雑記帖

存在しており、文章を書いています

かつて聴いていた曲のこと

人生は長いもので生きていれば幸いにもそれなりに多くの音楽を耳にする訳ですが、人生は有限なものですべての音楽を聴き続けることは残念ながらなしえない訳です。そのような理由によって人は「かつて聴いていた音楽」というものを抱えている訳ですから当然それを振り返ることがあるといえるでしょう。この記事はそのような過程によって描かれています。順序はリリース順であり聴いていた時期とは必ずしも一致しません。

How deep is your love?/Take That(1996)
なぜ聴いたことがあるのかが全く解らない。もともとはThe Bee Geesの楽曲。Take Thatは1990年に結成されたボーカルグループの先駆的な存在。高校生の初期の頃に聴いていた覚えがありWalkmanにも入っている。The Bee Geesのヴァージョンが。なぜか。
メロディーが穏やかなので寝る前に聴きやすいんですよ。したがって毎晩のように聴くのです。して食傷気味になるのです。曲は好きなんですがね。そのようにして葬られる曲のなんと多いことでしょうか。

3月9日レミオロメン(2005)
卒業ソングの定番。らしい。だからきっと卒業シーズンに初めて聴いたのだろうと思われる。物真似がしやすいから歌われるのではないかと疑っている。曲としては嫌いではないぐらいなのだが、残念ながら卒業ソングというものは卒業シーズンのたびに聴かれるのであり、かつ卒業の感傷に浸ったりさせられることを特に好ましくは思わない訳ですね。まあ嫌いではないんですがね。いや本当に。

17才Base Ball Bear(2007)
MVがよくわからない。元気らしい。タイムカプセルを埋めたりするらしい。正直なところこの曲を除いてBase Ball Bearの曲をほとんど聴いたことがない。17歳のころによく聴いていたかといえば全然そんなことはなく、むしろ15歳とかそこらのときに聴いていた。17歳という年齢に付随する何らかの衝撃について曖昧な憧憬を抱いていたかもしれないしその頃には死んでいると思っていたかもしれない。

組曲『』/→Pia-no-jaC←(2008)
ラジオを狂ったように聴いていたころに耳にしたのだった。聴きすぎて聴かなくなってしまった曲の一角。楽譜も買いましたね。全然弾けないけど。練習をした訳でもないけれど。カホンなる楽器があることを知ったのも→Pia-no-jaC←と一緒でしたね。演奏はできないけど。適当に叩けば何となく成立するだろうと思っている程度。曲の話をしていない。でもしない。→Pia-no-jaC←の曲でいえば後から聴いた『台風』の方が好きなのだがそちらは今でも聴いているのでやはり聴きすぎてしまうと仕方がないのだろうと。

Talking To The Moon/Bruno Mars(2010)
アルバム『Doo-Wops & Hooligans』に収録されている。無良崇人がいつかのエキシビジョンで使っていて初めて聴いたような気もする。Bruno Marsの曲で最初に聴いたのがこの曲だったのでその後に”Just The Way You Are”を聴いてなるほどと思うのです。より具体的には恋人がいるじゃないかと思うのです。その後”Uptown Funk”を聴いてじゃあまあ良いでしょうという気分になるという寸法ですね。

ティーンエイジ・ネクラポップ/石風呂(2012)
『ゆるふわ樹海ガール』と並んで有名。多分。ティーンエイジという言葉によく解らないトラウマ体験を抱いているのは多分この曲のせい。このテーマでブログを書こうと思ったのは間違いなくこの曲のせい。より具体的には”さよならガール、また会おう”を聴いたらこの曲がいわゆる「あなたへのおすすめ」としてサジェストされたせい。せいっ。今は19歳で、初めて聴いたのはおそらく15歳とかのときであろうからなかなか思うところはあるものです。17歳だって通り過ぎてしまったのです。

ミュージックサカナクション(2013)
アルバム『sakanaction』に収録されている楽曲ということで自己言及がすごい。いつ聴いていたのかといえばこれは実にはっきりしていて中学校の修学旅行のバスの車内です。その結果としてこの曲を聴くたびに強制的に修学旅行のバスの車内に引き戻され何かを思い出したり思い出さなかったりするということになるのです。過ぎ去るという意識が生まれたのはいつであったか思い出せる訳ではないのですが、それでも後ろを見てみて特に道がなかったりしたらどう思うのだろうと(もちろん道はないのですが)そういった想像力は何らかの形式によって植えつけられるのでどうにも。

