雑記帖

存在しており、文章を書いています

物語のバーチャリティ(あるいは存在について)

つまり久々にバーチャルの話であり、「中の人」論でもあります。バーチャルYouTuberとかVTuberみたいな表現を使うと対象が(意図に反して)狭くなりすぎるという側面があり、何となくバーチャル存在みたいな言葉を使いますがまあ深い意味はないです。

ゲーム部の騒動は記憶に新しいというか、まだ過去の出来事として扱うことができるレベルにはありません。Unlimitedのコメントから少し気になった部分を引いてみようと思います。

ゲーム部プロジェクトは VTuber と言うより、色々な理由、動機でゲームに打ち込む 4 人の高校生の物語を描いているキャラクターコンテンツ作品という方が近いかもしれません。

(中略:ゲーム部のストーリーの説明)

一方で、例え上記のようなストーリーラインがあったとしても、私たちはプロのアニメ制作会社というわけでもないですし、アニメーションというのはどこまでいっても神視点で物語が進んでしまうため、どうしてもメッセージ性や共感性に欠けてしまうのではないか?
という課題を感じておりました。

そこで、カメラの奥の視聴者の方々に向かって、語りかけることが出来る YouTuber を、今を一生懸命に生きている彼女達にやってもらおうという思いで、VTuber という言葉を借りて、これまでのゲーム部プロジェクトという作品は運営を続けて参りました。

従って、弊社が目指しているのは、VTuber というよりも、どちらかといえば CTuber(キャラクターユーチューバー)という表現の方が、適切なのかもしれません。

(「私たちがゲーム部プロジェクトを立ち上げた経緯と、ゲーム部プロジェクトが目指す未来について」https://gameclubproject.jp/20190717info/ )

上記の発表から1ヶ月がたった今もゲーム部プロジェクトの動画の更新は続いており、低評価もまた高い比率を保持したままです。それにしても、どうしてこのような——VTuberとの峻別を図るような——表現を取らなければならなかったのでしょうか。

さてバーチャリティとは多くのバーチャル存在にとっては身体のバーチャリティのことなのでした。あるいはそういう風に考えられていました。つまり、2次元のイラストレーションないし3次元のアバターを身体とし、それに「人間」のもつ人格(や声)を結合させることで成立するのがバーチャル存在だ、というように。

(参考:「キズナアイ、人格、バーチャルYouTuberについての小論」http://racbsk.hatenablog.com/entry/2018/10/17/180051 )

ちなみに、上の小論では明確に述べられていませんが、身体性のバーチャリティには、それ以上に身体に対して真実性を求める意味がないということも含まれています。つまり、実際のところ背景にいるのが直で一個の統合された人格であるのか、あるいは声と人格の表現と身体表現とがそれぞれ分離しているのか(ゲーム部プロジェクトなど)、人格は同じであっても声は外挿されているのか(のらきゃっと)、などなど、背景には多様な可能性が考えられます。

そもそも、明らかにアバターであったり2次元であったりする以上、そのままの姿で現実を生きていることはありえない、というのはただの前提としてあります。しかし、「中の人」の体験が真実性をもち、「中の人」が身体を二重化しているというように見るならば、別に一つの身体の背後にある一つの人格を見るだけで特に問題は起こりません。しかし、Unlimitedは「キャラクター」という表現をとることによって、「ゲーム部」なる存在の真実性を明確に一つ上のフィクショナルな層に移しました。そしてこのことによって、声優の交代はその一つ下の層での出来事であるからしてゲーム部というもののあり方は揺るがない、というように主張しています。もちろんそれはただの運営側が傷つかないための論理であって、視聴者にとっては別に何の相違もないのですが(「そもそもならばどうしてVTuberという言葉を借りたのか?」という疑問が当然生じるでしょうから)。

さて、もう一つはキズナアイです。2019年5月25日の身体の分裂、続く多声化は、3ヶ月近くが経過した現在でも視聴者に受け入れられているとは言い難い状況にあります。

(参考:「"分裂"したVTuberキズナアイに、視聴者は低評価60%の『NOサイン』」https://ytranking.net/blog/archives/12177

しかし一方では、このような分裂は視聴者を広げるための(bilibili動画への進出が進んでいるのは共通の風潮です)苦渋の決断というよりは、むしろキズナアイという一つの存在のレゾンデートルを保持するための一段階であったのかもしれません。

