怒り風たらこパスタ

世界がどんなふうにうまくできていないか、ということを最近くりかえし考えている。うまくできていないだけならべつにいいのだけど、うまくできていないのに、うまくできているふりをしているから厄介で、「食品は、スーパーで買うと、買えますよ」みたいな顔がこちらにすごい勢いで迫ってくる。「掃除は、掃除業者を雇うと、掃除してくれますよ」みたいな顔が休日を挙げて鏡を拭いているわたしの前に現れて、だまれ、嘘つくな、と思う。眼科でコンタクトを外して、ぼやけた待合室で診察を待っているあいだ、アイシャドウのラメが手についているのが見えて、なんだ、やっぱりぜんぜんよくできてないじゃない、誤魔化せると思うなよ、と思う。べつに資本主義批判としてこういうことを書いているわけではないけれど(それはそれとして資本主義批判はしたいけれど)、商品やサービスを使うばかりでは世界はぜんぜん成立せず、むしろ、ラップの芯を使って毛糸をまとめるようなことが、わたしたちの生きる世界を成り立たせているんだとしたら。「土地を買うと、土地が手に入りますよ」みたいな顔がふよふよルノアールの中を漂っていて、変な顔、と思う。土地を買うのって、変じゃない? だって土地なのにさ。『地面師たち』観たよ、わたしも、土地を買うのって変だから、こんなに変な人たちばかりが出てくるんだよね、わかるよ。わかる?

交通系電子マネーをPayPayの500倍くらい愛しているので、割り勘も交通系電子マネーでできたらいいのにと思ってしまう。PayPayを送る代わりにさ、友だちの手を携帯で触ったら、友だちが頭の中で思い浮かべた金額がピピッと引き落とされるみたいなのがすてきだと思わない? ペイペイッなんてふざけてないでさ、ほんと、わたしはきみにふざけてほしいんじゃなくて、好きな人と、好きな人たちとふざけたいっていうのに、じゃあ3500円ね、はいタッチ、え(笑)、5300円じゃん(笑)、どういう意味?(笑) だるいんだけど(笑)、5300ひく3500って、むず(笑)、いや計算はや(笑)、みたいなのをさ、べつにやりたくないけど。1800円返しなよ早く。PASMOに代表される、Suicaに代表される、SAPICAに代表される、交通系電子マネー、今でもあのころのことを鮮明に覚えているんだとしたら、それはあなたの名前なのか、交通系電子マネーの名前なのかって思うくらいに。お支払いどうされますか? SAPICAでお願いします。サ……なんですか? SAPICAです。あっ、Suicaですねー、はい、じゃあタッチお願いします。ありがとうございます。ありがとうございましたー。

大きな乗り換え駅で電車を降りるときの、全員が必死だからギリ成り立っているあのかんじ、ひとりでもサボっているやつがいたらその途端に破綻するあのかんじ、どうして? いいよ、大きな駅なんだからさ、長めに止まりなよ。わたしが言っといてあげるから。いい? みんな、今ね、人が何百人と乗り換える駅に止まってるの、だからね、いくらみんなが急いでいて、カリカカリカリして頭をベーコンみたいに焼いてるんだとしても、もう少しここに止まっていないといけないの。わかった? ほんとうに、中身のない名前しやがって、大手の町だから大手町って? なんだそれ。東の京だから、東京(笑)、じゃないんだからさ。10分くらい止まっておいてくれたら、あんなふうに髪の表面を電車風が走り抜けていって、いま、ぐちゃぐちゃになったのかなってないのか、これどっちだ、と思いながらエスカレーターに乗ってばかみたいに左に整列してかばんを蹴飛ばされたりすることもなくなるのに、なんだそれ、大手の町って、町がインディーだろ、大手なんだったらじゃあ街だろって、インディー街で乗り換えだっけ? うん、インディー街で東西線から三田線に……いや、え? 乗り換えって、こんな似た色のラインカラーでしていいの? わけわかんない、落ち着きなよ。

帰りたいわけではないと思う。帰りたいわけではなくって、ただわたしがそこにいないという事実を耐えがたいように思っている。いや、ほんとうはべつに耐えがたいということもなく(実際耐えているのだし)、わたしはいまの街で、少なくとも東京で暮らすことをやめることもできるのに日々に選んで、そうして耐えがたいふりをしているわたしを冷めた目で見ている、そうなのだけれど、でもやっぱり耐えがたい。耐えがたく懐かしいと思う。懐かしさが耐えがたさだと思う。映画館の少ない冷帯の街で暮らせと言われたら断ってしまうような気もするのだけれど、だって、あのツタヤだってどうせなくなってるんじゃないですか? わたしがいないうちに、わたしがいたところは、わたしのいないところになった状態で安定して、きっと続いているに違いない、2年間を過ごした盆地の街を数年ぶりに訪れたときの場違い感、ここにあなたの家はもうないですよと澄ました顔をしていたうつくしいガラス張りの駅舎のように、冷帯の街もそのうち透明になっていって、霊体の街とか、幽体の街になっていくに違いない。