フローズンガール/ARTSCHOOL(2013)
ART-SCHOOLを聴こうと思ってとりあえず聴いた曲。どうしてART-SCHOOLを聴こうかと思ったかといえば中学3年生ごろの私は他にアーティストをあまり知らない状態においてBUMP OF CHICKENの熱心なファンであった訳で、今もそうではあるのですが、やはり1個のアーティストにかけられる時間は違うものであり、そうすると当然ながら当時はまだチャンネル数が2であったところの巨大掲示板でアーティスト板に張り付いたりするのです。したがいましてアンチは良くないと思う訳ですが、お互いに批判ばかりしていては実りもないということで「BUMP OF CHICKENART-SCHOOLのパクリ」といった書き込みを目にしてからにひとまず聴いてみようと思わないこともない訳です。結果としては単に別個のアーティストであるということが解るだけなのですがね。加えた結果としてこの曲は好きになったようです。『革命家は夢を観る』も好きですよ。

ユキトキやなぎなぎ(2013)
アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』1期のオープニングテーマ。であるからしてやはりアニメを見るとともに聴いたのでしたね。もっとも実時間で見たということでは全然なく、後から振り返って見たのでしたが、『春擬き』よりもこちらの方に強烈な印象を抱いているというのはやはり1期OPのずるさでしょうか。『僕らは今のなかで』が最終話でリフレインしたら思うところがあるようにですね。初めて聴いたときにはアザレアが聴き取れずにそれは何となって調べてみて結局アザレアって何という気持ちになった記憶がありますが、何となく花であって赤いのだろうと思えたのはどうしてでしょうね。

ノンフィクション・ガールは窓の向こう/PAGE(2014)
SCHOOL OF ROCK!を聴いていたのだった。いつ頃から聴かなくなったのかは最早覚えていないのですが、閃光ライオット(今の未確認フェスティバル)のアーティストもチェックするくらいには聴いていたようですね。今彼が何をしているのかは知る由もありませんが、ともかくもこの曲のミュージックビデオを見たことであのさんを目にしたのはそうですね。実際にはどこかでもう一度顔を見かけて、その結果としてあのさんの顔に紐づけられていたこの曲を思い出し、改めてその人が誰なのかということを思い出すという過程を踏む訳ですが。良い曲だと思うのですが、如何せんこの後にどうすれば良いのか解らなくなってしまった。

RPGSEKAI NO OWARI(2015)
5年前くらいの曲かと思っていたら3年前の曲だった。普通に聴いた。SEKAI NO OWARIが当時は新曲が出たらひとまず聴いてみるという対象だった。多くの人にとって。普通に好きな曲であった。『Dragon Night』以降正常な受容がなされなくなってしまった感があるのはやはり少し残念なところではあるしそもそも『Dragon Night』自体は別に好きでも嫌いでもないのだが、どうしてこのような現在にいるのだろうと今でも思わないことはないでもない。

Blue Jasmine/米津玄師(2015)
アルバム『Bremen』の最後に収録された曲であって当然それを買ったときに聴いたのだろう。米津玄師を(ハチを、でなく)初めて聴いたのはいつだったでしょうか。何らかのきっかけで『diorama』が出た直後に『vivi』を聴いて大いなる衝撃を受けたことは確かに記憶している。その時に繰り返し聴きすぎたせいで『vivi』の方も今でもあまり聴けないのでしたが、いやそうなることは解ってはいるのですがね、そういう聴き方しかできないのでそうなってしまうのです。『Blue Jasmine』に関しても残念ながらそうですね。聴いているうちにこの人は何を歌っているのかということが解らなくなってしまう。

そのような理由により音楽を聴くということは痛みに満ちている訳ですが、別に痛みがないのであれば音楽を聴いたりすることはないということです。

主義-否定-詭弁

世界-内-存在みたいな。

明けましたね。2月ですね。明けましたねなんて言うのは2018年最初の更新だからなのですが、すでにもう1月が手元にないということでどうにもやり切れない状態にある訳です。

そんなことは基本的にどうでもいい訳です。言いたいことは言いたいことのような形で存在するので、それを適切に言葉の形にするのが言いたいことを述べる上で問題になる訳です。どうでもいいことなど何もないということを未だに信じつつどうでもいいという言葉は簡単に使える訳ですが、それは結局おそらくのところ、私が信じていたのは「どうでもいいことはどうでもいい」ではない、ということだからなのでしょう。

別にそういう話をしたかった訳ではないのでした。

つまり何が言いたいかというと、大学生というのは、否、自分に凝り固まった人間というのは、どうにも厄介な生き物だということだということです。初めにお断りしておきますが、もし自分のことを言われているような気がして不安になったりなんなりした場合は、その通りです。あなたのことです。あなたがそのようであることが実に下らないことだと私は考えています。そのことについてどうにかすべきだと考えています。そう思ってください。そうしてそれは決してあなたのことではあり得ません。私は誰のことも考えていないのですから。自分のことを言われているなどと決して思わないでください。どうか。

