雑記帖

創作以外のことを書きます

知識について

はじめにテーゼを1つ挙げておくと、知識はそれ自体では没価値的である。さらに言えば、何かを知っているということも、社会的にはそれ自体では意味のないことである。

 知識の問題は、誰にも知られていないものは知識ではなくなるということである。例えば、誰も持っていないとしても5000兆円は価値のあるものである。しかし、誰も知らないことは無価値である。また、他の誰もが知らず自分一人だけが知っているものも同様に意味がない。何故なら、その「知っていること」は所定の権威付けの手続きを経ない限りは他者には承認され得ないし、そのように自分からは主張しない場合他者がそれにアクセスしてくることはあり得ないからである。

人が知らないことを知っているというのは凄いことだと一般的には思われている。しかし、その人の知っていることが知識であると判定出来るのは、そのことを他の誰かが知っているか、あるいは他の知識と照らし合わせて確からしいと思えるからである。例えば、オセアニアのある島の中だけで続いている伝統があるとして、外部からやってきた人がその伝統について知ったとする。そのことをその人が他の誰かに伝えたとして、もしも伝えられた相手がその人がその島に行ったことがあることを知っており、またその人が息をするように嘘を吐く人ではないと知っているならば、その情報を確からしいと判断するかもしれない。あるいは全く他のことを知らないとして、インターネットでそうしたことを調べてみて何も出てこなかったとしたら、その人は疑われるだろう。ダーウィンは進化論を提唱したが、人間が進化してきたということを知っていた訳ではない。訳ではないが、確からしいと思われている仮説ではある。こうしたものを擬制的に知識として承認するステップは実のところ曖昧である。

結局のところ、知識はコミュニティのものである。勿論、(主にインターネットの作用によって)多くのコミュニティで共有されている知識の方が今日は多いが、それでも知識はコミュニティ内のものである。知るという作用で生まれる知識は、知られているという作用によって検証するしかなく、知られていることが誤っている場合は検証の仕方も同様に誤った形になるしかない。

というのは大体において地獄であるが、それが別に現実世界でないという理由はないのであった。