雑記帖

存在しており、文章を書いています

カリカチュア

世界とはつまらないもので、「中庸」であるとか「μεσοτης」であるとか、そういったものは枢軸時代に提出されて久しくもまだ世界の原理のような顔をして道徳観念の主席を汚しており、そんな中でどのようにして悪徳を打破することができるだろうというのでしょうか。人は盛んに一般化や極論を続けてその度に世界は世界ではない振りをされて原色へと塗り替えられる訳なのですが、赤色に塗装されているということと青色にかつて塗装されていたということと、そしていずれは白色に全てが沈んでしまうということと、一体どれがあなたにとって大事だというのでしょうかね。ホッキョクグマは何色をしているかそろそろ決定してはくれないのでしょうか。あるいは何色に見えますか、と問うてみた方が面白い人だと思われるのかもしれませんが。

愚かという設定を抱える人が明後日の方向を見やって洟を垂らし、口を大きくぽかんと開けているように、インテリという設定を抱える人がぴったりとした服を着て髪を整えてしかし暗い目をして喋らないように、何かを持っている人が何かを落としてしまっているとあなたが固く信じているように、そしてそれは全くもってそこに初めからあったものだというように振舞っているように、あなたは相手が何であるか知りたいというのです。歌は歌えますか、絵は、字はどうか、なるほどこれこれのことを知っていて、そして何を知らないのですか、ファッションですか、地理ですか、一般常識ですか、それとも愛であったりするのですか、というように、あなたは尋ねるのです。あるいは価値が肯定的であると信じたいがために、それは肯定的価値であるとあなたは言うのですね。それは面白く、スマートで、明るく、クールで、当たり障りがなく、背景に消えてしまって全く聴こえない音楽であると。

そのようにして作り上げられたものを戯画だとかdéformationだとか呼んでみても、結局それらが愛したり憎んだりすることのできる全てなのでした。それが良いのかどうかなんてことを簡単に言える訳はなく、ともかくもそうやって理解されるしかないこと、その意味では理解から隔絶しているものがあるのだと思うというのに、しかしどうしてもわたしたちは素晴らしくなくてはならないのですね。許されようだなんて少しばかりも。

流れていく音楽というものが何であるのか、それは本当に今ここで流れていくその音楽、この音楽であったはずなのだと思い返してほしいのです。全てを愛することができるのだったらわたしの持っていない全てを愛してください。それはとりもなおさず世界のことで、そうしてみるとあなたは全然わたしを愛する必要がないのでしたね。あるいはわたしのどこかを少しだけ愛してください。ある音を出したことで消えてしまったその沈黙の全てを忘れてしまって全然構わないとでも言うように。