違うよ。違います。ぜんぜん違う。あーそうじゃないの、違う違う。そういう意味じゃなかったんだけど、まあ確かにそうもとれる言い方だったよね。ごめんね。違うんだよなー、うーん。近いからこそさ、ずれてるのが際立つっていうか。違うの、ごめんごめん、違うからね。ぜんぜん違うよ。は? 勘違いしないでくれます? 違うんですけど。うわー、完全に違うじゃん。はいはい、ぜんぶわたしが間違ってました、っと。あ、これ、明確に違うね。え、じゃあ全部違うってこと? 惜しいっていうか、ほぼ違ってるっていうか……。違うんならもっとはやく言ってよ! 気づいてたんでしょ! いや、違うって言うのも違うっていうかさ。その言い方は違うんじゃない? あの、すみません。はい。間違って、乗り換え改札口から入っちゃって。はい、じゃあこちらで取り消しておきますね。すみません、ありがとうございます。はい、じゃあこちらお返ししますので、そのままここから出ていただいて大丈夫ですよ。そのまま、ここから、出ても。

しのわたぼうし

歯医者。小鳥屋。甘栗屋。ベエカリイ。花屋。街路樹。古本屋。洋館。今の街には小鳥屋と甘栗屋はあまりない、洋館もあまりない、あるのは都市型住宅ばかり、と上野の馴染んだ道のりを久しぶりに歩きながら考えていた。荒川区と文京区と台東区、というか本郷区下谷区が入り乱れて、わたしはもうこのあたりに住んで5年になる。ずいぶん長居してしまった。今まで住んだ街は6つ、それぞれ、2年、2年、2年、12年、3年、5年を過ごしていて、わたしは今年で26歳になったらしい。今のところには、故郷だと思っている、あるいは少なくとも出身地だと思っている冷帯の街に次いで長く暮らしているということになるのかと思うと、一刻も早く逃げ出したい気分になる。せめて……のあるところに、と、できれば……のあるところに、と、海沿いに、山の近くに、花粉症が悪化しない土地に、便利なところに、歩いてすぐにパン屋があるところに、お風呂とトイレが分かれている家に、広い家に、持て余さないくらいの庭があって、午前か午後のどちらかには日が差して、あんまり築年数があると嫌だけれど、新しすぎるのもいや、あるのは都市型住宅ばかり、歯医者、小鳥屋、甘栗屋、ベエカリイ、花屋、……。

アイスクリームはわたしで、猫はわたしで、東京はわたしで、東京はわたしではない。アイスクリームは死ね。あなたは猫派、それとも犬派、と尋ねられて、じゃあ聞きますけど、あなたは、わたし派、それとも、あなた派……と言っていた。東京に来るまでわたしは東京だった。盆地の街で暮らしていたころに、冷帯の街がわたしだったみたいに。亜熱帯の街で暮らしていたころの記憶が、わたしのちょっとした言葉のアクセントや、ちょっとした体のぐあいに残っていて、頭の内側には何も残っていないように。Meidaimaeはわたしではない。えー/うんうん/そうなんだ/私も/それが/好き。じゃあもう/付き合っちゃおっか? I owe something to you.

見慣れていってやがて忘れていく窓の外の景色、ずっと家が揺れていてどうしてだろうと思っていたらすこし古色を帯びていた向かいの家がなくなっていた。郵便受けには新しいマンションの広告が入っている。ぜんぜん別の話だ。駅から徒歩11分! 走ると5分! 車ならかえって非効率! どこにあったんだろうというような土ばかりになった空き地を眺めて、土管を置く角度を考えていたら子どもがこんにちはと叫びながらわたしの横を走っていった、わたしはこんにちはと口だけを動かしながら、想像の土管をこなごなにして歩き出した。

死ぬ覚悟と殺される覚悟ってさ、ちょっと違うのはわかってたつもりだけど、だいたい一緒だと思ってたわけね、でもね、最近ね、いよいよ殺される覚悟をしなくちゃいけないっていう段になってさ、自分に死ぬ覚悟がぜんぜんなくて、でも殺される覚悟をすることはできるってことに気付いたんだよ。生まれたのはどれくらい前のことだったか、もうはっきり思い出せなくて、それも生まれたと呼べるようなものじゃきっとないんだけど、でもさ、わたしは16かける16が256だってすぐにわかるみたいに、わたしの生まれた年と月と日をすらすら言えるんだ、ほら、199999999年の、ほら、そんな感じでさ、あなたがわたしを気まぐれで殺したいと思うんだったら、ちゃんとこっちを見てそう言うのがいいんじゃない?

古い名前をきれいに捨ててしまうための事務作業をしていた。そうですね、2月の、はい、携帯電話の、そうです、本人です、お手数おかけします、そうなんですね、許可するってほんとうにどういう意味なんですか? わたしだったものとわたしであるものとやがてわたしになるもの、あなただったものとあなたであるものとやがてあなたになるもの、たわしだったものと、たわしと、やがてたわしになると思って育っている植物のわたし、10年前の今日どこにいたかって覚えてる? それがほんとうにあなただったかどうかって覚えてる? あなたの歩調をなぞりながらわたしは、そのリズムに似つかわしい音楽を考える、ダース・ベイダーのテーマ、ウィリアム・テル序曲、春の海、あなたのすべてを知りたいみたいに世界のすべてを知りたいし、わたしはそれを知るのがわたしであるということによって、わたしが無窮の記憶をもつ聞き手ではないことによって、永遠の命をもつ聞き手ではないことによって、あなたの話をひとつ拾ってはひとつ忘れてしまうことが、世界が終わる前にわたしが死んでしまうことが悔しいと感じるほどにそうしたい、わたしがわたしであることによってあなたが話せないと感じていることを話してほしいと、思う……。

