世界がどんなふうにうまくできていないか、ということを最近くりかえし考えている。うまくできていないだけならべつにいいのだけど、うまくできていないのに、うまくできているふりをしているから厄介で、「食品は、スーパーで買うと、買えますよ」みたいな顔がこちらにすごい勢いで迫ってくる。「掃除は、掃除業者を雇うと、掃除してくれますよ」みたいな顔が休日を挙げて鏡を拭いているわたしの前に現れて、だまれ、嘘つくな、と思う。眼科でコンタクトを外して、ぼやけた待合室で診察を待っているあいだ、アイシャドウのラメが手についているのが見えて、なんだ、やっぱりぜんぜんよくできてないじゃない、誤魔化せると思うなよ、と思う。べつに資本主義批判としてこういうことを書いているわけではないけれど(それはそれとして資本主義批判はしたいけれど)、商品やサービスを使うばかりでは世界はぜんぜん成立せず、むしろ、ラップの芯を使って毛糸をまとめるようなことが、わたしたちの生きる世界を成り立たせているんだとしたら。「土地を買うと、土地が手に入りますよ」みたいな顔がふよふよルノアールの中を漂っていて、変な顔、と思う。土地を買うのって、変じゃない? だって土地なのにさ。『地面師たち』観たよ、わたしも、土地を買うのって変だから、こんなに変な人たちばかりが出てくるんだよね、わかるよ。わかる?
交通系電子マネーをPayPayの500倍くらい愛しているので、割り勘も交通系電子マネーでできたらいいのにと思ってしまう。PayPayを送る代わりにさ、友だちの手を携帯で触ったら、友だちが頭の中で思い浮かべた金額がピピッと引き落とされるみたいなのがすてきだと思わない? ペイペイッなんてふざけてないでさ、ほんと、わたしはきみにふざけてほしいんじゃなくて、好きな人と、好きな人たちとふざけたいっていうのに、じゃあ3500円ね、はいタッチ、え(笑)、5300円じゃん(笑)、どういう意味?(笑) だるいんだけど(笑)、5300ひく3500って、むず(笑)、いや計算はや(笑)、みたいなのをさ、べつにやりたくないけど。1800円返しなよ早く。PASMOに代表される、Suicaに代表される、SAPICAに代表される、交通系電子マネー、今でもあのころのことを鮮明に覚えているんだとしたら、それはあなたの名前なのか、交通系電子マネーの名前なのかって思うくらいに。お支払いどうされますか? SAPICAでお願いします。サ……なんですか? SAPICAです。あっ、Suicaですねー、はい、じゃあタッチお願いします。ありがとうございます。ありがとうございましたー。
大きな乗り換え駅で電車を降りるときの、全員が必死だからギリ成り立っているあのかんじ、ひとりでもサボっているやつがいたらその途端に破綻するあのかんじ、どうして? いいよ、大きな駅なんだからさ、長めに止まりなよ。わたしが言っといてあげるから。いい? みんな、今ね、人が何百人と乗り換える駅に止まってるの、だからね、いくらみんなが急いでいて、カリカリカリカリして頭をベーコンみたいに焼いてるんだとしても、もう少しここに止まっていないといけないの。わかった? ほんとうに、中身のない名前しやがって、大手の町だから大手町って? なんだそれ。東の京だから、東京(笑)、じゃないんだからさ。10分くらい止まっておいてくれたら、あんなふうに髪の表面を電車風が走り抜けていって、いま、ぐちゃぐちゃになったのかなってないのか、これどっちだ、と思いながらエスカレーターに乗ってばかみたいに左に整列してかばんを蹴飛ばされたりすることもなくなるのに、なんだそれ、大手の町って、町がインディーだろ、大手なんだったらじゃあ街だろって、インディー街で乗り換えだっけ? うん、インディー街で東西線から三田線に……いや、え? 乗り換えって、こんな似た色のラインカラーでしていいの? わけわかんない、落ち着きなよ。
帰りたいわけではないと思う。帰りたいわけではなくって、ただわたしがそこにいないという事実を耐えがたいように思っている。いや、ほんとうはべつに耐えがたいということもなく(実際耐えているのだし)、わたしはいまの街で、少なくとも東京で暮らすことをやめることもできるのに日々に選んで、そうして耐えがたいふりをしているわたしを冷めた目で見ている、そうなのだけれど、でもやっぱり耐えがたい。耐えがたく懐かしいと思う。懐かしさが耐えがたさだと思う。映画館の少ない冷帯の街で暮らせと言われたら断ってしまうような気もするのだけれど、だって、あのツタヤだってどうせなくなってるんじゃないですか? わたしがいないうちに、わたしがいたところは、わたしのいないところになった状態で安定して、きっと続いているに違いない、2年間を過ごした盆地の街を数年ぶりに訪れたときの場違い感、ここにあなたの家はもうないですよと澄ました顔をしていたうつくしいガラス張りの駅舎のように、冷帯の街もそのうち透明になっていって、霊体の街とか、幽体の街になっていくに違いない。
違うよ。違います。ぜんぜん違う。あーそうじゃないの、違う違う。そういう意味じゃなかったんだけど、まあ確かにそうもとれる言い方だったよね。ごめんね。違うんだよなー、うーん。近いからこそさ、ずれてるのが際立つっていうか。違うの、ごめんごめん、違うからね。ぜんぜん違うよ。は? 勘違いしないでくれます? 違うんですけど。うわー、完全に違うじゃん。はいはい、ぜんぶわたしが間違ってました、っと。あ、これ、明確に違うね。え、じゃあ全部違うってこと? 惜しいっていうか、ほぼ違ってるっていうか……。違うんならもっとはやく言ってよ! 気づいてたんでしょ! いや、違うって言うのも違うっていうかさ。その言い方は違うんじゃない? あの、すみません。はい。間違って、乗り換え改札口から入っちゃって。はい、じゃあこちらで取り消しておきますね。すみません、ありがとうございます。はい、じゃあこちらお返ししますので、そのままここから出ていただいて大丈夫ですよ。そのまま、ここから、出ても。