雑記帖

存在しており、文章を書いています

教室で戦う人たちに

気恥ずかしいような気もしますしそうでもないような気もしますが、少し書きたくなったことをそのまま書こうと思います。気の回数でも数えておいてください。別に答え合わせはしませんが答えとは本来そういうものです。

実際のところ教室は敵に溢れています。教科書からは間違いが世界の真実のような顔をしてこちらを眺めており、教師は人生の先達ではあり教育の教育を受けた存在ではあるものの一人の人間であることをやめる訳にもいかず、いくらでも理不尽な抑圧を繰り返すでしょう。そんな教室を不思議に思ったとしてもそのままそれを突き抜けることが可能であることはありません。人間関係というのは人間のいる場ならどこでも発生するものであり、自分がその中で一人特権的な地位に立つことができるというのなら人間関係なるものは初めから不要だという話で、つまりは人間のいる場ならどこでも政治というものが発生しなくてはなりませんでした。

ではどのように戦うことが正しかったのでしょうか。最初は目的をパロディ化することによって、次は教師の特権的な地位というものを剥奪することによって、そして最後は自らがより正しいものへとなろうとすることによって、それは進められたのでした(3段階はそれぞれ、わたし自身が小中高と環境を変え、問題を変える中で試みた内容に対応しています)。ですから道徳に従わないこと(あるいは道徳なるものを陳腐化すること)、教師の誤りを指弾すること、自らの手段において教育環境の改善に取り組もうとすること、そうしたことに取り組もうとすることは教室での戦いをあるべきものだとする人にとっては(わたしにとっては)当然のことでした。

そういうことを考えるのには大学に入ってから十分な時間が存在しますよ。へえ。それが単純に甘すぎる認識であることは今になってその発言を眺めてみれば簡単に解ることではありましたが、当時はまさに今ここに問題が存在していて、それに対して考えるという方法で取り組まなければならないのだと、そう語気を強めたことを覚えています。教育の改善をしたいなら偉くなってそれに取り組めばいいんじゃないの。でもわたしにとっては今がすべてだったのですよ、自分がまさに今成長する中にあって、人生は思っていたよりもずっと短く、そして考えなければならないことはいかに生きるかということであったし、いかに生きるかということを考えているままに死んだのでは笑い話にもならないよね、だって死んだら話ができないし笑えもしないから、そのように繰り返し言ってきたのでした。人がどう生きるかに興味があってもわたしがどう生きるか以上の興味はないですから。

でもまあ結果として何があったのかを少し振り返ってみましょう。いかに授業をパロディ化するとしても、その変奏が主体の側からなされるものではない以上お遊びにしかならないのです。周囲は大いに笑って大いに味方し、ちょっとした英雄になった気でいたのかもしれません、でもそれは全部消えてしまいましたよね、だって生徒はいなくなってしまえばもはや外部者なのですから。いかに教師の誤りを、いかに教科書の誤りを指摘し、際限のない(人は間違うものですからね)修正を試みるとしても、それが何かの意味において有益だったとは思われません(自らの正しさを自慢するという矮小な目的のためだけに後々役立ったでしょうけれど)。わたしが逸脱の運動を進めていると思う人にとっては(もちろん完全な逸脱は完全な無為である以上それはありえないのですが)、あらゆる不完全な逸脱は自らの寛容と愛の証明でしかありえません。そして無事に送り出してしまえばあちらのものです。少なくともそれをやってのけたのだ、それにもうそのような暴発があることはないのだから。あとはただ暖かい目(暖かい目とは!)でその成長を見守ればよいだけなのです、自分は全くそれに関与しなくてよいのだから。あるいは見守る必要だってないのかもしれないですね。それは確かに間違っていましたね。でもあなたも不完全であり、そしてこの先の地平に対して限りなく無知蒙昧で、数え切れないほどの誤りをあらかじめ行っているのです。より正しいからといって顔に奇怪な模様を塗りたくって敵だとしたそれらを追い回しても、結局ジョン・フラムが来てしまえば不安げにまあちょっとしたお遊びでしたね、と思い返すよりほかにはないのです。錦の御旗も紙にクレヨンで書いているだけだと気づいてしまえばお笑い種です。

どうしてこんなことになってしまったのだと思いますか。そんなに教室は小さい場所だったでしょうか。後から振り返ってみて教室がどれだけ小さい存在だと思っても、そんなことを言うのは奇妙なことです。今を生きているからといって(過去を生きる、という表現が可能であるのは不思議なことです)、過去のすべてがただ笑いの具とするためのものであったわけではないのだから。だからどうか教室の中で存分に戦ってください。でも教室には窓と扉とがあることをどうか忘れないでください。正しさをめぐる戦いが学問的な遊戯であると思ってしまわないでください。でも正しさというものがどこかで聞いたよりも余程奇妙な形をしていることに少しずつ気づいてください。それらすべてを過去にしたあとでその全てを存分に後悔してください。それらすべてを後悔したあとで自分が存分に戦ったことをどうか忘れないでいて、そしてどうか、その先をどうにかして生きてください。