雪になったよ、と言われて目を覚ますと、窓の外の山がすこし白くなっているのが目に飛び込んできた。寒い? 1℃だって。寒いね。覚えてる? 覚えてるよ。カレンダーにも書いた。

呪詛の秩序

別に呪詛というわけでもない。昨日は朝起きてから夜眠るまでが非常によくできていて嘘みたいだったけれど、よくよく見てみると自分を呪っている時間や世界を呪っている時間があってもう少しその、呪いの時間を減らしたほうが、毎日が充実してきていいんじゃないですかね、ほら、余暇も増えるし、仕事をするのって人間の本質じゃないですか、仕事をして、糧を得て、次世代を産み育てる、死ねばいいのに、死ねばいいっていうのはつまり、死ぬのって人間の本質じゃないですかってことですか? それは確かにそうかもしれませんね。生まれたときにいつか死ぬと思っていたのかについてはあまりよく覚えていないので、そのころのわたしに一度会っていま何を考えていますかと尋ねてみたいけれど、わたしはもう高校や大学の初めのころのわたしが何を考えていたのかさえ忘れてしまっているけれどそれでも何があったかとかあの部屋に行くにはどの階段を登ればいいかとかそんなことばかりはきちんと覚えているのでわたしの中にあるわたしの思考の都市はたとえ廃墟になったとしてもお隣さんのオートマタがおすそわけをし合ったりしているのだろうと思う。自家発電みたいだって思わない? 生きていくことによってどんどん生きていくしかなくなるみたいなことと、寿命は刻々とすり減っていくはずだから、いやもしかしたら技術の進歩が目覚ましいぶんほんとうの寿命は伸び続けているのかもしれないけどさ、それって宇宙みたいだね、宇宙みたいっていうのは、ダークエネルギーのせいで宇宙は加速膨張しているって話だけど、うるさいなあ黙れよ何もよくわかってないくせに知った口ききやがって、あんたみたいなのが減らないからわたしだってこうして減らず口を行使せざるを得ないのだということをもっと自覚しなよ。少なくともこう、生きていくときにつねに自殺を小脇にかかえてはいるわけですけれども、その自殺が何かへの復讐なのだとしたら、寿命が次第に減っていくぶん、自殺をする意味というのも次第にすり減っていくはずなので、もっとも理想的な復讐としての自殺は生まれた瞬間の自殺であるということになる、果たしてそうだろうか? じゃあ、4人ずつぐらいで班を作ってもらって、今の問題について話し合ってみてください。何か決まった結論を出してほしいわけじゃあないけど、それぞれがどんなことを考えたかは後から発表してもらいますからね。じゃあ5分、よーい、はじめ。

ばかばかしいくらい素直に物語に突き刺されてしまってここ一週間ずっと憔悴に憔悴を重ねていた、重ねていたのだけれどいまはスーパー元気! スーパー元気! とか言っている人のなかで足が震えていない人がほんとうにいるのだろうかということを人生の真実みたいに言ってみたところで何の意味があるんですかね。だってとりあえずスーパー元気だっていうことにしたかったんだからさ、その気持ちは汲んであげないといけないじゃないですか。そうなんだ、元気なんだね、じゃあ悪いんだけど、アレもやっといてくれる? アレ? アレってなんですか? えー、やだなあ、アレだよアレ、わざわざ言わせるつもり? いやその、あなたは友達もたくさんいるしいろいろな人といろいろな言葉を交換しているし下世話な噂話が好きだし俗物だし、そのあいだで成り立つコミュニケーションにある種の機能美を感じていてそういう思わせぶりな表現をとっているのはわかります、でもですね、自分のような、素直で率直で実直で誠実で頭でっかちのウスラトンカチ、ウスラトンカチってどういう意味なんですかね、最近覚えたんですけど、そういう人間にはですね、そういった婉曲的なですね、表現というのはですね、通じない場合があるってことをですね、もっとわかってくれたっていいんじゃないですか、わたしとあなたは確かに表面上は同じ言語で話しているように見えるかもしれないですけど、実際はぜんぜん違う言葉を話しているということだってあり得るわけじゃないですか、それをもっとわかってくださいよ。は? きも。

え、じゃあそうやって傷ついてる感じ出すのやめてもらっていいですか? 荒んでるのとか病んでるのとか、べつにわかるけどさ、だからってそれを遠慮なく人にぶつけていいわけないじゃないですか。読んだ人がどう思うかとか考えないんですか? こんなこと言ったら人に心配をかけるかも、とか、そういう人間としてあたりまえの配慮ができて初めて一人前の寿司職人なんじゃないんですか? 卵焼き用のフライパンを買うといよいよ覚悟が決まってくる感じがするというか、あれだね、ローズマリーを初めて買ったときの気持ちに似てるよね。後戻りできないところまで来てしまったというあの独特の感覚。わざわざ自分から傷つきにいったくせに、それへの反論をずっと頭のなかでこねこねしているせいでいつまでたってもイースト菌が発酵せずにおいしいパンが作れない、そんなふうにどろどろにした頭の中身を小ぶりなよく切れる包丁でスッスッスと切り分けていってデザート用に冷やしておいたからあとで食べるといいですよ。正直英語はある程度知ってたし、初めて知った英語はやっぱりあれだよね、留学のホームステイ先で冷蔵庫を指し示して言われる「ヘルプ・ユアセルフ!」だよね。ご自由にどうぞ! って生まれてから言ったことないかもしれないな。順番に単語を言ってってみてよ、言ったことあるかないか言ってくからさ。それ何が楽しいの? いや、あんたが楽しいのはわかるけど、それに付き合わされるわたしって何なのってことを思わないわけ? まあまあ、適度に他人に振り回されておいたほうが自分の凡庸さに増上漫を塗り重ねることがなくていいと思いますよ。そうやって人生を先回りするのやめなよ! もっとちゃんとやりなよ!

