雑記帖

創作以外のことを書きます

表現の対象について

それで結局、あなたは現実を描きたいのか、それともあなたが描きたいものを描きたいのかと問われているような気分になって、それは勿論わたしが描きたいものを描きたいに決まっているがしかしそれが現実と一致しないと考える理由があるだろうか、いやない、と反論することになるのですが、それにしたって現実を描くというのは難しいもので、別に描写や表現がなされる世界の解像度を細かくすることが現実に対して接近するということと繋がる訳ではないのです。トールキン。現実の人がもしかしたら笑っていたかもしれない一連の機構の中で彼や彼女はひょっとしたら泣くかもしれないし、思いを訴えかけるあなたの話をこれほどまでにゆっくりと聞いてくれる人は彼のほかに存在しないのかもしれないのです。

別に楽しいことをするのが表現活動ではないし、何かのためなら必ずしも楽しくならないという意見も当然あるでしょうし、何かのためではいけなくて表現活動はそれ自体を目的にしなくてはならないという意見でもってそれに対して反論する人もあるでしょう。描きたいものと描かなければならないこととが一致すれば良いのだろうと人は考えるのでしたが、描かなければならないものなどないということにどうやら20世紀のなかばごろから人は気づき始めたようで、そうしてみるとわたしが描くことというのはわたしが描こうとしたことであってそれ以上のものではないということになりますが、それではなぜわたしはそんなことをしようとしていたのだろうと頭を抱えることになるという寸法です。エミール・ゾラ。現実の醜悪な姿を明らかにすることによって何らかの政治的な表現をすることは可能でしょうし、それがそうした目的をもっているからといって芸術の範疇から外れるという訳でもありません。ロブ=グリエ。どれほど執拗に物理世界を作り出したとしてもそこはあくまで霧の立ち込める田舎町なのであり、手段としての探求ではあっても対象としての探求ではない。

どのような旋律で歌うことだってあなたは求められていないし、求められているという観点で言うのならばあなたは他人の旋律を歌うこと、爪弾くこと、はじき出すこと、そうしたことを求められているとさえ言えるのかもしれません。でもどのようにしてか、そのような旋律について行かずに内部から流れだそうとするような、そのような旋律の求めに指が応じようとするのはどうしてでしょうか。あなたがそうしたいというだけでどうしてこんなところまで来てしまったのでしょうか。

もちろん家のすべては立方体で良いのですね、ええ、そうしてみると都市がどのような風景になるのか、そうしたことを想像してみてもそのような想像力自体あなたの表現なのではないでしょうか。融解を始めた氷のような形の屋根について思うこと、そうしたことと余計な文章を点々と書き出していくことは思ったより似ているようにもあなたは思うのでした。誰が作った訳でもないように木々が寄り集まって森を作っており、森の上を低く飛んで抜けていくと必然を断行するように蛇行しながら川が下っていく、そのような春を信じるように嘘と想像を建築していって、そうして出来上がったものが表現であるように信じようとそう決意をしたその目が、半円形の氷がグラスの中で崩れていくのをじっと見つめるのです。