「ただ、そうやってたとえばどんどんテレビに出るようになったとして、普通のタレントさんやお笑い芸人さんと横並びに違いがわからなくなってしまったらそれは逆につまらないなと。このままみんなどんどんタレント化していくとそうなりそうな気もしているんですけど、そのなかでわたしならではのやり方があるとすれば、それは人間のみんなに寄りすぎないことなのかもしれないなって。いつか実態をもちたいですけど、今現在バーチャルであるのならばやっぱり自分らしくあったほうがいい。バーチャルイラストレーターとかバーチャルマンガ家というのもこれから出てくると思いますけど、描いている人が特殊だから面白いというようなことになるとつまらないですよね。だから『人間』になっちゃきっとダメなんです。」

(「ユリイカ」2018年7月号「特集:バーチャルYouTuber」「シンギュラリティと絆と愛 人間とバーチャルYouTuberが出会うとき」) 

 とはいえ、視聴者からの反応は芳しくありませんでした。つまり、視聴者はある意味では「人間」を求めていたのかもしれません。生身の、生々しい人間ではないが限りなく人間に近い、でも人間ではない存在。それがバーチャル存在の微妙なあり方でしたし、キズナアイの分裂に視聴者が拒否反応を示すのはそのような危ういバランスが崩れてしまったからでしょう。一方では「高性能なAIである」という物語を受容しながら、しかしながら実際のところは背景にある一個の人格を見ようとし(あるいは錯覚し)、その二重性のもとでコンテンツ全体を受容している。視聴者の側にもそのような危ういバランスがあります。

上の二つに共通するのは「物語のバーチャリティ」という、これまである程度適当に扱われてきた問題です(というかわたしが適当に扱ってきた問題です)。キズナアイはスーパーAIではありませんし、ゲーム部なる部は物理世界には存在しません。しかし、自らをそのようにrepresentするというレベルにおいては存在することができます。それを「嘘をついている」などということに特に意味はなく、それは小説の作者に対して「あなたは嘘をついている」というのと同じです。輝夜月は「物語のバーチャリティ」を全く提示しないことによってむしろ現実との結合を図っていましたが、それは物語が人格のリアリティをフィクショナルな上層へ浮上させる作用をもつからです。しかし、バーチャル存在の物語はそれでもなお、「中の人」という主体が物理世界にいて、インターネットを通じて視聴者に実時間で体験を届けているという意味で小説に比べて一定程度のリアリティを持ちます、あるいは持たざるを得ません。そのような物語を設定と呼ぶのは容易いことですが、そのような形でしかrepresentがなされない以上は、それはpresentするのと弁別しえないことになります。

ここで、「引退」という問題を考えます。最初の熱狂が弾けるには十分な期間がたち、様々な方面で、かつ様々な理由でバーチャル存在が引退を宣言するか、あるいはフェードアウトしています。わたし自身はよく視聴する「にじさんじ」の引退の報に触れることが多かったのですが、ざっと書き出してみると以下のようになります。

2018/12/31 鳴門こがね

2019/4/9 海夜叉神

2019/5/7 八朔ゆず

2019/5/31 名伽尾アズマ

2019/6/27 闇夜乃モルル

別に時期がどうこうと言いたいのではなくて、この「引退」ないし「卒業」などと銘打った行為がどのようなものであるかということです。たとえば、海夜叉神は、自分の"この行為"は「引退」でも「卒業」でもなく、ただ「帰る」だけであると言いました。あるいは名伽尾アズマは、自分は海外に行くので引退すると言いました。この違いが抱えている物語の違いに起因するものであることは一定程度は考えなければならないでしょう。名伽尾アズマの引退理由とて、別に真実である「必要」はありません。同様に、海夜叉神がただ「海夜叉神」なる存在として視聴者の前に現れなくなることについて、それ以上に誠実な説明はないとも言えるでしょう。

そのままついでににじさんじの話を続けると、たとえば久遠千歳が「実際に不老不死であるかどうか」は、別に嘘である「必要」はありません。それは加賀美ハヤトが実際にCEOである必要がないのと、社築が実際に社畜である必要がないのと変わらず、程度問題に過ぎません。キズナアイはスーパーAIではないとみなす必要がないのと同じです。

それらはただ、バーチャル存在という存在の根本規定は、別に物理世界に立脚している必要がない、ただ物理世界に立脚していてほしいというような点に由来します。「どこかであったかもしれないこと」であってほしい、というような願望を駆動として、その存在——存在のバーチャリティ——の「リアリティ」は保たれているのだ、といえるでしょう。

今回はこのあたりで。