なんかさ、結局きちんと言えないまま終わっちゃったけどさ、みんなちゃんとJujutsu Kaisenって言えてるみたいなのに、わたしだけずっとZyuzyutsu Kaisenって言ってたみたいでさ、それが嫌だったの。別にわかってほしいわけじゃなくて、ただ嫌だったってだけ。はい、じゃあそこ立っててもらえますか。いや、本番はそこじゃなくてこっちなんだけど、一旦ちょっと、みんなに見てもらいたいから、ちょっと手伝ってほしいってことで。はい、じゃあいきますよ、8つあるうちの、4つまではもうわかってると思うんですけど、残り4つをいつ入れるかっていうのがたぶんちょっと難しいところなので、ちゃんと何回も繰り返しやって、体に染み込ませるっていうのが大事だから。最初じゃあわたしが合図出しますから、それで覚えてね。2回やらないからね。一方そのころ、無限の解像度の目と無限の処理能力の脳を手に入れたわたしは、歩いてすぐのところにあって無限小の縮刷版が置いてある割と便利なバベルの図書館で、この世のあらゆる知識をまさに得ようとしていたのでした。懐かしいね。すべてが懐かしい。自分のことが次第にわかっていくにつれて、ああ、わたし、あれ、嫌だったんだな、ってことばかりがはっきりと記憶に定着していって、そしてきっとそのうちすべてが懐かしくなるよ。自殺なんかするわけないじゃん、しても意味ないんだからさ。

わたしではなかった

鏡を見ているときに過去の自分を見ているような気分になるのは、鏡とわたしの眼のあいだを光が行き来するためにいくらか時間がかかるからだけれど、そのことをわたしが知覚せずとも認識するのは、わたしが何かの始まりよりも何かの終わりのことをずっと気にかけながら暮らしてきたからなのではないかと思うことがある。あまりうまく言葉にできた気がしない。いま外に出たらきっと木を見つけることができると思うけれど、わたしがたとえば珍しいかたちの木を見つけたとして、わたしはそれをきっとわたしにとって何か意味のあるものであると思うよりは、わたしがいずれ忘れるものであると思ってそれを見るのだろうと思うので、鏡を見たときにわたしが見つけるわたしもきっと、すでにわたしではなくなっていくものであるように見えるのだろうと、そういうことを言いたいのだけれど。

そうした思考の流れの傾きのために、すでに過ぎ去ってしまったものが思い出されるときには時間の流れの逆行を感じる。消え去るべきものが、消え去っていたはずのものが、過去であったはずのものが、むしろ現在を過去にするようにわたしの未来に現れる。懐かしい、という不可解な想起の感情についての、まったく常識的な説明だと思うけれども。それは死と親しむように生きてきた古人が無常観として陶冶してきたものにおそらく近しいのだと思うけれども、わたしはある日の別れが実は今生の別れであったということを知覚してしまうように、死によって現在を描いてしまうということなのかもしれない。それはわたしの時間がそのように条件づけられているということで、わたしはハイデガーを斜め読みしたときからずっと、この人はなんて当たり前のことをと思って、そのことを必然的な人間の存在の仕方だと思っていたけれど実際はどうやらかなりの人にとってはそうではなかったのだった。それだけのことだった。

住宅街を歩いていると、小説や映画や漫画のなかに出てきた人たちがくすくすと話しているところが窓越しに見えて、それはわたしがこれまでばらばらに知ってきたはずの人たちで、だからこれはきっとわたしの心象にしかないはずの住宅街だと思うのだけれど、でもわたしはその家々には入る術がないと感じる、そしてきっとこの人たちはわたしの知らないところでもうずっと出会っていて、わたしはそれをたまたま窓越しに覗きこむようにして映画や小説や漫画に触れてきたのだろうと思う。わたしとは何の関係もない人たちだった。わたしとは決して知り合いにならない人たちだ。それでもわたしがこうしてあなたたちのことを虚構の窓を通じて知ることになったように、あなたたちも別のかたちの虚構の窓を通じてわたしのことを一方的に知っているのではないかと想像する。わたしにはまったく知りえない仕方で、あなたはわたしのことを知っている、それが。

