雑記帖

創作以外のことを書きます

生卵を生のまま食べる

食べません。

何の話かというとレトリックの話です。今朝に布団でぼーっとしていると某氏が生卵を生のまま食べていたのを思い出しまして、そのことを頭の中で「生卵を生のまま食べる」と描写した訳ですが、そもそも生卵を生でない形式で食すのは不可能ではないですか。生卵を生のまま食べない場合、必然的に加熱なり発酵なり(発酵は嫌だな)することになりますが、そうした調理を施した場合それはもう生卵ではない訳です。それは茹で卵であったりピータンであったりする訳ですが、つまりここで問題になるのは生卵を食べるというのは必然的に生卵を生のまま食べるということを意味することになるということです。じゃあ「生卵を食べる」と言えば良いのではないですか。いやでも別にそういうことを言いたかった訳ではなかったような、私が言いたかったことは「生卵を食べる」ではなくて「生卵を生のまま食べる」だった気がする訳です。別に「卵を生のまま食べる」と言ってしまってそんなに問題がある訳ではありませんが、しかし「卵を生のまま食べる」という言葉は卵の食べ方における幾つかの選択肢の中から「生のまま」という方法を選択したという感が強いのに対して、「生卵」という言葉には調理されるべきものという響きがあり、それを何と生のまま食べるのか、ということが言いたかったのだと、そういう訳です。

「生卵を食べる」というのはまあそういうこともあるなという程度の感想でしかない訳で、そういうことを思ってそういうことのようなことを言った訳ではないのにそれと実質的に意味が同じであるというのはどうなのか、と考えることになりますが、要するに言いたいことはこれがレトリックであってレトリックは冗長ではなく内容が増えるから表現としても分量が増加して当たり前なのだと気づくことになる訳です。以前ツイートした「幸せなら手をたたこう」と「幸せなら手をたたこう、幸せなら。」との違いも恐らくは関係のある話であって、意味は単位の組み合わせではないという話です。

生卵に関して申し添えておくならば、「生卵を食べる」という表現では問題になっているのは「食べる」ということになるので、つまり焦点は食べるか食べないかということになる訳です。それに対して「生卵を生のまま食べる」は「生のまま」が焦点になる訳で、これが上記二者の違いです。「卵を生のまま食べる」との違いは上で述べた通りです。

結局のところ、あなたが「生卵(あるいは卵)って……」と人に話しかけたときに「生卵?食べるよ?」や「生卵?生のまま食べるよ?」や「卵?生のまま食べるよ?」と応答されたとき、それぞれあなたがどう思うかについて考えるということが文章を理解するということではないですか。どうでしょうかね。