雑記帖

創作以外のことを書きます

自己愛あるいは受動という形式について

注意1: この文章は一般論ないし私の個人的な(つまり、他者から独立した)内面を述べたものであり、特定あるいは不特定の誰かに対して述べるものでもなければ特定あるいは不特定の何かへの糾弾でもありません。

注意2: この文章には頻繁に「愛」という単語が登場しますが都合上仕方がないので、見ていてつらい人はアイルランドのことだと思ってください。

性的指向というものが問題にされることがある。あるいはより一般的に、精神的および物質的リソースを振り向ける対象とそうでない対象の弁別および量化のための基準というものが問題にされることがある。そのような話がされるときに、では自分がどのように指向されたいか、ということが問題にならないのはそれが一致して然るべきという暗黙の前提が存在して、そうしてそのようでない形式は実現に困難があると思われている場合があるからであるとは考えられる。ここで、便宜的にそのように指向することを「愛する」といい、そのように指向されることを「愛される」という。ここで問題にしたいのは「愛される」の方である。

「愛し」たいか、ということと「愛され」たいかという問いは区別してなされるべきであり、もちろん「愛され」たいと思う人を「愛し」たいと思う人がいることも事実であり、逆もまた然りである。ただ、「愛し」たくはない(あるいは、その気がない、できない)が、「愛され」たくはあるという類型はそれなりにしばしば存在が認められるものであり、つまりそれは何をも「愛し」たくない場合もあろうけれども、別に「愛する」対象が自分であってはならない訳ではないのであり、そのように整合させることも考えられることではあるだろう。あるいは、「愛する」という形式が「愛される」ということへの方法論である場合もあるだろうし、さらには自分を「愛し」たいという目的意識と、ただその行為者が自分ではあっては欲しくないという状況、その帰結としての他人に「愛され」たいという感情のような展開をすることもあるだろうし、それはつまりどのように「愛され」たいのかという話に包摂されるべき問題ではあるだろう。

社会的には、そうした形式が存在するということが問題である訳ではなく、むしろそうした形式をどのように掬い上げることが可能なのかという問題が生まれるのであろうが、そのこと自体は私にとっては関知することではないのであり、というのも、私が私に内在する「愛すること」と「愛される」ことの形式を整理することが他人にとっては全くどうでもいいと感じられて当然だからである。

つまりこれは私の話である。まずもって、他人を「愛する」ことを否定するという前提は他人に「愛される」ことをも否定しているのかどうかということが問題になり、それはつまり、前提部分をテーゼとして置いた際に後半部分について検討を付していなかったということである。さらに問題になるのは、他人を「愛さ」ないということと、自分を「愛する」ということ、あるいは自分が「愛される」ということのすべてに対する態度として整合した説明が付けられるかという点である。率直に言えば、結局のところ他人に「愛され」たいということを求めることが(少なくとも私にとっては)自己「愛」のヴァリアントとさしたる違いがないのではないかということがある。それなら他人を「愛し」た方が良いのかという話はされるだろうし、セネカが「Si vis amari, ama」と述べていることは事実である。しかし他人におけるその結合しない形式に対しても理解することができること、さらに自己を「愛する」ことと自己に「愛される」ことの自足性を考えるかどうかということが導入され、自分がただの目と手であるかどうかという意味では全然そうではないのである。

したがって、「愛」は結局無償ではありえないのであった。

何かを始めるということと何かを終えるということが全然関係ないように、何かについて考えることと何かについて考えないことには全く関係がなく、そのようにしてではどう生きるかということを思案するということなのである。