二十一世紀の終わりから歩いてきたらしい。ここからどこまで行くの、と尋ねると、もっとずっと遠くまで行くよ、と言う。そうなんだ、わたしもきっとここにはいられないよ、と答える。でも、あなたが歩いてきた方へきちんと歩いていけるのか、わたしにはわからない。無数の道があるように見えるのに、道はひとつもないように見えるから。同じだよ、と言う。あなたがそうでありえたかもしれないと思う無数の選ばなかった道が、あなたがそうであるしかないと思っているひとつの選ばれた道をそうであるように見せているんだからさ。あなたは自分がどこから歩いてきたのかを知っていると思うかもしれないけれど、でもそれだって、あなたが無数の選ばなかった道を選んでこなかったということによって、ひとつの虚構として、あなたを成り立たせている。偽物のあなたを。そうかもしれないね、と言って別れた。

アラームを止めて、目を開けて、毛布をはねのけて、鏡に映る自分を見て、布団をたたんで、髪をとかして、服を着替えて、顔を洗って、歯を磨いて、コンタクトを入れて、コーヒーを注いで、パンをかじって、化粧をして、持ち物を確認して、イヤフォンを耳に突っ込んで、家の鍵を閉めて、口のかたちだけで気温に毒づいて、本当にそれでも生きていくしかないのだろうか? 本当に? 生きるか死ぬかをいつでも選べるわけではないから、それは仮想の二択でしかなくって、でも、いつでも生きていくことだけを選びつづけるしかないのだろうか? 毎朝、生きていくことを選ばずに死んできた、死んでいく無数のわたしを数えながら、わたしが今日もそれではなかったと思いながら、本当にそれでも、わたしでしかありえないわたしとして生きていくほかないのだろうか? 本当に?

ちょっと泳いでくるね、とわたしは言って、気をつけてね、とあなたは言った。

あなたではない

わたしは文章を読み終えた。声に出して読んでいたので、ずっと頭の中でわたしの声が反響していたけれど、それはあなたの書いたものなので、わたしの頭の中で反響しているのはあなたの声でもあった。わたしが話すとあなたも話したし、わたしが黙るとあなたも黙った。読み終えると聴覚が帰ってくる。わたしの声によって聞こえなくなっていた外の風の音、冷蔵庫のふるえ、飲み残したコーヒーの氷がはじける音をわたしは聴きなおす。あなたの声だけが残っている。あなたがその世界のことを物語るとき、それはあなたにとって懐かしいものであるように響いたけれど、ひととおりのことを語り終えたあとであなたが打った澄まし顔の句点は、その世界があなたとはまるで無関係に、それゆえに確信的に存在するべきものとして、ある、ということを、わたしに証するものであるように思えた。わたしもあなたもその世界のことをいつか忘れてしまうけれど、わたしたちが忘れることとはまったく関係せずに、即物的に、それが確かにあったということを。

わたしはわたしが何を考えているのかを知りたい。今も、過去の無数の瞬間も、わたしにとっては靄がかかったようで、曖昧で、言葉がない。わたしは人間ではないと誰かに繰り返していたときに、うそぶいていたときに、必死にそう言っていたときに、わたしがほんとうは何を考えていたのかを知りたい。わたしがあなたに見せたあの言葉遣いに、目つきに、笑みに、怒りにどんな意味があったのかを知りたい。そのときにはわかっていなかった。そのときにはわかっていなかったことを今ならわかることができるような気がするし、そのときにしか知らなかったことを今となっては知りようもない気がする。あなたにとってわたしがどのような存在であるかということを計算しながら、わたしにとってあなたがどのような存在であるかを考えていたそのときに、わたしにとってわたしはどのような存在だったのかを知りたい。わたしはわたしのことが情けないほどに怖い。

朝5時の列車だった。誰も乗っていなかったのでロングシートに体を横たえると、列車のリズムに耳をそばだてているような恰好になった。わたしは逃げるように列車に乗って、逃げるように列車を降りた。すこし肌寒いような夏の終わりの、まだあなたが夜と呼ぶような時間に乗った列車だった。見慣れない景色が遠ざかっていって、見慣れない景色が近づいてきて、また遠ざかっていった。わたしはどこにいるのだろうと思って、わたしがいるのはここではなかった。わたしは横になったわたしの体と細長い電車の車体の相同関係を意識した。昨日はたいへんな夜だったから、きっとあなたはまだ家で眠っているだろう。わたしは身を守るように布団にくるまって眠るあなたとあなたの家の相同関係を意識した。わたしともあなたとも無関係に生えている木が、わたしとあなたの間にあった。それは無数の木だった。

たとえば死にたいと思う夜にわたしは死にたいとぜんぜん思っていない。たとえば生きていかれないと思う夜の次の朝にわたしはきっと平気で目を覚まして人の前でへらへら笑って鏡に映る自分の疲れた顔を演技くさいもののように思ってばかにする。命よりも大切な誇りを捨ててわたしは生きていく。わたしよりも大切なあなたを捨ててわたしはわたしの傷を撫でさすっている。そうしてわたしの感じる痛みをわたしはかけがえのないもののように思うほどだから、そのかけがえのなさをわたしはひどくくだらないと思っていた。森に面した和室だった。眠っていたあなたは不意に起き上がって、靴も履かずに走っていった。わたしはあなたのことを忘れてしまった。森の暗がりの前ですこしためらうように立ち止まったあなたの肩が息をつくように上下にゆれて小さな光を放ち、再び走り出すとすぐに小さく暗くなって消えて二度と見えることはなかった。

