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雑記帖

創作以外のことを書きます

行為について

例えば、コンビニに迷惑な客が来て迷惑な行為を行ったとして、その客が高齢であったとする。あるいはイスラム教徒、中国人、在日朝鮮人ユダヤ人、若者、男性、女性などであったとしてもよい。その際に、店員や別の客の立場でその現場を目撃したとして、迷惑な行為をその客の先に述べたような属性と結びつけて考えること(「これだから老害は」といったように)は妥当であるか。

完全に妥当であると考える人は少なかろうと思うが、ではその属性とそうした行為の行いやすさとの間に信頼できる統計に基づく確かな相関があるとした場合、それは妥当であるかというのを問題にしたい。もし相関が無い場合これは単なる心理学の問題になると思う。

統計を個々のケースに安易に適用すべきではないというのは当然そうであって(つまり、何もそうした行為を行っていないその属性の客を一様に迷惑行為を行う蓋然性が高いと考えるのは誤り)、では実際に行為した客に対峙した際にどう考えるべきかというところ。ここで考えるというのは、それを言明することにほぼ滑らかに繋がるものである。

これは例えば、以前少しどこかで話題に上がっていた小児性愛者の問題とも通底するものがあり、つまり例えば実際に小児の強姦を行った者が居たとして、その者が小児性愛者であるかどうかということが行為への判断に影響すべきかということである。ただ私は小児性愛者の方が小児の強姦を行いやすいということを証明するデータは持たない。

もう一つ例を挙げると、上野千鶴子氏(や内田樹氏)の言説を裕福だからとか高齢だからとかいう理由から糾弾することは妥当なのかどうかという問題とも繋がり、実際に(かどうかは解らないが)そういう人が多いからといってそうした属性を基にして批判がなされるべきなのかという判断の問題になる。

個人的な結論を述べるならば、理由あって私はそれは妥当ではないと言いたい。一つに、より一般的な道徳の構成を妨げることになる。なぜなら、行為の悪徳を属性の悪徳に結びつける危険性があるからである。その行為それ自体を推奨乃至行わせるものであっても属性自体を悪徳とみなすことはできない。もう一つには、一つ目と関連するものの、行為の道徳性に対しても目を曇らせるからである。

例え誰かがどのようなことを信じていたとしても、それが行為という形で外部に(悪)影響を及ぼすことがなければそれは実際に問題がないのであり、その意味でドグマすら単純に棄却されるべきではないのかもしれないと、強い道徳の結構を構成するという可能性に対して判断が揺らぎがちである。

よくここまで読んだね。よっぽど暇なんだね。