あなたがそのことをそう思っているから正しい、と、そうあなたは言っています。そうしてそれは正しくないと私が今言っています。具体的に述べましょう。あなたは何かをします。あなたでない何かはあなたのとは違う仕方で何かをします。あなたでない何かはあなたの仕方に首を捻っています。あなたは首を捻られています。あなたでない何かとは違う方法であなたは首を捻っています。それがそのように続きます。別に続く必要はない訳ですが、その方が面白いので首を捻ってください。別にそうしてほしいとかそういう訳ではありません。あなたは驚きます。驚いたあなたは、私がこのように何かをしていることはあなたには関係のあることではないのだし、私がするこれの仕方にあなたがどう思うかということは、あなたにとっての私の思いと同じくらい気にされるべきでないものです、と言います。そうしてあなたは別に何かの仕方や首の捻り方に対して何かを思っていた訳では全然ないのでした。でもあなたは、生きていることを否定されるのが理不尽なのとそれ、あなたの自然なやり方を否定されること、それは非常に似通ったものであるように思います。あなたの自然は私の自然ではないのだということに気が付いたように思います。そうしてあなたは自分を自然なものだとみなし、そうして主義を作ろうとする訳です。主義であるから否定されるべきものではないのだと、そう言うためにそれを主義とする訳です。

ここで最初に戻るのでした。あなたは、あなたがそう思っているから、そういう主義を抱えているから、それは正しいのだということを言っています。勿論、相手も同じくらい正しいことを––それはつまり、どちらもが全然正しくないということですが––を言っている場合の方がはるかに多い訳ですが、それでも問題はそのように現前する訳です。そうして、主義だから正しいというのは詭弁であるという訳です。人生の問題ではないものを人生の問題にしてしまうことが詭弁であるように、幸せになるのは良いことかと聞かれて私は幸せになどなりたくないと答えるように、それはそのような問題ではない訳です。それに気付いてほしい訳です。実際はどうでもいいのかも知れませんがしかし、ほしい、とは書く訳です。その程度です。

繰り返しますが、これはあなたの話であって、全然あなたの話ではないのでした、ということです。

終わりのあとについて

別に2017年は勝手に終わればいいと思うし止めたりはしないのですが、問題はむしろ2018年が始まることにあるのではないですかね。年というものの一回性が薄れるのは次の年も似たような顔をしているせいであって、終わることに対して感傷などを抱いていられるのは始まるものがあるかということに何となく期待しているからでしょう。

何が書きたいのかといえば、出来事が生起してしまえばそれはつまり終わりではないのかといえばそういう訳では全然なく、むしろ終わりのあとに出来事が次々と生起するにしてもそれが決して前の出来事のような顔をしていないということに気づくという形式が存在するのであって、それがつまり終わりのあとであり、だから終わりのあとは静謐ではないということでは別になくてですね、つまりそうした雑多な形式内において常に存在してもよいものは何かということでも同様にない訳です。

そうしたところで検討に付されるべきはむしろ終わりのあとと終わりではどちらが終わりなのかということになってくるのであって、全体にそういう風に星が降ってくれば終わりは良いように終わりになるということがまず前提とされます。では星が降ってきたとしてクレーターがやや良い感じだななどと考えながらクレーターの周りを歩いている訳ですが、不思議なことにはもはや二度と星が降ってくることはないでしょうということにクレーターを眺めながらでも意識を失いながらでもいいですがふと気づくことになる訳です。それが終わりであって終わりのあとの存在条件であり、寝て起きたあとにもう二度と寝ることはないのだと気づくようなことを経験することと、眠りにつくことを経験したかもしれないことと、そのようにして終わりは与えられるでしょう。一向に星が降るのがやまない世界で星を打ち返すために素振りをする人がいるのは終わりであり、それを眺めている方から終わりのあとが生起する訳です。

これ以上出会える人もいないのに寂しいのかどうかはよく解らないということに気づいても気づかなくても別にいいのですが、ともかくそういうことを言ってみて何となくそういう気分になるのは別に間違ってはいない訳です。ピンチに陥った時に助けに来てくれる何らかのデウス・エクス・マキナがあっさりと敵に粉砕されるのと、それともそんなものは来ないということに驚くほど気づいてしまうことと、どちらが終わりのあとでしょうか。

終わりのあとで生きていくのは別に全然簡単であり、シャープペンシルの芯をそのまま使って文字を書いている場合それはシャープペンシルでも芯でもないわけですがシャープペンシルの芯ではあるといったことと同程度には終わりというのはくだらないものになってくる訳です。幽体離脱をした上で寝ている自分を上から眺めたいという欲望をどのくらいの人が持っているのかをフェルミ推定するのが楽しいかもしれない訳です。