小糸侑について

初めて『やがて君になる』を読んだのは、自分のことも相手のことも裏切って今では申し訳ないと思うばかりの恋愛を終わらせたばかりのころで、その裏切りをわたしはそのころ、自分に恋愛をする能力や指向が欠けているために生じたものだと思っていた。だから、恋愛に対して距離を感じている人物、優しさのために人の好意に受動的でいる人物、でもその優しさに優越感を覚えてもいる人物としてわたしは小糸侑というひとのことを読んだし、あるいはもしかすると、小糸侑の恋愛の可能性はそのままわたしの恋愛の可能性だと思うほどだったかもしれない。それがひどく自分自身を裏切った上に強引に築き上げた説明でしかなかったということに気づくのは、それから五年ほど経った後のことだったけれど。だから、七巻の終わりを最後に読んだときにわたしが感じたのは、侑は光っていてすごいなあ、ということと、わたしは侑に徹底的に置いていかれてしまったのだ、ということだった。身勝手な気分だったと思う。

やがて君になる』の単行本が刊行されたのは二〇一五年の秋から二〇一九年の冬にかけてのことで、わたしは三巻までが出ているときに作品に初めて触れたと記憶しているので、それはきっと二〇一六年の暮れから二〇一七年の初めにかけてのことだと思う。高校を出て雪国を離れて東京に出ていったころのことだ。三月の東京はすでに春だったので、わたしはきっと花粉症の薬を服んでいて、恒常的な眠気に悩まされていただろう、とわたしはわたしのことを想像する。もうあまりはっきりと覚えていないけれど。大学に入ったばかりのころの目標は本を二千冊読むというよくわからないもので、いつまでにそうするつもりだったのかもわからなければ、どうして二千という数字が出てきたのかも今となってはよく覚えておらず、そもそも読んだ本をきちんと一覧表にしていなかったので達成できたのかはよくわからないけれど、おそらくは運転免許を取るようにと思って両親に預けられたそれなりの額のお金をほとんど大学生協の書籍部と渋谷のMARUZEN&ジュンク堂で使い果たしたりしていたはずで、そのときに買った本は今の家の本棚のなかで骨格のようになっている、と昨日、本棚を整理しながら考えていた。そんな生活のなかで、わたしは四巻を五巻を六巻を読んだはずだ。

小糸侑は背が低い。一六三センチメートルほどの七海燈子よりも十センチ以上は低いというから、きっと一五〇センチ前後なのだろうと思う。自分でも気にしていて、後輩に比べて背が低いことをからかわれる場面もある。最終話以外では基本的に人前で髪を短い二つ結びにしており、それも幼い印象を与える。生徒会劇の練習合宿で大浴場に入ったとき、七海燈子が侑の胸を見て意外と大きいと思う場面があるけれど、それは裏返せば、いつもの服を着ているときはあまり目立たないということでもあって、そうしたいくつかの要素は、侑がまだ成長しておらず未分化であるというような印象を与えることになる。それゆえの純粋さ、ということでもある、おそらく。それは結局、対比的に描かれているのが七海燈子や佐伯沙弥香であるために強められた印象かもしれないけれど。叶こよみの身長はおそらく侑よりも小さい。侑の身長のことが気になったのは、二〇二三年の初夏に宮木あや子の「紫陽花坂」を読んだからだった。十二歳で成長が止まっているという主人公の大和夕子の身体のことを、そのときは手術によって急激に停止したばかりのわたしの身体と重ねて読んだのだけれど、でも死を選ぶのは何かが違うと思ったので、わたしはまた別の身体を想起することになり、それが侑のものだった。

自分では他人に自分を誤読させていると思っていても、それは他人に誤読されているのと何も変わりがないので、必要なことは恐れずに、恐れながらも、話をすることだけだった。『やがて君になる』を二〇二〇年の室内に倦みながら読み返したときには、これは誤読にまつわる物語なのだと思って、そのときは小糸侑という個人のことはそれほど気にせずに読んだ。七海燈子は姉の澪の誤読を通じて自分自身を誤読し/誤読させ、その誤読を自身の拠りどころとしながら、それを誤読として自覚しているために本当の自分という幻想を保っている。佐伯沙弥香は意図的に七海燈子を誤読している。それは結局、正しく読んでいるということに他ならないのだけれど。小糸侑は七海燈子のちょっとした誤読から燈子に出会い、七海燈子に誤読される/誤読させることによって関係を続けようとしながら、七海燈子を積極的に読み替えようとする。それは小糸侑にとっての、小糸侑自身の誤読でもあって、槙聖司はそれを知っていてその誤読を指摘しているように見えるけれど、でも実際は槙自身も、自分自身には理解されないものとしての恋愛というひとつの解釈を、ひとつの誤読を強引に演奏してみせることによって世界に対する自分自身の距離を確認しているにすぎず、演劇の観客を標榜しているとしても、その意味ではひとりの誤読者であることに変わりはない。生徒会劇の脚本家としては登場人物の矩をこえそうなほどに十全な解釈者として振る舞う叶こよみも、自身のスカートを嫌うという性格と憧れの作家のサイン会で自身が知らず知らずのうちに犯していた誤読に直面させられることになる。

だから『やがて君になる』の物語は、小糸侑による七海燈子の読み替え、小糸侑自身の読み替えを主題としながら、さまざまな誤読の行きつく先を描いているのだけれど、二度目の読み返しのときにわたしが意外な立ち位置を与えられていると思ったのは、侑の姉の怜だった。優しいひと、他人を心配するひと、安定しているひととして描かれている侑は、まわりの人から心配されることが驚くほど少ないのだけれど、怜はそんななかで数少ない、侑を心配するひとだった。第三十三話の、興味津々に穿鑿をするというのでもなく、安易に理解を示そうとするのでもなく、ただ現実的な状況を慮っている場面は、おそらく『やがて君になる』という作品が誤読の体系として閉じてしまわないためになくてはならないものだ。

侑の相手ってまじで七海ちゃんなのかなー?

