人はアイルランドのことだと思ってください。

性的指向というものが問題にされることがある。あるいはより一般的に、精神的および物質的リソースを振り向ける対象とそうでない対象の弁別および量化のための基準というものが問題にされることがある。そのような話がされるときに、では自分がどのように指向されたいか、ということが問題にならないのはそれが一致して然るべきという暗黙の前提が存在して、そうしてそのようでない形式は実現に困難があると思われている場合があるからであるとは考えられる。ここで、便宜的にそのように指向することを「愛する」といい、そのように指向されることを「愛される」という。ここで問題にしたいのは「愛される」の方である。

「愛し」たいか、ということと「愛され」たいかという問いは区別してなされるべきであり、もちろん「愛され」たいと思う人を「愛し」たいと思う人がいることも事実であり、逆もまた然りである。ただ、「愛し」たくはない(あるいは、その気がない、できない)が、「愛され」たくはあるという類型はそれなりにしばしば存在が認められるものであり、つまりそれは何をも「愛し」たくない場合もあろうけれども、別に「愛する」対象が自分であってはならない訳ではないのであり、そのように整合させることも考えられることではあるだろう。あるいは、「愛する」という形式が「愛される」ということへの方法論である場合もあるだろうし、さらには自分を「愛し」たいという目的意識と、ただその行為者が自分ではあっては欲しくないという状況、その帰結としての他人に「愛され」たいという感情のような展開をすることもあるだろうし、それはつまりどのように「愛され」たいのかという話に包摂されるべき問題ではあるだろう。

社会的には、そうした形式が存在するということが問題である訳ではなく、むしろそうした形式をどのように掬い上げることが可能なのかという問題が生まれるのであろうが、そのこと自体は私にとっては関知することではないのであり、というのも、私が私に内在する「愛すること」と「愛される」ことの形式を整理することが他人にとっては全くどうでもいいと感じられて当然だからである。

つまりこれは私の話である。まずもって、他人を「愛する」ことを否定するという前提は他人に「愛される」ことをも否定しているのかどうかということが問題になり、それはつまり、前提部分をテーゼとして置いた際に後半部分について検討を付していなかったということである。さらに問題になるのは、他人を「愛さ」ないということと、自分を「愛する」ということ、あるいは自分が「愛される」ということのすべてに対する態度として整合した説明が付けられるかという点である。率直に言えば、結局のところ他人に「愛され」たいということを求めることが(少なくとも私にとっては)自己「愛」のヴァリアントとさしたる違いがないのではないかということがある。それなら他人を「愛し」た方が良いのかという話はされるだろうし、セネカが「Si vis amari, ama」と述べていることは事実である。しかし他人におけるその結合しない形式に対しても理解することができること、さらに自己を「愛する」ことと自己に「愛される」ことの自足性を考えるかどうかということが導入され、自分がただの目と手であるかどうかという意味では全然そうではないのである。

したがって、「愛」は結局無償ではありえないのであった。

何かを始めるということと何かを終えるということが全然関係ないように、何かについて考えることと何かについて考えないことには全く関係がなく、そのようにしてではどう生きるかということを思案するということなのである。