終わりのあとは終わりから始まるという言い方はある程度面白く、始まりのまえは始まりで終わるというのは全然面白くないです。共産主義になってしまったらこれ以上進化できなくてつまらないからもう少し資本主義のままでいようといってマルクスと楽しげに暮らすことが全然不可能であるように、終わりのあとは面白くないのに終わりはとても楽しいのでしょう。今が始まりのまえではないのだとどうしようもなく気づいてしまうということが終わりのあとであって、今が終わりのまえではないということに気づくことと似ているように思いたくなります。

ロストテクノロジーにもう二度と手を伸ばすことはできないのだと気づく訳です。

であるからしてもう少し雪が降った方がバランスが良いのではないかと思う訳ですが、しかしながらどうにも年は明ける訳です。

どうか来年も頑張って何らかの無をしてください。お疲れ様です。

左利きであるとはどういうことか

少し個人的なことを書きます。とはいえ「考えごと」カテゴリに位置する時点である種個人的なことではあるのですが。

先だってこのようなツイートをしました。

「右」の定義を「箸を持つ方の手がある側」と書いてしまって痛くも痒くもないのがマジョリティであるということです。そんなものです。

以前にはこのようなツイートをしました。

小さい頃は「自分は不器用だからパンケーキも上手く返せないし改札でももたつくんだ」みたいに思っていたのだが、左利きだからだと気付いたときにはちょっとイラっとした。

またこのようなツイートもしています。

結局人の気持ちなんて実感できないと思うんですよ、性差別まで行かなくても、車椅子体験でも毎日の地下鉄の乗降の大変さは解らないし、学校で貸出しているハサミが全て右利き用だったときの絶望感とか、実感できないのは鈍感ではなく当たり前だから、むしろ自らの想像力の貧困さに思いを致すべきだと。

これらは全て左利きに関する話です。そうして念のため表明しておきますが私は左利きな訳で、それに関する話を(自分の中で論点を分散させないために)しようと思います。一つ前提として、私には「右利きであるとはどういうことか」が解りません。また、私は野球で打席に立つ際は右打席に立つので、厳密に言えばクロスドミナンスです。

まず、先だってのツイートをした経緯についてですが、直接のきっかけはこの記事を見たからです。

「右」って定義できますか?画像は禁止で。【あしたはげつようび】 | quizknock

この中に、

よく聞くのが「お箸を持つ方の手」。これではだめだろう。宇宙人は左手で米を食べているかもしれない(そもそも宇宙人がお箸という文化を持っているかも怪しい)。

とありました。言いたいことは大体解ると思います。一応述べておきますが、この記事は良い記事だと思いますし、引用部分の記述に修正の必要があるとも思いません。ただ単に、「宇宙人は」か、ふむ、と私が思ったというだけです。

まあ左利きであるとは概してそういうことです。悪意よりもそういったことで気づくことの方が多いし、悪意でないから責められるものでもなければ私に責める気がある訳でもありません。少し解りやすいエピソードとしては、私が小学生だった頃に友人の家に遊びに行き、そこで友人の恐らくは祖母に当たる人物に左手での食事を咎められた、という記憶があります。より正確には、右手での食事を推奨された、ということです。そういうこともあります。その時は戸惑っただけでしたが、もしも何度もそういったことがあればスティグマ化していただろうことは想像に難くありません。

幸か不幸か世間的には左利きを羨ましがる風潮も存在し、そのお陰でスティグマ化は避けられています。ただ、混乱はします。自分の器用な手が左手であるということが他人にとってどのような意味を持つのかはよく解りませんでしたし、今もよく解りません。それは私が右利きではないからで、恐らくただそれだけです。スティグマ化はしませんが、アイデンティティ化はします。右利きの人は多分、右利きなんだね、と言われたことはないと思います。別に、左利きなんだね、と言われることが嫌であるとか不快だとかそういうことではありません。強いて言えば大体において慣れたので特に何も思いません。羨ましがられると多少混乱はしますが。

時々、なおされなかったんだね、と言う人もいます。「なおす」に相手がどちらの漢字を当てているのかは解りませんし、「なおす」という響きには少し釈然としないものもありますが、まあそうだね、と首肯するだけです。だからどうという訳でもなく、別にその言い方に取り立てて深い問題があるとも思いません。まあ解りやすい言い方だろうなあと思うだけです。

今はそんなに左利きであることを主張したいとも思わない訳ですが、地球人だって左手で米を食べるよなあということをわざわざ書くくらいの気持ちではあるということではあります。まあそもそも、宇宙人に手があるのかどうかという話もありますしね。一々そういう細部に拘っていてどうにかなるようなものではない訳です。ただまあ、時々透明にされるというのは、ちょっとした恐怖を伴うものではあるということだけ書いておきます。以上です。