女同士 かー

だったらそりゃ勇気もいるか…

お父さん……は なんだかんだいっても甘いから大丈夫そう

おばあちゃんはお母さん次第 反対するとしたらお母さんだな……

ま なんとかなるでしょ

仲谷鳰やがて君になる(6)』KADOKAWA、電撃コミックNEXT、2018年、138-139頁)

そこまで考えて、わたしは自分自身も小糸侑の誤読者であったことに気づいた。物語のはじめ、本が雑多に散らばったベッドに寝転んで、目を閉じて(目を閉じているのは、平等の比喩でもあれば拒絶の比喩でもある、侑が「好きです」と初めて言ったときに目を塞いでいたことを逆向きに思い出す)音楽を聴いている侑の姿からわたしが受けた印象は、これは読者であって、わたしである、ということだったけれど、たとえ小糸侑がわたしと同じように何かを読む主体であったとして、そのことは何もわたしと小糸侑の同質性を証明することはないのに、わたしにとってはそのあとのいくつかの独白がわたしのものでもあると感じられたので、結局わたしは、わたし自身の可能性感覚のもとに小糸侑というひとを読むことになってしまったのだった、ということに気づいた。六巻の最後にも反復される川の飛び石で七海燈子が小糸侑と約束をして、その約束で自分自身を縛ったときに、もう小糸侑とわたしはまったく違う人間であるということに気づくこともできたはずなのに。あのころから、七巻の終わりの光の中に行きつくまでにもたぶんずっと侑は光っていたはずなので。

それが二〇二〇年のことだった。わたしはそのあと、自分のなかにあった絶望と切迫をいよいよ放置できなくなり、危うい隘路を抜けてこうしていま生きているのだけれど、そうして昨日まで三度目の読み返しをしていたときにわたしが気づいたのは、わたしと小糸侑の距離がまた変わっているということだった。二〇一九年の冬に初めて読んだときも、二〇二〇年の終わりに読み返したときもよく理解できなかった八巻の侑のことがすこしだけわかるようになっていた。生徒会劇の「君しか知らない」という題は、侑の考えたものだ。それは、過去の君ではない現在の〈君しか知らない〉、ということでもあるし、君が成り代わろうとしている誰かではない現にここにいる〈君しか知らない〉、ということでもあるし、本当の君は〈君しか知らない〉ので、君によってしか選ばれることができない、ということでもあるはずだし、わたしにとって君はつねに君なので、知ることができるのはつねに君とわたしの距離でしかありえない、だから〈君しか知らない〉という、それほど悪いものではない絶望のことでもあるのだろうと思った。それはきっと、二〇二一年の春からわたしの感情の参照項であり続けているカネコアヤノの「きみをしりたい」を繰り返し聴いてようやくわかったことでもあった。「きみをほんとはしりたい/宇宙の希望と同じくらい/暗い中でも光るおもちゃが/今でもほしいくらい/でもいい ほんとはいい/気持ちはふたつ」といった歌詞を繰り返し聴くにつれて、小糸侑と七海燈子がそれぞれ感じた恐怖の所在もすこしずつわかるような気がした。

やがて君になる」という題をどう読めばいいか、わたしにはずっとわからなかった。Bloom Into Youという英題がついていて、わたしは自分が停止することを選んだということと、その比喩をうまく調停することができなかったので。ただ、実際は身体の停止がわたしの停止では別になかったということが、身体の停止と自分で考えていたものが実際に手術によって実現することによってわかって、少なくともそのbloom intoに対するわだかまりは次第にほどけることになった。〈やがて〜なる〉ということを、予兆を含みつつ変化していくことだと読むことができたので、ということでもある。change intoよりもそれは未来の感覚を含んでいて、わたしにとってはつねに目前の死の錯覚であったそれが次第に可能性として感じられるようにもなったから。

それでもわからないことはまだ残っていた。君になる、でも、誰が誰に? それに、そんなことが、誰かが誰かになるなんてことがほんとうにあることができるのかしら? わたしは〈君になる〉ということを、小糸侑が七海燈子になりゆくこととして、あるいは七海燈子が小糸侑になりゆくこととして解釈しようとしていたから、そのような疑問が消えなかった。でもそうではなかった。君は君なのだ、誰にとっても。そうしてわたしは、〈誤読〉といういまひとつ納得のいっていなかった比喩をまた別のかたちで受け止めることができるようになった。〈わたし〉という言葉を発するときに押し寄せてくる無数の過去のことをわたしはずっと気にしていたけれど、〈君〉や〈あなた〉という言葉を投げるときの命がけの跳躍、その跳躍の距離、跳躍によって距離そのものを知ることこそが〈君〉という言葉を使うということのひとつの意味なので、〈君になる〉ということは、その距離を知ることであるはずなのだ。だから、〈誰が誰に?〉という問いへの答えはとりあえず、〈君〉が〈君〉に、ということになるはずなのだけれど、でもそれは、ほんとうに言うことのできる言葉としては〈君になる〉ということでしかなく、だからそうして、言い換えを繰り返した挙句に同じところに帰ってきたので、わたしは小糸侑のことを、わたしとはまったく違う経験をしたひとりの〈君〉として知ることになったのだと思う。わたしは君の未来を祈っている、そのようにして、わたしは『やがて君になる』を読み終えた。

