雑記帖

創作以外のことを書きます

ドゥブロヴニクに行きたい

ドゥブロヴニクに行きたい。

とはいえ、別にこの記事は私のドゥブロヴニクへの愛を吐露するものではない。ドゥブロヴニクが何であって何ではないのか知りたい場合はドゥブロヴニクについて調べてくれればいいし、念のため述べておくと私が行きたいのはクロアチアにある世界遺産の都市ドゥブロヴニクつまりDubrovnikであってスロヴェニアにあるよく似た名前の都市ドブロヴニクつまりDobrovnikではなく、ではないもののドブロヴニクのWikipediaを見てみるとドゥブロヴニクとの関係について「無関係で、近くもない」との記述があり別に近さの情報は要らないだろうとそう思ってドブロヴニクに少しだけ同情してほしいなどとは全く思っていない。

文構造は常に崩壊しているべきであり、タイトルと内容は乖離しているべきであるというのもまた当然の事実である。140文字に収まるならTwitterに書けば良いのであって、140文字に収まらないなら140文字に収める努力をすべきなのである。それでも140文字に収まらない時に初めてブログに書き得るというのは別にそうではなく、むしろ文字数に必然性をどれほど見出すのかということの方が重要なのだから結局それはそういうことなのである。あれがああいうことであってそういうことではないのはあれがあれであってそれではないからである。代名詞の話をしているときに代名詞の指示対象が代名詞だと考えてみて特に面白いことも面白くないこともないのである。

詩でないものを詩だと言い張るよりもただ何かが書かれたものを人に見せてみてそれを相手が詩だと思うならそれはそれでいいし詩だと思わないならまあ黙っていれば良いのである。トリストラム・シャンディが小説かどうかという話は冷戦が平和かどうかという話くらい気にされるべきではなくて、それは別に事実であるかとかそういうことではなくてそれよりももっとそれ自体が重要であるという事実がそこにそういう風にして存在するということに由来しており、結局のところそれらのそれらの指示対象が解らなくともこの文が理解可能であったというのはそれとは別の全然関係のない話であったりするのである。

ドゥブロヴニクが良いところであって欲しいと私が思っているかどうかに関してはそれほど定かではなく、ドゥブロヴニクドゥブロヴニクである以上私の中でそれは悪いところではありえないのである。丁度缶コーヒーが缶コーヒーである以上は不味いコーヒーであるように。

だからドゥブロヴニクは良いところなのであり、この文章は別にそういうことを伝えるために書かれてはいないのであった。