雑記帖

存在します

眼と日常

朝起きたら眼にベッドライトが飛び込んできて、ああわたしはうつ伏せで寝ていたのだなということを発見します。あるいは7時に起きるつもりだったのに起きたら8時で、眼を開ける前にすごい勢いで起き上がって、やはり天井は少しばかり低いので頭はつつがなく衝突を起こし、そしてすべてが嫌になって布団を抱えれば9時となります。いやもうすっかり目覚めてはいるのですが、はしごを降りるのはちょっとした運動だとは思いませんか。まあそうかもね。だから1週間に1回のペースではしごを踏み外して落下したりしてるんですよね。そうですね。身体に申し訳ないなとは思うのですが、仕方のないことに頭を下げる対象が頭を下げてしまうもので。いえ全然気にしていませんよ、本当に。

食パン→無→食パン→無→カロリーメイト→クリームパン→チョコクリームパン→クロワッサン→チョコクロワッサンと変遷してきている朝食のことを考えるのがだんだんと面倒になってくるものです。クロワッサン類は食べると必ず少しこぼれ落ちるものがあって少し嫌ですね。健康とかね。あと幸せな未来とか。どうして食パンを食べなくなったかといえば食パンを焼くとそれを皿に載せなければいけなくなって、それが面倒だからです。洗うのがとかではなく。

シャワーを浴びているとすべてに愛されているような気分になりませんか? わたしは別にならないんですけど。わたしもです。でもシャワーを浴びてお風呂場の外に出るとすべてに憎まれているような気分にはなりますね。本当はどうとも思われていないことの方が多いのに、と服を着たら思いますよね。あるいはクローゼットを見てそこにある服が全部黒かったときに。でも髪の毛がさらさらになると自分を愛してもいいような気分にはなるのかもしれません。

家を出るとき鍵が閉まっているのかの確認を必ずしていて、その確認行為はドアノブを体重を利用して引っ張ることによりなされる訳ですが、こうして引っ張ったときにドアが突然外れて倒れてきたらどんな気持ちになるのでしょう。わたしは鍵が閉まっているかどうかの確認をしていたのであって別にドアがちゃんとついているかどうかの確認をしていたのじゃないのにな、ということを哀しく思いながらドアに押しつぶされて死ねばいいのでしょうか。階段を落ちるようにしか降りられない病に罹っていてそれはとても重く、おかげで靴底がすり減っているのだとしたら靴底としては迷惑だなあと思うだろうなあ、と靴底は思うのでした。靴底って喋るんですか? それはもう雄弁に。

家を出て歩き始めてからどのくらいのタイミングで耳にイヤホンを差し込むかによって2曲目の始まるタイミングが微妙に異なるのを楽しんで歩いています。あるいはそういうことを楽しむために生まれてきたのかもしれない、家から駅に向かうまでの道に空が大きく開けるところがあって、夏の朝にそこを歩いていたら大きな入道雲が見えたときは本当によかったと思った、何がよかったのかはわからないままでも。途中にある喫茶店の看板が一部欠損しているのをいつも気にしています。より正確にはその欠損を気にしています。欠損を愛することができるひとがいるという事実を気にしています。空白を愛することができるひとが存在を愛することができるのかを考えていません。

広告は強い効果を発揮するもので、つねに活字を睨んでいないと落ち着かないようになってからもう何年も経ちます。きっともうすぐ20年が経ちます。鞄の口を閉めないままに鞄を背負ったことが一度でもあれば、それを発見したことが一度でもあれば、それ以降鞄の口は大声で話すようになります。そして黙ってもらうために何度も何度も背負っている鞄を見やることになります。首が少し痛くなります。電車の中で鞄を前に背負うフォルムがどうにも我慢ならないのですが、おそらく同じように我慢ならないと考えているひとが鞄を後ろに背負っているのを見るのも我慢ならないことです。どっちも嘘です。

動物としての姿を忘れていないために動くものがあると思わずそちらを見てしまいます。でも何かを見てしまうということと対象への興味がまったく釣り合わないために、そして日常世界において動くものがひとであることが多いために、目線の邂逅はひどく気まずいものとなることがしばしばです。目線が合うだけで愛を自覚できるのだったらどんなにいいでしょうね。ひとと目線が合ったときに考えているのは眼があるなあとかそういうことです。鼻があるなあとかもよく思います。

自分の足で歩くのであればその一歩一歩に意味があってほしいと考えるのが世の常ではありますが、その崇高な意思に比べれば日常の方向は散漫なことがしばしばですから、たとえば抛物線の軌道を目の前に(あるいは、目の奥に)映し出しながら歩行をするのです。だから歩くのが苦手です。抛物線を維持しようとする意思Aと、ひととの衝突を避けようとする意思Bが交錯し、意思同士は激しく争います。このようにして人間は進化してきたのだということが最近言われています。

夜の道を歩くのは怖いですか? 夜の道を自転車で走る方が怖いですかね。自転車で歩くことができるのかどうかをご存知の方はお客様の中にいらっしゃいますか? 足で走ることができることくらいは知っているのですが、なにぶん知識が穴だらけなもので。体系的にものを知りたいと思って空を見上げれば上下のメタファーを思い出し、いま自分が知っていることから広げていくしかないと思って地面を見ればコンクリートとは具体的という意味なのでした。突然叫んだり突然走り出すひとがいたら怖いですけど、それが自分だったら怖くないのかもしれません。だから突然叫んだり突然走り出すひとがいるのかもしれません。自分に酔っている人に自分に酔っているのは気持ち悪いですよということを傷つけずに伝えるにはどう言えばいいのでしょうか。それをひとに相談したあとで、その人が自分に酔ってしまったらどうすればいいのでしょうか。

「悲しくなるのはどんなときですか?」

「冬に帰宅したら空気が暖かかったときです」

そのように。

日中に家を出て夜に家に帰るとカーテンは開いていて、明かりをつける前にカーテンを閉めるかどうかについて逡巡があります。でも鞄を背負ったまま家の中で動き回るのは重いから嫌だ、でも明かりをつけないまま鞄を置くと本当に鞄を置きたい位置に鞄を置くことができないかもしれない、ああどうしよう、一旦置いて明かりをつけてから修正すればよいのではないですか、じゃあ聞きますけどあなたは鞄の位置にこだわってわざわざ置きなおしたりすることを毎日したいのですか、いやしないけど、でもあなたはそこにこだわりたいんでしょう? いやこだわりたいのはそうなんですが、でも別にわざわざ置きなおすほどこだわりたいわけじゃないですから。

そもそも重いから嫌だって、大した時間でもないでしょうに。

洗濯機を回すときに洗濯機の上面が少し汚れているのが目について、でもまだ掃除するほどではないというか、洗濯機の汚れを気にする瞬間が洗濯機を使うときだけなら別にわざわざ掃除するほどではないというか。シャツを6枚洗ったのにハンガーを5個しか取り出してこなかったときの絶望感とこれから一生付き合っていかなければならないのですが、そういう覚悟を決めて産声を上げましたか?

手元に本がないと眠れないから本を愛しているのだと言ってしまいたいくらいに何かを愛するということについて考えるのに飽き飽きしているのですが、やっぱり本としてはせっかく枕元まで連れて行ってくれたのにすぐ寝てしまうのは寂しいもので、なかなか本は寝かせてくれません。あるいは抱いたまま眠ってもらおうとするのかもしれません。本を開いたままでその人が眠ってしまうように画策して。