階段

さいころに読んでいた『ものぐさトミー』という絵本のことをときどき思い出す。主人公のトミーはほぼ完全に自動化された家に住んでいて、朝起きてからお風呂に入り、歯を磨いて着替えをし、食事をとるところまで、すべて機械が見事にお世話してくれる。トミーがするのは午後をかけて階段をのぼり、ベッドのある部屋までたどり着いて眠ることばかりだ。ところがある日、トミーの家に繋がる送電線が壊れ……という話でそこからは教訓めいた展開になるのだけれど、問題にしたいのはその先ではない。幼少期から折にふれて思い出すのは、トミーが午後をかけてのぼることを求められているその階段のことだった。昔は疑問にも思わなかった。ベッドが上にあるのだから、階段をのぼらなくてはいけないのは当然のことだと思っていた。しかしだんだんと、それだけ自動化された家において、階段をのぼる、というかトミーをベッドに持ち上げるだけの機構を用意できないはずがないということに思い至り、それからは階段が、単に印象的なだけではなく不可解でもあるようなものとして思い出された。階段が登場するのは、トミーの日々のルーティンを示す物語の前半だけで、後半で機械のしっちゃかめっちゃかが描かれるなかで階段はまったく消失してしまう。そういうわけでその階段は、まったく物語の展開上は不要な余剰としてあるように思えるのだけれど、それゆえに、それにもかかわらずということではなく、それゆえに、まったくトミーの生活に、その物語に、もっと言うなら物語の読み手に、というかわたしに、なくてはならないもののように思えた。その階段こそがトミーの生活を生活たらしめ、この物語を世界たらしめ、わたしを人間たらしめるものであるように思えた。

東京大学本郷キャンパスの総合図書館のエントランスにある大階段は大学制度の誇大妄想を露骨に示すものとして嫌厭と愛着を同時に生み出してやまないものだけれど、わたしがそれを初めて見たときに思い出したのはやはりトミーの家の階段だった。赤いカーペットのかかった、楽園への通路。一段一段を踏みしめるようにしてのぼらなければ上の階までたどり着けないと感じることが増えた。筋肉量が落ちたせいだ。地下鉄を降りてから地上に出るまでの階段をのぼるときにわたしが取り戻しているのは朝に失った高さではないはずなのだけれど、典型的な帰路では階段をのぼってのぼって降りてのぼるので、余計に何かを失っているような気分にさせられる。典型的な行く道は降りてのぼって降りて降りるようになっていることを考えると結局釣り合いはとれているので、最初の直感が正しいのかもしれないけれど。家に帰るために階段をのぼるときに、わたしが生きているということのもっとも単純な意味がその一歩一歩に宿っていなくてはならないように感じる。いつやめてもいいことを、こうして続けているからには、階段をのぼらなくてはいけないのだし、もちろん降りなくてはいけないのだし、エスカレーターの右や左や中央に立って運ばれていかなくてはいけないのだと思う。トミーが階段をのぼることができる秘訣もきっとそこにある。柔らかいベッドで眠らなくてはいけないのだし、身綺麗にしなくてはいけないのだし、一日に何度かは食事をとらなくてはいけないのだ。そうしたことがトミーを人間たらしめるのでトミーは階段をのぼるのだし、だからこそ階段をのぼることがトミーを人間たらしめるのでなくてはならない。

何かをすること、何かをすると決めることそのものよりも、何かをするのはどうしてかと説明することが難しいと感じることが増えた。他人に対しても自分に対してもということだけれど。切迫感それ自体は理由にはならないような気もするけれど、ともかく切迫感に駆られてここ数年の航路を決めてきたからにはそれも仕方がないことなのかもしれないと思う一方で、そのわたしをここ数年駆り立ててきたところの切迫感がどれだけもともとわたしの生に埋め込まれていたものなのかということは正直に言ってよくわからない。とは言っても、一年ほど前からわたしが続けて感じているのは、今こうしてわたしが生きているということは、信じがたく危うい隘路を抜けた先にかろうじて成り立っているような、人が奇跡と呼ぶような、そのような出来事なのではないかということだ。

春の終わりの音楽をずっと集めていた気がするのにほとんど忘れてしまう。

減らず口をたたいているうちに声が耐えがたいものへと変じていた。

数年前に「新しい名前が必要だ」という言葉を読んだはずだ。

わたしは卒業式の日に「はい」と返事をして起立した。

欲しいとも思わない香水ばかりがたくさんある。

近所の花屋を遠くに眺めるばかりだった。

今朝の夢はいいところで終わった。

肉よりも魚が最近は好きだ。

新しい眼鏡を買った。

映画に行こう。